PC (ポリティカル・コレクトネス)について

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハのブランデンブルク協奏曲第一番 BWV1046 で、指揮はモーゲンス・ヴェルディケ、デンマーク室内管弦楽団NML)。

■バッハのフランス組曲第五番 BWV816 で、ピアノはアレクサンドラ・パパステファノウ(NMLCD)。■スカルラッティソナタ K.1, K.2, K.3, K.4, K.5, K.6, K.7, K.8, K.9, K.10 で、チェンバロスコット・ロスNML)。

 
長時間ごろごろ。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリームボール×2+ブレンドコーヒー351円。本日落掌した、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』を読む。梶谷先生が推薦しておられたので読んでみた。題名やアマゾンのレヴューなどで予想していた本とはだいぶちがっていた。いや、まだ第二章までしか読んでいないので、結論ではないのだけれどね。すごくおもしろいのですよ。導入である第一章は PC(ポリティカル・コレクトネス)のお話で、まずこれが非常に参考になった。PC 自体はわたしが学生の頃アメリカでよく言われるようになっていて、「批評空間」誌などを立ち読みしていたわたしは「ふーん」と思っていた。その頃はまだ日本では PC はほとんど問題になっていなかったのであるが、いまでは日本でも PC は猖獗を極めている。本書ではその PC に関する整理がなされていて、いまの日本では90年代のアメリカでその語が使われていたシチュエーションと、ベクトルが真逆になっているというのである。その整理の過程で「アイデンティティ・ポリティクス」と「シチズンシップ」の対立という軸が提示され、どうやらこれが本書のお題らしいのだ。著者はわたしよりも20歳若い人で、論理の扱いは手慣れたものであり、じつに鋭い。(じつはそこに危惧をも感じるのであるが、それはまたわたくし個人の問題である。)
 しかし、わたくし個人の話をすれば、この著者の論理の鋭さというのは、ついに日本もこうなったかという、若い人たちを見ているといつも思う感慨を誘う。例えば自由主義と民主主義という概念は、第二次大戦後結びついていたが、それはむしろ例外的状況であったというのは、まったく納得されるのであるけれど、それにしてもカール・シュミットなどを援用してサクサク議論が進んでいくのを目の当たりにしていると、恐ろしい気分になってくる。世界のあちらこちらではいまこのような「自由主義」(リベラリズム)とか「民主主義」(デモクラシー)というがごとき言葉が重すぎて、概念が完全に実体化し、そのために「血さえ流される」ような状況になっているが、ついに日本もこうなったのかというような。もちろん、これは避けることのできない流れなのである。本書での「アイデンティティ・ポリティクス」と「シチズンシップ」の対立というテーゼも、このような流れの中にある。まあ、頭の悪いわたしには戸惑うしかない状況で、これに対してどうしようもない。本当に自分がバカで困るのだ。
 第二章で展開される、内田樹加藤典洋上野千鶴子高橋哲哉あたりの「ビブリオバトル」の整理も、わたしには「へー」というような情けないため息しか出ない。吉本さんあたりも軽くサクッと整理されているが、わたしは戸惑うばかりだ。自分の時代遅れたると頭の悪さを、ここでもつくづく再認識させられる。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

  • 作者:綿野 恵太
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2019/07/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
いまふと思い出したが、本書に「みんなで議論すれば、すばらしい答えが出ると考えるひともあまりいないだろう」(p.67)という文章があるけれど、議論の本にこういう本音がさりげなく出ているというのも、何か時代を感じて興味深い。それはどうも日本的なシニカルな感じもするが。そしてわたしもたぶんそのようなシニカルさを共有しているような気がするのである。
 
