関市板取の「モネの池」へ

晴。暑い。
昨晩は中沢さんを読んで寝た。

ごろごろ。

スーパー。

暑くて散歩もできないし、ごろごろと部屋に逼塞してばかりでは煮詰まってくるので、ひとりでちょっとドライブしてきた。一応の目的地は、SNS で有名になった、関市板取の「モネの池」にする。車で一時間二〇分ほど。外は35℃を超える酷暑である。

岐阜市から国道256号を北上。山県(やまがた)市を経由して、関市の洞戸へ。道の駅「ラステンほらど」に寄る。


「ラステンほらど」の裏から撮ったもの。もう山の中。なお、関市は「平成の大合併」で、非常に不自然な形で洞戸や板取を含んでいるので、方向感覚がおかしくなる。

板取川沿いに上り、到着。まずは板取川を見る。


田舎である。

ここからがいわゆる「モネの池」。近所の人が知るだけだったのが、SNS で名所に。駐車場には遠くから来た車が目立った。










小さな池だが、やはりそれなりにフォトジェニックである。わたしはテキトーに撮ったが、腕に覚えのある人が粘れば絵のような写真が撮れるだろう。

駐車場に戻って、板取川の河原に降りてみる。川に入っている子たちがいるな。

帰りは国道256号をさらに北上し、タラガトンネルという長ーいトンネルを抜けて郡上市へ。国道156号の美並ICから東海北陸自動車道に入り、一気に戻ってきた。帰りも行きと同じく一時間二〇分くらいで帰れた。合計100kmあまり走ったかな。ああ、すっきりした。

こともなし

曇。すごく蒸し暑い。

朝食後にうとうとする。すっきり。

いまの日本の歌を聴いていて、「存在証明」という言葉が散見されることに気づく。我々の時代の歌にはあり得なかった言葉だろう。自分の存在をロジックで肯定して欲しいということなのだろうか。また、文脈を無視した唐突な「愛」という言葉の使用。まるで空疎な(あるいは悲痛な)叫びのように聴こえなくもない。結局、愛がなければ己の存在をロジックで肯定するしかないということなのかも知れないが、その解釈が当たっているとは自分でもあまり思わない。なお、「神の存在証明」というのはキリスト教神学においてなされ、中世スコラ神学では大切なことであるが、近代のカントは「神の存在証明」をアンチノミーによって否定した(『純粋理性批判』)。そのロジックはまちがっているという学者もいるけれど。

あー暗え暗え。いやだねえ。

ごろごろ。

かつて中沢さんが「超薄」(アンフラマンス)ということを仰っていたが。平面を作るということ。元々はマルセル・デュシャンの用語らしい。

夕方、皮膚科。持っていった健康保険証の期限が切れていることに気づかず、新しいのを取りに帰る羽目に。マヌケだなあ。

こともなし

曇。
長時間睡眠&寝坊。どれだけでも眠れる。

いまの時代、土台をおろそかにして高く舞い上がりすぎって気もするな。イカロスのように失墜しなけりゃいいけど。そもそも、誰もがそんなに高いところに到達しないといけないのだろうか。空気が薄くって、自由に動き回りにくいのに。生命は大地にある。

ぼーっとしてからごろごろ。

結局我々平凡な市民は、政治に翻弄されるし SNS にも翻弄される。そして、我々無知な市民の SNS は、また大波となって他人を翻弄する。さてさて、わたし程度の粗雑なおつむでは、どうしたらよいかわからない。

昼から酒屋。ビールのカラ段ボールケースを一つもらってこいと云われていたのに、すっかり忘れていた笑。
酒屋の前の道の街路樹がサルスベリで、きれいに咲いていた。花の期間が長いしな(だから「百日紅」と漢字で書く)、あと強いのかな、街路樹として結構見かける。

コメダ珈琲店各務原那加住吉店。ミニシロノワール+たっぷりブレンドコーヒー890円。高カロリーだけれどシロノワール、食ったった。
 オーウェルの『葉蘭をそよがせよ』の続き。おもしろくなってきた。お金の問題。お金がなくては、腹はすくし、ミジメだし、女も寄ってこないし、インスピレーションも湧かない、と。そのとおりだが、さてオーウェルがそんな単純な(?)問題を取り扱うのだろうか。興味津々。
 お金は「第六感」のようなもので、これがないと他の感覚が働かないといったのはサマセット・モームだ。確かにふつうの人には、最低限まもとな暮らしができるだけのお金が必要なのはまちがいない。あとは、お金に関しては誰もが一家言あるので、なかなか語れないのだよね。精神分析学に拠れば、お金は糞尿と関係づけられている。オーウェルはどうこの先続けるのかな。ブルジョワの心やさしいマルクス主義者が登場したけれども。彼にミジメなインテリ主人公は毒づくのである、年収〇〇以上の人間は敵だと。その彼のお金で、主人公はパブで酒を飲むのだが。

