小澤征爾&大江健三郎『同じ年に生まれて』

晴。
 
何か、何もしたくなくってごろごろぼーっとしている。
 
図書館から借りてきた、小澤征爾大江健三郎『同じ年に生まれて』読了。2000年、両者65歳のときの対談集。特に大江健三郎の発言にはいちいち落ち込まされる。確かに、俺たちはいわれるまでもなくクソだ、あなたはえらいだろう、すごいね、しかし、いまさらどうしたらいいんだって感じ。まあ、この歳まで特別何をしたわけでもないわたしは、どうしようもないのかも知れんが。いや、でも、二人のいうとおり、若い人たちはたぶん我々よりはマシですよ、それはまちがいない。(やつあたり)

小澤征爾さんが音楽の根底は「悲しみ」なんじゃないかというのには大いに共感する。というか、わたしは「悲しみ」がいちばん根底的な感情、心の土台だと思っている。
 
バッハのフランス組曲第三番 第四番 ジャンルカ・ルイージのバッハ、悪くない。
 
NML で音楽を聴く。■藤倉大弦楽四重奏曲第三番「アクエリアス」で、演奏はアマービレ四重奏団、「合い」で、笙は出会ユキ、「ダッシュ」で、アルト・フルートはアンドレア・ビアジーニ、ギターはルイジ・シーニ(NML)。
アクエリアス

アクエリアス

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藤倉大の「フローティング・ファイアフライズ」で、ハープはステフ・ヴァン・ヴィンクト、「竜」で、箏は今野玲央、「さかな」で、バス・クラリネットはヘザー・ロシェ、「エレ」で、ナチュラル・ホルンはアイザック・シエ(NML)。
 
夜。
藤倉大の「カッティング・スカイ」で、三味線は本條秀慈郎、箏は今野玲央、「インフィニット・ストリング」で、指揮は佐藤紀雄、アンサンブル・ノマド、「ムーン」で、琵琶は久保田晶子、ヴィオラ・ダ・ガンバは和田達也(NML)。藤倉大は「ミナベル」という個人レーベルをもっていて、NML でもたくさん聴けることを知った。
 
モーツァルトのピアノ協奏曲第二十三番 K.488 で、ピアノと指揮はゲザ・アンダ、カメラータ・ザルツブルクNMLCD)。
 
バッハのフランス組曲第二番

ETV特集「消滅集落の家族」

曇。
 
www.youtube.com「ノルニル」聴くまでやくしまるえつこ、知らなかった。ゴメン、俺が悪かった。
 
雨。マックスバリュ。肉屋。
マックスバリュの冷房が効きすぎて寒い。
 
 
曇。昼から図書館。
 
珈琲工房ひぐち北一色店。おいしいコーヒー。『コレクション瀧口修造7』の続きを読む。
 
夜。
NHK+ でETV特集「消滅集落の家族」を観る。老母に教えられた番組で、何度もじんわり感銘を受けた。東日本大震災を体験した宮城県の若い男性が、秋田県の山奥の消滅集落(住人がまったくいなくなった集落)に移り住んで、自給自足の生活をするうちに家族ができる。その家族の一年を追った番組。子供(六歳の兄と、二歳の妹)が本当にかわいい。ただ、子供がいると、夫婦だけの自給自足生活、というだけでは済まなくなる。現金収入が必要になる、理想もかつてのものとは変わっていく、それもまたすばらしいと思う。その試行錯誤こそ、黄金の日々でなくて何だろうか。いたずらに理想視するわけではないけれど、我々の生活だって尊いのだけれど、我々が到底できないことを、やって下さっているという感じだった。わたしは外国や都会の意識高い系の人たちが(日本の)田舎にわざわざ移住して「理想的な田舎生活」を暮らす、というのがあまり好きでないのだが、この人たちの生活は寡黙でさりげなかった。子供がいることも、あるのだろうなと感じる。
 
 
ひさしぶりに『本とみかんと子育てと』の続き。ようやく三分の一くらいか。きっと最後まで読もうと思っているのだが、膨大な日記でなかなか進まない。でも、中身はじつにおもしろいし、実質のある生活を送っておられて、心底感嘆する。ほんと、わたしもクズなりにやれることをやろう。

昼から美術館めぐり

晴。
あざやかなパッチワーク状の剥き出しの大地を歩く、始原的な夢を見る。それが実際と全然ちがうのに、散歩でもするような近所だというのだ。たぶん空は青く、雲は白く、とにかく爽快な感じだった。山もあり、川もあった。川には橋が架っていたかも知れない。
 

 
部屋に閉じ籠もっているとよくないので、ひとりでドライブがてら、昼から美術館めぐりをしてきました。
いい天気の下、まずは愛知県稲沢市の、荻須記念美術館へ。高速を使って40分くらい。二度めの今回は特に一般展示はなく、常設展のみで310円でした。荻須高徳はいわゆる近代絵画で、まあ特別に突出した才能というわけでもなく、題材もほとんどがオーソドックスな風景画である。でも、近代絵画は我々の出発点で、こういう「モダン(近代・現代)」をしっかり身につけて生きるか、それとも時代に与えられたものだけを吸収して「才能」だけでふるまうか、そこがいまの分かれ道であろう。現在の若い人たちは、基本的に後者なのだろうな。