カルコスに寄るも何も買わず。


しかし、PC か。綿野氏の本の第二章では日本の反PC論者の典型として内田樹が分析されている。さて、わたしも PC には戸惑いを隠せないから「反PC論者」に分類されるのかも知れないが、アラン・ブルーム内田樹とはだいぶんちがうような気がする。というか、彼らと同一視するのが恥ずかしいようなもので、わたしは PC が出てきたとき、そんなものは人生にあまり関係のない、少なくとも人生において最大級の重要性をもつものではない、言葉遊びのようなものと思っていたのである。しかしそれはいまになってみると、いかにも土人的な、論理というものの本質を知らない人間の「楽観」に過ぎなかったと思い知らされたのだ。いまや、PC は肯定するにせよ否定するにせよ、人生において最大級の重要性をもっている、そういう人が増えてきたのははっきりしているし、それが当り前になってしまったということである。そしてわたしは、いまでも土人であるのだ。どうしたものであろうか、これは。皆んな、概念、論理、正しさあるいは正義、そんなものの話ばかりしている。わたしはこれについていこうにも、到底ついていけないのだ。

けれども、こんなことを書いていると例えば「反知性主義者」にでも分類されてしまいそうだな、いまでは。そうしたければ、好きにしたらいいのだけれども。ようやく日本も、土人の国から文明国になりつつあるのかも知れませんね、と(わたしという)土人がいう。

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

雨。
昨晩は、アップグレードに失敗していたサブ機の Ubuntu 19.10 を再インストールしていたら明け方になってしまった。ので、寝坊。

何時間もごろごろする。

ガソリンスタンド。図書館。


コメダ珈琲店那加住吉店。ブレイディみかこさんの続き。読み始めるとたちまち惹き込まれてしまう。短篇小説のように思わず最後に目頭を熱くさせられるような文章もあるし、何かと考えさせる文章も多い。多様性は善か、階級社会、移民、公共性、教育、貧困、PC(ポリティカル・コレクトネス)、日本とイギリス、人種偏見など、どんな学者の文章にも劣らないリアルを感じる。それにしても、わたしは子供というものに期待をしていないけれど(まあ、大人に期待しているわけでもない)、本書を読んでいると、やはり未来は子供たちの手にあるのだということを思ったりする。たぶん、自分の子供がいる人は、子供というものに希望をもつだろう。わたしが子供に期待しないのは、たんにわたしに子供がおらず、また具体的に子供をよく知らないがために過ぎないような気がする。それに、塾講師として不適格者であったこともあるかも知れない。とにかく、これはよい本だ。

図書館から借りてきた、ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』読了。これまで書いてきたように、本書はすばらしい本だ。わたしらしくひとつだけネガティブなことを書いておけば、確かに子供はすべてを知っている。ただ、すべての子供はいずれ大人になるのだ。そこからが本当の勝負(?)である。本書の少年は、あまりにもカッコいい。そして著者のように、大人になってもすごくてカッコいい人もわずかにいるのだ。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

車で聴いていたハイドンのピアノ・ソナタの演奏がどうしようもなく腑抜けていたので、誰だろうと思ったら、ブレンデルだった。まさかグールドではあり得ないし、晩年のリヒテルかしらん、そうだったらさみしいなと思っていたのであるが。このブレンデルハイドンだって、かつてはよいと思ったから SDカードに入れておいたのだろうけれども。まあ、曲にも拠ろう。

NML で音楽を聴く。■ハイドンのピアノ・ソナタ第五十四番 Hob.XVI:40 で、ピアノはジョン・オコーナーNMLMP3 DL)。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第八番 op.30-3 で、ヴァイオリンはロレンツォ・ガット、ピアノはジュリアン・リベール(NMLCD)。■コルンゴルト弦楽六重奏曲 op.10 で、演奏はフレッシュ四重奏団、他(NMLCD)。■ショパンのチェロ・ソナタ op.65 で、チェロはイジー・バールタ、ピアノはマルティン・カシーク(NML)。

Chopin: Complete Works for Cello

Chopin: Complete Works for Cello

  • 発売日: 2018/08/30
  • メディア: MP3 ダウンロード

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第四番 BWV815 で、ピアノはアレクサンドラ・パパステファノウ(NMLCD)。本当はいちばんシンプルなエディションが好きなのだけれどな。■ブラームスクラリネット三重奏曲 op.114 で、クラリネットカール・ライスター、チェロはゲオルク・ドンダラー、ピアノはクリストフ・エッシェンバッハNML)。NML の演奏者の表記は明らかにまちがっている。

