蓮實重彦『映画時評 2012-2014』

日曜日。雨。
ひさしぶりに夢を見たというか、正確には夢を見たのを覚えていたのだが、たぶんあまりよくない夢。起きて精神的にどこらあたりに居るのかわからない。安永祖堂老師によると、井筒俊彦先生は、(神秘主義的な主客未分よりも、それを)上から包み込むような「全体的意識フィールド」と、その活作用の方が遥かに重要だと書かれているそうであるが、それはほんとにそうで、で、わたしなどは寝るだけでその「全体的意識フィールド」からよく外れてしまう。
 
午前中は特に何もせず、何日かぶりで頭がカラッポになった。
 
昼。
NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第一番 BWV812、第二番 BWV813 で、ピアノはアンドレイ・ガヴリーロフNMLCD)。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第二番 BWV1004 で、ヴァイオリンはトーマス・ツェートマイアーNMLCD)。かなり崩した、一般的でない演奏だが、だからといって真摯でないわけではない。シャコンヌなど、感動したといったっていい。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三番 op.2-3 で、ピアノはファジル・サイNMLCD)。
 
思想としてのモダンは、「過去(古典古代)よりも現代の方が優れている」という発想に端を発するということを浅田さんが仰っていたが、さすがに博学で独創的な把握だと思う。こう考えると、モダンの終焉とは、そのような発想が信じられなくなったということで、きれいにポストモダン概念に繋がっていく。ということは、理性を重視する、いわゆるファクトフルネスへの信仰、理性(あるいは科学)をベースにした漸進的改良主義というものも、モダニズムの一種として捉えてよいわけで、そのような論者たちの保守的な傾向(=漸進的改良主義)も、よくわかってしまう。おもしろいな。
 
 
雨の中、珈琲工房ひぐち北一色店。コーヒーチケットを買う。
『逝きし世の面影』の続きを読む。目に涙をためて、喫茶店だからこらえながら読まざるを得ない。思っていたより遥に衝撃的な本で、もっと前に読むべきだったな。考えるべきことが無限に出てくる。渡辺京二さんはひとつの文明が失われたと書いておられるが、具体的に我々は何を失ったのか。本書は慎重ながらもかつての日本の特殊性を記述しているが、ここで記録された日本の民衆の姿は、ある程度普遍性があるとわたしは思う。つまり、「無分別知」によって生きる、民衆の姿だ。これに関しては、日本だけ特別ということは信じられないし、また著者の意図でもあるまい。
 いまの日本の民衆はもちろん「無分別知」などで生きていないし、例えば中村哲さんが記述している、アフガニスタンの山奥の村人など、いまの我々よりも本書の記述に遥かに近い人々だと見做さざるを得ない。
 しかし、中村哲さんにしろ、石牟礼さんにしろ、渡辺京二さんにしろ、九州の人というのはたぶん偶然ではないだろう。中村哲さんは、「トウキョウを撃て」と書いておられたが、よくわかる。ついでにいっておけば、そのトウキョウ=日本なのである。
 
 
夜。
図書館から借りてきた、蓮實重彦『映画時評 2012-2014』読了。わたしは映画のことは何も知らないが、おもしろかった。時評部分を読んでいると、観る気もあまりない映画が観たくなってきて、U-NEXT で検索しては結構な数の作品を「マイリスト」に入れた。まあ、PC や iPad mini の画面で観るそれを、「映画を観た」といわないことは承知しているけれども。また、どうせ観たところで、映像の物質性よりは、「お話」として低級に観るに決まっている。
 対談、鼎談部分は(わたしが貧しすぎて)ついていけなかったので、拾い読みした。たぶん、これが理解できる日はわたしに訪れないような気がしている。

 
転生したらスライムだった件』第14話まで観る。人気作だけあってまあまあおもしろいな。スライムのリムル、むっちゃ俺TUEEEじゃん、爽快でないこともない。しかし、話としては単純真っ直ぐで、アニメらしい屈折には乏しいかな。優等生すぎるというか。