第567回: DaiGo氏の発言とコロナ禍で深刻化する貧困、そしてこれまでの生活保護をめぐるあれこれについて。の巻(雨宮処凛) | マガジン9
たまたま今日更新された雨宮処凛さんの連載を読んだのだが、お金はまず必要なところに使うべきだと思わざるを得ない。また、森永さんのこれも今日の更新だが、わたしには正論に思える。わたしにはむずかしいことはわからないが、何か、いまの日本の現状がひたすら悲しい。センチメンタルな愚者の悲しみである。
 専門家・知識人たちはお互いに殴り合っていろいろ立派なことをおっしゃっており、ついでに民衆は愚かであると(暗黙に)見下すのを忘れない。まったく立派であるなあ。また民衆もそういう立派な人が好きだったりする。

鈴木大拙を読む。大拙は「分別計較(けきょう)心」を働かせてはいけないというが、むしろ、「分別計較心」を解体してしまうというべきなのではあるまいか。現代にあって理屈を見ないことは不可能であり、それによる怒りや苦しみも不可避であるから、その怒りや苦しみをいちいち解体すること。根を絶ってしまうこと。ちがうかも知れないが。
 世界が理屈で覆われていくのは本当につらい。そして、それが正しいとされるのもさらにつらい。オレって頭いいごっこ。浅い幼稚な感情がぶつけ合われているのも、その上に高度な理性が発動しているのも、何も言えなくなってしまう。未熟である、わたしは。
 わたしは理屈でなく、「分別に基づかない思想」が欲しい。底の底まで徹底して考え抜かれた思想だ。つって、わからないよね、そんな言い方では。

疲れるから頑張んなくっていい、薄っぺらな人生でいいと、タモリは言ったそうだ。ほんとかどうか知らないが。もしタモリが言ったのなら、わかる気がする。それはそれで、本当なんだよな。


いまの人に「分別計較心」を起こすなといっても無理だ。それで隅々まで覆われているのだから、捨てろといってもまったく魅力がない。むしろ、非難されてしまうだろう。そこをどうしたらよいのか、まるでわからない。いや、そんなことを言っているだけでダメ確定なのだが。

こともなし

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハの管弦楽組曲第二番 BWV1067 で、指揮はラース・ウルリク・モルテンセン、コンチェルト・コペンハーゲンNMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十七番 op.31-2 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NML)。現代のベートーヴェン弾きだな。深みがすばらしい。

スーパー。

一日中だらだらしていたな。何をしていたっけ。

早寝。

こともなし

曇。

Linux Firefox で NML を聴こうとすると自動ログアウトしてしまって聴けない。仕方がないので NML だけ Chrome を使っている。
NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第二巻 ~ 第一番 BWV870 - 第八番 BWV877 で、チェンバロスコット・ロスNMLCD)。
 
ノーマン・ブラウンの『エロスとタナトス』落掌。いまでは忘れられた学術書(?)だと思うが、種村さんを読んで古書で買ってしまった。好事(こうず)趣味というやつである。ノーマン・ブラウンは特異な精神分析学者で、澁澤も何度も言及していた筈だ。訳者は秋山さと子さん。この人はユンギアンだが、それに留まらないおもしろい本をいろいろと訳しておられるな。

 
ドビュッシーの「シャルル・ドルレアンの三つの歌」、ミヨーの「ヴィーナスの誕生」 op.292、プーランクの「アッシジの聖フランチェスコの四つの小さな祈り」、メシアンの「おお、聖なる饗宴」で、指揮はマーカス・クリード、南西ドイツ放送ヴォーカル・アンサンブル(NMLCD)。これ、すばらしい合唱アルバムだな。■フォーレのチェロ・ソナタ第一番 op.109 で、チェロはポール・トルトゥリエ、ピアノはエリック・ハイドシェックNML)。

■バッハの管弦楽組曲第一番 BWV1066 で、指揮はラース・ウルリク・モルテンセン、コンチェルト・コペンハーゲンNML)。 

珈琲工房ひぐち北一色店。オーウェルの『葉蘭をそよがせよ』という小説を読み始める。第三章まで読んだが、なんとも陰鬱な出だしだ。中産階級出身の主人公・ゴードンは自称詩人で、小さな誰も知らない詩集を一冊出版した過去がある。いまは、うらぶれた古書店の店員として働いている。その前の仕事は化粧品のコピーライターで、なかなか才能があったのだが、そんなものにはなりたくなかったので、辞めてしまったのだ。自分をインテリだと思っているので、プライドが許さなかったわけである。お金はまるでなく、日々の食事代にもこと欠く有り様で、そんな中で大作の詩を書こうとしているのだが、自分に詩人としての才能がないことにもはやほとんど気づかざるを得なくなっている。お金があれば、インスピレーションも湧くのに!――ここまでは、そんな感じだ。まったく陰々滅々たる話で、さてオーウェルはここからどうしたいのか、興味がもたれる。「何者かになりたい」というのは、多くの若い人(に限らないが)を苦しめている問題だが、ここにあるのはまさしくそれだ。
 名誉欲とか自負心とか自尊心から自由になることは、きわめてむずかしい。「自由になる」とは、名誉欲や自負心、自尊心を感じないということではなく、それらに苦しめられないということだ。他の多くの煩悩から自由になった人こそ、まさにそれに苦しむことになる。他人から一切認めてもらえないで、苦しまずに生きていけるのか、ということだ。