エントランス横にたまたま咲いていた、サルスベリ百日紅)。

荻須のアトリエを復元したもの。

奥から入り口を見る。

前はメナード(後記:正確にはダリヤ)の工場。
 
(愛知県の)一宮市へ戻って、三岸節子記念美術館へ。ここはこれまで何回か来ている。2021.9.15 の石本正生誕100年回顧展は見ごたえがあった。

「絵本原画ニャー!猫が歩く絵本の世界」だ! これはめっちゃ楽しい。猫絵本の原画展ですね。いろんな個性があって、商業的な「小さい個性」というものを考えさせられる。まさに、才能だらけだ。「現代は才能にあふれている」ということをあらためて思う。一般800円。
 
濃尾大橋を渡って岐阜県に入り、岐阜県美術館へ。

今回は取り立てて大きな企画展はなし、名品展340円。何度も観たものばかりだが、やはりさすがによいものがある。ここが収集しているルドン多数が、本日いちばん見ごたえがあるということになってしまった。「いろとかたち-工芸・立体を中心に」展、IAMAS ARTIST FILE #08 福島諭「記譜、そして、呼吸する時間」も観る。福島諭は岐阜県大垣市IAMAS の博士課程という、つまりは学生らしい。前衛すら意味を喪った現在にあって、アートに従事するのは本当にたいへんだ。若い人には、がんばってほしいと思う。わたしは古い人間なので、アートもつまるところは個性*1なんじゃないかと思っているが、でも、そういうのも既に陳腐な言葉なんだよね。それとも、現在のコンテンツはすべて「効果」に帰着するのか。わたしのような未熟な田舎者が考えてもしかたがないことだけれど、ほんとむずかしい。

外の世界が美しい。
 
 
夜。
輪るピングドラム」第18話まで観る。

*1:ちなみにここでわたしが「個性」といっているのは、例えば「みんなちがってみんないい」みたいなそれではなく、すべての「自分らしさ」を破壊し尽くしたところに現れるもの、みたいな。

玄侑宗久『ないがままで生きる』

曇。
 
台風が近づいているせいか、不穏な風が吹く。
 
図書館から借りてきた、玄侑宗久『ないがままで生きる』読了。一度読んでいて、再読なのだな。

 

 
山崎佳代子さんの『そこから青い闇がささやき』(文庫版)を読み始める。50ページほど読む、涙なくしては読めない。しかしこの1991年に始まるユーゴスラビアにおける戦争、そもそも何と呼んだらよいのか。Wikipedia の項目に従って、とりあえず「ユーゴスラビア紛争」としておく。わたしが学生のときに起きたものだが、あまりはっきりと覚えていない。国連制裁や、NATO による空爆が実施されたというのも、後づけの知識かも知れない。あまりにも知らないのでとりあえず Wikipedia をいくらか読んでみたが、これでは到底何もわからないという印象である。本書の世界と Wikipedia の世界が、あまりにもちがうからだ。Wikipedia の記述はあるひとつの「正義」を中心に書かれているようである。なるほど、山崎さんは戦争で世界から「悪者」にされたセルビアベオグラードに住み、国連制裁や NATO空爆も体験した、と。それで少しわかってきた。
 
戦争で民衆が死ぬ、殺されるということ。昨日まで仲良くしていた人たちと、殺し合うということ。どうしても、いまのウクライナ戦争のことを思わずにはいない。
 
夜、雨。
山崎佳代子さんの続き。イボ・アンドリッチというユーゴスラビアボスニア)の作家を読んでみたくなり、図書館サイトで検索してみる。何冊かはあるようだ。
イボ・アンドリッチ『イェレナ、いない女 他十三篇』訳者解題(text by 山崎佳代子)|幻戯書房編集部|note

こともなし

晴。
早起き。解熱剤を飲んで寝たせいか、ふつうに寝られた。
わたしは高校生で、勉強もしないで成績が下がっているのに、大言壮語しているという夢。高校のときの友人も出てきて、そこはなつかしかった。頭がよいとか成績とか、貧しい夢ではあるが、そんなことをいまだに自分で気にしているということだな。大人になっても頭がよいとかどうたら、あまり気にしたくはないことだが、子供にとって「勉強ができる」とか「成績」とかは、本当に心配事である。メリトクラシー批判とかも行われているが(周知のごとくサンデルなどがよく読まれている)、そもそもそういう議論ができるのが、頭のいい人でないとむつかしくなっているわけで。それで(あまり関係ないが)思い出したのだけれど、最近のフェミニズムはむずかしすぎて、論者が高学歴化しているっぽいのが草。結局フェミニズムも、頭のよい人が下々に分け与えてやるという構図を拭えないのか知らん。
 