ブラームス:クラリネット三重奏曲、ホルン三重奏曲

ブラームス:クラリネット三重奏曲、ホルン三重奏曲

  • アーティスト:オムニバス(クラシック)
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2012/05/09
  • メディア: CD
プロコフィエフのフルート・ソナタ op.94 で、フルートはジャン=ピエール・ランパル、ピアノはアルフレード・ホレチェク(NML)。フランス音楽を思わせる洒落た曲。ちょっとプーランクみたい。しかし、終楽章などは紛れもなくプロコフィエフだな。
Prokofiev:Flute, Violin& Cello

Prokofiev:Flute, Violin& Cello

 
モーツァルト交響曲第三十八番 K.504 で、指揮はイルジー・ビエロフラーヴェク、プラハフィルハーモニー管弦楽団NML)。いわゆる「プラハ」。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー385円。ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読む。老母から廻してもらった本だが、これはおもしろい。ブレイディみかこさんの息子さんの話で、彼はイギリスの最上級の小学校から、中学校は元底辺校に(敢て)入学するのだが、そこで人種差別、貧困、ヘイトなど、様々な問題に体当たりしていくのが活写されている。ほんとにかしこい子でびっくりするのだが、この母にしてこの子ありという感じか。まだ三分の一くらいしか読んでいないので詳しいことは書かないが、「シンパシー」と「エンパシー」の話は考えさせられた。エンパシーとは「他人の感情や経験などを理解する能力」ということで、その息子さんはテストで「自分で誰かの靴を履いてみること」と書いて満点をもらったそうだ。英語にそういう表現があるらしいが、ぴったりの比喩だと思う。イギリスではこういうことがしっかりと学校で教えられるのも驚くが、対比してみると、日本人にはこのエンパシーが多くの場合欠けているようにわたしは思う。そういう能力の必要性の、自覚すら乏しいのではないか。いや、自分は世間というものを知らないので、まちがっているかも知れないが、ネットでの日本人の分断を見ていると、そんな気に襲われる。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

 
イオンモール未来屋書店で、新書本を何冊か買う。ここは新書本に限っては、カルコスに勝るとも劣らないことに気づいた。何故か、ちくま学芸文庫の今月の新刊が入っていたし。BGM はまたショパンだった(気になるようになってしまった)が、さてスケルツォの何番だったかな。

『安原顯の乱聴日記』

日曜日。昧爽起床。
昨晩は鈴木大拙を読んで寝た。大拙の英文著作は世界中で読まれているし、日本人で大拙の日本語著作を読む人も少なくないように見える。僕は大拙はたいへんにえらい方だと思っているが、どうして大拙は侮られるのか? たぶん、大拙が懇切丁寧、じつに親切だからだ。エラソーなバカでもわかった気になってしまうくらい親切に書かれている、そんな文章が多い。しかし、レヴェルを落としているわけではないから、結局のところはじつはやさしいものではない。本当のところはわかる人にしかわからない。じゃあ、わたしは大拙がわかる特権的な人間なのか? いや、全然。わたしは未熟者だ。一生修行と思っている。わたしは禅の人ではないが、結句禅はわたしも含め、大多数に誤解されることは避けられないと思う。

晴。
NML で音楽を聴く。■バッハのフーガ ト短調 BWV1000 で、ギターはバルバラ・ポラシェク(NMLMP3 DL)。ヴァイオリンで弾くのと感じがだいぶちがうな。■バッハのフランス組曲第三番 BWV814 で、ピアノはアレクサンドラ・パパステファノウ(NMLCD)。■モーツァルトクラリネット五重奏曲 K.581 で、クラリネットはアンソニー・ペイ、エンシェント室内アンサンブル(NMLCD)。


