モダンの安定性は幻想たること

晴。
 
NML で音楽を聴く。■ショパンの練習曲集 op.10 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニNMLCD)。わたしの出発点のひとつがこれであったことを考えると、果たしてそれがよかったのか、いまだと複雑な気分になるな。わたしなどはこのモダンの究極の到達点の、不可能かも知れないがそれでも素朴にその先を目指して進んでいくという生き方に疑問をもっていなかったのであるが、いまの世代がこれに接すれば、絶対に倒せないラスボスに遭遇してしまったという絶望を感じるかも知れない。いや、おそらくそれを感じることのできる感性をもっていないかも知れないし、そもそも「はじまりの町」の近くで低いレヴェルのまま楽しくやっていくというのは悪いことでもない。って、どうでもいい、おかしなことを考えたものだが。

現在というのはいわゆる「サブカル」がじつはサブカルでなく、実質的にメインカルチャーであるわけだが、わたしがサブカルエンタメに(少しだけ)接していて思うのは、それがモダンから見てほとんど「意味」や「目的」というものを欠いていることだ。サブカルエンタメには意味がなく、「快感中枢」「快楽中枢」の操作というと大袈裟だが、おもしろさ、楽しさ、気持ちよさ、ワクワク、興奮、感動、ナルシシズムの充足、何でもいいが、そうした一元的価値観によって染められ、究極的にはただ時間がつぶせればそれでよいという風に作られている。モダンは安定性をもつが、それはつまり流動性がないということで、固定化して希望がない。ゆえにサブカルエンタメはモダンの堅固さを嫌い、それとは別個のマトリックスを開拓して生の安定を破壊する。確かなものはなくなり、破壊されたモダンの断片(社会はまだモダンで廻っている)とニヒリズムを抱えながら、我々は生きていくことになる。しかし、それを否定的に捉えることはもはやできない。むしろ、モダンの安定性が幻想だったと見做すべきである。
 
■バッハの無伴奏チェロ組曲第二番 BWV1008、第三番 BWV1009 で、チェロは藤原真理NMLCD)。
 

 
昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー418円。いやあ、ミスドの中は震えるほど寒くて、しかもやはりオミクロン株が気になり、テキトーに切り上げて帰ってきた。もっとも、往復一時間田舎道をドライブして頭をカラッポにするということもあるので、まあいいのだが。
 『社会思想としてのクラシック音楽』の続き。複製芸術の鑑賞におけるアドルノ主義とでもいうべきものを、どう捉えるかというのは興味深い。アドルノからすれば、わたしのような地ならしされた「平民」が録音だけで音楽を語るなど、音楽を冒瀆し低レヴェル化させる許しがたい行為であることになろう。あはは、グウの音も出ません。まあ、アドルノなどは、頭のいい精神的貴族が読んでいればいいので、「平民」はカスといわれてもどうしようもないのであるが。さて、アドルノだったら、例えば演奏会を拒絶して録音に第一の価値を見出した、グレン・グールドのディスクをどう評価するか、なかなかおもしろいところだと思う。
 ちなみに、アドルノは作曲家でもあったが、NML だとアドルノの音楽は多少聴ける(参照)。ただし、アドルノだけのディスクはいまのところない。わたしはアドルノ弦楽四重奏曲を聴いたことがあるけれど、複雑で、かつ「エロス」がないという意味できわめて退屈な作品だったことを覚えている。といって、わたしが正しく聴けているかは何ともいえない。
 
もしアドルノがいまの日本のアニメを見たら、冒頭五分で怒り狂って、あるいは冷たい軽蔑の目つきで、あるいは軽く肩をすくめて遮断するだろう。愉快なことである。