我々は(精神的に)貧しいのか(といういつもの疑問) / 岐阜市民会館にて落語会

曇。
 
大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。タコスミート&チーズパイ+ブレンドコーヒー415円。
渡辺京二さんの有名な『逝きし世の面影』を読み始める。元本刊行が1998年で、そんな最近の(?)書物なんだと思った。先入観として、かつての懐かしきよき日本人について記述してある、懐古的な書物というものでわたしはあったのだが、読み始めてみると、恐ろしく知的で、論争的乃至戦闘的な書物なのでだいぶ驚いた。いきなり、サイード(のオリエンタリズム概念)や、他の日本の「知識人」「インテリ」に対して殴りかかっている。
 まあ、それはよい。やはり「かつての懐かしきよき日本人」についても記述されているのはまちがいなく、何というか、(感情的に)泣きそうになるのであるが、一方で頭がものすごく回転してくる。個人的な、「日本人はダメになったか」問題だ。ま、それをアカデミックに、定義し定量的に調査し統計的に分析し考察する、なんてことに興味はないので、ただ、なんつーか、わたし自身がレヴェルが低いのだけれど、まあそれだけならわたしのみのどうでもいい問題なんだが、その根は、歴史に名を残すこともない一般人(わたしはこれに入る)から、ハイ・カルチャーの才能ある有名人にまで繋がっていて、すべてにおいてどうしようもない(精神的な)貧しさを構造的に共有しているのではないかという、そんな疑いがある。そこに、この本の射程が及んでいる、という確信があって、って、うまく言語化できないけれどね(テヘ)。

そうねー、わたしなりの苦しい言い方でいうと、広い意味での「モダン」が壊れてきていて、グラグラした土台の上に立派な構築物を建設しようとしているという感じがするが、でも、それは日本に限ったことではないし、日本の若い人たちの生きづらさみたいなものと繋がっている気もするが、まあ論理的に言語化することはいまのわたしにはムリで、結局、新しい土台の建設というのは吉本さんとか、中沢さんとか、あんまりアカデミックと思われていない人によって孤独に行われてきたというところで、ま、わたしごときに何ができるのかというムリゲー感しかない。わたしなんかがホッとできるのは、下らないアニメでも観ているときくらいで、それも全然「正解」かどうかなんてわからない。浅田さんのように圧倒的な「教養」と鋭い知性をもっていても、まあ意図的に敢てやっておられるのであろうが、凡庸な啓蒙以上のことができない。文化的状況でも、(坂本龍一さんがいっていたとおり)すべては解体された要素の組み合わせばかりで、本質的に新しいことは何もない、というか、蓮實重彦大先生がいっているとおり、「新しさへの拘泥」(アカデミズムもそれに含まれるだろう)ということ自体がモダンに束縛されていることに他ならない。いや、高度資本主義による欲望は無限の差異化による「新しさ」を永遠に求め続けるだろう。等々、ということすら、たぶん既に言い尽くされている(ポストモダン思想)。ただ残されているのは、それでも生まれてきた以上は、凡庸でもそうでなくとも、何かやってみるしかないという、一種素朴な態度のみで、そこに(特に若い人たちが)落ち込むのは必然で、そうなると「個性」や「才能」という素朴な問題に帰着してしまい、親ガチャとかワンチャンなんとかなるのかとか一方では機会の平等とか、メリトクラシー(批判)みたいな(貧しくて不毛な)ネット的議論が自動的にいくらでも産出されてくることになる。
 

 
昼から家族で、岐阜市民会館にて恒例の落語会。柳家喬太郎柳家花緑桂文珍の方々で、やはりなかなかおもしろかった。落語はいいよね。ただ、ここは田舎でかつ年配の方が主だったせいか、スマホマナーや観覧マナーの悪い人がどうしても居るんだよね、だから、噺家の方々は「やっぱり田舎はイヤだな」と思われたかも知れない。あまりいい気分はしなかった。
 
待ち時間に三浦まり『さらば、男性政治』(岩波新書)を読む。著者はアカデミズムのフェミニズム関係の人らしく、また題名からわかるように、どうしても「日本の男性が悪い」という論調になりがちの(フェミニズム)政治論である。まあ、それに対し、反論しようとは思わない、確かに我々日本の男性が、ジェンダー意識が低いことを認める。わたしも、日本でも女性がどんどん政治の世界に入り込んでいくべきだと思う。そして、そこで出会った日本の男性の古くささを、どんどん公にして糾弾すべきであろう。そうしないと、なかなか我々クソな日本の男性は変わらない、変われない。開き直るわけではないが、男の方が自発的に変わってくれる、などという甘い考えを、日本の女性はもってはいけないと思う。我々男性に対する闘争が必要なのだ。
 
 
なんか GW はいつものお気楽な、だらしがない日常とちがったので、疲れたせいか、早く寝る。