 
肉屋。マックスバリュ
かんかん照りになって、肌が痛いくらい。33℃。村なかをトンボがたくさん飛び回っている。空は青く、世界が美しい。


日没前、散歩。蒸し暑い。


ママコノシリヌグイ





ヒメジョオン


エビスグサ。

ニラ。




 

夜。
若い人たちが聴いているような(たぶんだけど)曲を You Tube のリコメンドでテキトーに聴いているのだが、絶望的というか無力感というか、そういう曲が多すぎるのですけれど。そういう曲を聴いているから、また同じような曲ばかり集まってくるのかも知れないが。たまたま今日聴いたのでも、「奴隷じゃないなら何ですか?」とか「アンコール」とか。毎日こんなのを聴いているわたくし。
逆の、全能感の曲も多いけどな。無力感の裏返しって感じがする。どちらも根は同じように思える。

この素晴らしい世界に祝福を!2』第2話まで見る。

黒川創『明るい夜』 / セーケイ・ユーリア『バルトーク物語』

日曜日。曇。

NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻 ~ 第二十番 BWV865 - 第二十四番 BWV869 で、チェンバロスコット・ロスNMLCD)。■プーランクの「雪の夕暮れ」で、指揮はマーカス・クリード、南西ドイツ放送ヴォーカル・アンサンブル(NML)。よい。

 
ひさしぶりに Windows を立ち上げたら、Windows Update の後始末で30分以上何もできない…。どうなってるの、Windows は。

河合隼雄先生のおっしゃる、物語の「つなげていく」働き。


黒川創『明るい夜』読了。

 
図書館から借りてきた、セーケイ・ユーリア『バルトーク物語』読了。 
■ステンハンマルのセレナード op.31 で、指揮はエサ=ペッカ・サロネンスウェーデン放送交響楽団NMLCD)。よき指揮者を得て幸い。■バルトークの舞踏組曲で、ピアノはジェルジ・シェベーク(NMLCD)。

アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』

曇。

アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』第二章まで読む。著者はもっと「小説」とか、読んだ方がよいのではないかな。抽象概念だけで、それも不正確に人間というものを認識しているため、それをさらに抽象化した記述がわけわかめなものになっている。ま、我々は何らかの専門家として(難解な)「知識」を常に再帰的に永遠に更新し続けざるを得ないため、一種の不安あるいはつらみが出てくるというのはわかるが、やたらめったら抽象的な本書がその実例になっているじゃん。とにかくさー、むずかしいこと考え過ぎなんだよ。あ、バカでごめん。
 人間を(不正確な)抽象概念でバラバラにして、もう一度組み立て直せばハイ出来上がりってのは、徒労である。そこにあるのは、ギクシャクした人間もどき、あるいはアンドロイドにすぎない。難解な抽象概念に比して、土台(つまり人間理解)が脆弱過ぎるのである。

我々は「アイデンティティ」なんていう「言葉」がなくたって充分に生きていけるよ。それを、その抽象的な言葉に合わせて生きていくなんて、倒錯していることを理解しなくてはいけない。

スーパー。

ギデンズ、第六章の途中まで読む。第五章「経験の隔離」はなかなかおもしろい。冒頭に「自然の終焉」とか「創出環境」とかいう言葉が出てくるが(p.241)、それはつまり我々の都市生活が自然から離れ、人工的に作られた環境で我々が生きることになってきていることを指す。これはじつは大問題だ、なぜなら無限が侵入してくるのは「自然」においてであり、概念や記号によって創出された(都市)環境は「無限」ではないからである。そこには有限の「意味」しかなく、世界は意味で覆われ尽くしている。(ということは、これまでこのブログで何度も言及してきた。)我々はそれゆえ対症療法として、都市において小説、映画、マンガ、アニメ等のコンテンツをむさぼり喰っているのであろうが、もはや事情は田舎においても変わらないというのが事実である。
 ギデンズはこのような「経験の隔離」はモダニティにおいて避けられないと考えているようで、特に非難の言葉を浴びせてはいない。わたしは、大問題だと思うけれどね。ただ、自然が失われてしまったわけではなく、人口の減少と都会への集中により田舎は無人化し、自然に還るところも出てくることだろう。しかし、田舎の人間の感受性がメディアによって都会人と同様になり、無限への開かれが失われてしまうということは、あるにちがいない。それを、我々はどうしたらよいのだろう?

アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』読了。訳者解題で本書が「高尾山程度の低い山」と評されているとおり、訳者たちの本書への評価はおおむね辛辣である。ちょっと笑えるね。やれやれ。
 訳者の記述を読むと、いまは定量化されて統計的操作にかけられないような理論は評価されにくいようだ。ま、そうだろうな。それはネットを見ているだけでもわかる。