アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』

曇。

アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』第二章まで読む。著者はもっと「小説」とか、読んだ方がよいのではないかな。抽象概念だけで、それも不正確に人間というものを認識しているため、それをさらに抽象化した記述がわけわかめなものになっている。ま、我々は何らかの専門家として(難解な)「知識」を常に再帰的に永遠に更新し続けざるを得ないため、一種の不安あるいはつらみが出てくるというのはわかるが、やたらめったら抽象的な本書がその実例になっているじゃん。とにかくさー、むずかしいこと考え過ぎなんだよ。あ、バカでごめん。
 人間を(不正確な)抽象概念でバラバラにして、もう一度組み立て直せばハイ出来上がりってのは、徒労である。そこにあるのは、ギクシャクした人間もどき、あるいはアンドロイドにすぎない。難解な抽象概念に比して、土台(つまり人間理解)が脆弱過ぎるのである。

我々は「アイデンティティ」なんていう「言葉」がなくたって充分に生きていけるよ。それを、その抽象的な言葉に合わせて生きていくなんて、倒錯していることを理解しなくてはいけない。

スーパー。

ギデンズ、第六章の途中まで読む。第五章「経験の隔離」はなかなかおもしろい。冒頭に「自然の終焉」とか「創出環境」とかいう言葉が出てくるが(p.241)、それはつまり我々の都市生活が自然から離れ、人工的に作られた環境で我々が生きることになってきていることを指す。これはじつは大問題だ、なぜなら無限が侵入してくるのは「自然」においてであり、概念や記号によって創出された(都市)環境は「無限」ではないからである。そこには有限の「意味」しかなく、世界は意味で覆われ尽くしている。(ということは、これまでこのブログで何度も言及してきた。)我々はそれゆえ対症療法として、都市において小説、映画、マンガ、アニメ等のコンテンツをむさぼり喰っているのであろうが、もはや事情は田舎においても変わらないというのが事実である。
 ギデンズはこのような「経験の隔離」はモダニティにおいて避けられないと考えているようで、特に非難の言葉を浴びせてはいない。わたしは、大問題だと思うけれどね。ただ、自然が失われてしまったわけではなく、人口の減少と都会への集中により田舎は無人化し、自然に還るところも出てくることだろう。しかし、田舎の人間の感受性がメディアによって都会人と同様になり、無限への開かれが失われてしまうということは、あるにちがいない。それを、我々はどうしたらよいのだろう?

アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』読了。訳者解題で本書が「高尾山程度の低い山」と評されているとおり、訳者たちの本書への評価はおおむね辛辣である。ちょっと笑えるね。やれやれ。
 訳者の記述を読むと、いまは定量化されて統計的操作にかけられないような理論は評価されにくいようだ。ま、そうだろうな。それはネットを見ているだけでもわかる。