ま、わたしはといえばごろごろぼーっとしすぎて、アホになっているだけなんですけど、ハハ。
 
 
ドラッグストア。マックスバリュ。肉屋。
二日間寝ていたら脚が弱った。まだ暑くて、なかなか散歩できないな。秋めいてきたのは確かなので、そのうち歩けるようになるだろう。
それにいくらインターネットがあっても、部屋に閉じ籠もっていると頭がおかしくなる。世界が自分の脳内の情報だけで完結するように思われてくる。ま、でも、これは人によるかも知れない。
 
 
ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー429円。『コレクション瀧口修造7』を読み始める。月報の赤瀬川原平さんの文章に感銘を受ける。赤瀬川さんは例の「千円札裁判」の件で瀧口さんに面識を得たそうだ。というか、困り果てて頼み込んだというのが正確らしい。そしてここで瀧口さんの印象を書こうとして、うまくいえない。言葉というよりは、人柄の人、存在の力、「あいまい」の人。そんなことをいって、「困りますよ瀧口さん」と、赤瀬川さんは匙を投げている。わたしも、文章を読んだだけだが、何となくわかる。瀧口修造の言葉の力もすばらしいけれど、とにかく文体を通じても、どこか純粋さと底知れぬ奥深さをもった人格を感じる。たぶん、そこにいるだけで、誠実な魂の力が感じ取れるような、そんな人だったにちがいないと、想像されるのだ。何者でもない人といえば褒め言葉に聞こえないかも知れないが、瀧口修造は極少数者のための、偉大なる「何者でもない人」だったのではないかと、わたしには思われる。いまでは、もうこんな人はいないといえば、蛇足だろうか。

 
まだ34℃あって散歩にはつらいが、木陰なら歩けるかと思って三井山公園を訪れてみた。10分あまり歩いただけだが、思ったよりもずっと解放感があった。以下は平凡写真。








 
帰りにカルコスに寄る。念頭にあった岩波文庫カール・シュミット)と新書本は共にあらず。ちくま文庫新刊の山崎佳代子さんと、これは店頭で見つけた山下裕二さんの新書本を購入、これはひさしぶりに納得のいく買い物でした。
 
 
夕飯のための米を研ごうとして計量カップで計ったところ、4分の1カップ分、床にぶちまけてしまった。大失敗笑。
 
夜。
輪るピングドラム」第15話まで観る。うーん、だいぶ見えてきたが…、どうなるんだ、これ? すごいな。

ソール・A・クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』

日曜日。曇。
昨晩、計っていないけれど、ワクチンの熱がかなり出たのではないか。なかなか眠れず輾転反側、しんどかった。明け方になってラクになってくる。
 
午前中、眠る。
 
昼寝。
脳みそカラッポで、とてつもなくバカになってる。
 
 
ソール・A・クリプキウィトゲンシュタインパラドックス』読了。読んでわたしにクリアに理解できたかは疑問だが(笑)、この手の独我論と結びついた言語哲学的アプローチは、わたしにはほとんど興味がないな。独我論というのは、所詮インテリの罹る病にすぎない。我々は他人がどう受け取るかを(無意識にせよ)考えて、言葉を発したり文章を書いたりするものだ、たとえそれがまったく無意味な「発声」であっても。2, 4, 6, 8 と来て、さて次には何が来るでしょうというとき、10 がこないような規則を考えることもできる、というのだが、それはそうだけれど、だから何なのという感じ。まあ、いいんだけれどね、そういうのも。

しかし一方で、すべての個々人の「発声」はある程度の「私的言語性」は拭えない。意味は文脈によって伝わるしかないから、個々人によるゆらぎは已むを得ない。また、個々人の使い方によっても、言葉の内包的意味は不断に創造される。ソシュールのいう「ラング」などは、極限的理想状態なのである。
 ウィトゲンシュタインからは、「比喩」というものが抜け落ちている気がするな。彼は、言葉にとって「真理」とは何かということに拘ったわけだが。「真理」とかいうと、意味は固定化されざるを得ない。「真理」と無色透明な言葉。
 
 
夜、再び発熱。
 
安永祖堂老師を読んで寝る。

玄侑宗久『お寺からの賜り物』

曇。
 
朝イチにかかりつけ医のところで、四回目のコロナウイルスワクチンの接種。三回目と同じくモデルナ社のもの。これまでは集団接種だったが、個別接種でも特に変わることなく受けられた。前回は副反応として発熱したが、今回は何もないといいけれど。今日はおとなしくしているつもり。
 
夕方。図書館から借りてきた、玄侑宗久『お寺からの賜り物』読了。玄侑さんはあなどられているようにも思えるが、そんなこと、御本人はもちろんまったく気にかけておられないであろう。わかってない者がもてはやされるというのは、いつの時代でも同じことである。まともな人がインターネットの外に居ることをわたしは疑わないが、それもいつまで続くことであろうか。て、天に唾する態度か笑。

まあしかし、人間おりこうさんにバカにされるくらいでちょうどいいのだな。
さても、否定神学的に褒めちゃいけないよね。
 
夕食前に熱を計ってみたら、少し出ているな。前回もだったし。左腕にも痛みがある。
 
夜。
ブラタモリ」も観ず、早めに休むことにする。