音楽之友社の今年の「レコード・アカデミー賞」が出たことをたまたま知った。NML に入っているディスクも一部あるようで、特に交響曲部門のネルソンス指揮、ウィーン・フィルの「ベートーヴェン交響曲全集」が NML で聴けるらしい。ので、聴いてみたが、NML 新着のときにも試聴しているのだけれど、やはりわたしには合わなかった。しかし一般にウケるのは充分わかるから、皆さんはわたしの間違いぶりを検証してやって下さい。
ml.naxos.jp
ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はミロ・クァルテット(NMLCD)。■ハイドンのピアノ・ソナタ第四十八番 Hob.XVI:35 で、ピアノはジョン・オコーナーNMLMP3 DL)。

昼からまた扶桑町イオンモールへ行ってみる。先日、平日に訪れたらさみしいほどガラガラだったので、日曜日はどうかと思ったのだが、さすがに駐車場もいっぱいなくらいだった。ミスドも盛況で、たくさんの人がレジに並んでいたため、気が大きくなって(?)高カロリーのバナナマフィンを注文してしまう。で、隅っこの席で『安原顯の乱聴日記』読了。図書館から借りてきたものである。各方面を罵倒しまくりだが、爽快感があった。何でも Wikipedia によると、坪内祐三氏はヤスケンに筆誅を加えているそうだ。まあ、ヤスケンは世間では許されないことをいろいろとやったらしいが、それは本書でもよくわかる。自分がクズだと思った人物には、倫理感がなくなるようで、困った人といえばそうだ。つーか、いまならこういう人は生きていけないだろうね。本書は喜怒哀楽の激しい本で、それは彼の個性そのままという感じがする。よく知らないが。罵倒も目立つが、好きなものに対する愛情も大きく深かったといえるだろう。

安原顕の乱聴日記

安原顕の乱聴日記

アマゾンで見る限り、ヤスケンの本はいまでも生きているものはほとんどなく、古書価もおしなべて極安いようだ。いまでは忘れられた人ということか。

帰りにカルコスに寄る。文庫本一冊購入のみ。

玄侑宗久&坂本真典『祝福』

曇。
昨晩は中沢さんの『熊を夢見る』を読んで寝た。精神のこんな貧しいままでいてはダメだと強く思わされた。わたしだけかも知れないが、中沢さんの豊かさに呆然とさせられ、それでも現代の閉塞を突破していくのがきわめてむずかしいのには粛然とさせられる。希望の扉はもはやきわめて狭い。
 武満さんも晩年、世界はどんどん悪い方にいっているという認識だった。しかし武満さんは、どんなに先が真っ暗でも希望を捨てることは(意地でも)しなかった。中沢さんのこれまでの人生は本当に大変でつらいものであったが、それでも決して諦めることをされていない。それよりも若いわたくしが、いかに能力がない凡人とはいえ、希望を捨ててよいのだろうかという思いはある。

午前中、甥っ子の勉強を見る。試験はそこそこできたようだが、ミスなどが多く、悔しい結果でもあったようだ。いや、悔しいってのはよい兆候なのですよ。これでやる気になるのがもう一年早かったらなとは思うが。


東さんの仰るとおり、中沢さんと柄谷行人の問題にしているところは(じつは)似ている。わたしが憶測で註釈をつければ、新石器時代からのスパンで資本主義を考えるという点においてだ。しかしこれも東さんのいうとおり、柄谷行人は中沢さんより遥かに貧しい。知識においても、能力においても。柄谷行人は、基本的に単純に交換関係しか問題にできないように見える。つまり、おなじみの「交換関係C」だ。って、わたしは別に柄谷行人なんてどうでもいいと言いたいのではありません。でも個人的には、彼の近年の仕事よりも文芸評論家だった頃の方が好きである。

現代は生活の隅々にまで資本主義が浸透しているので、我々の生活のほぼすべてが計量可能になっていっている。ゆえに、我々の自然に対する視線も計量化されているが、自然の現実のほとんどはじつは計量可能ではない。ゆえに、我々は自然の極一部しか見ることができず、その他の自然を切り捨て、不可視にすることになる。ゆえに世界は単純化、人工化することになる。

コメダ珈琲店那加住吉店。たっぷりブレンドコーヒー530円。安原顯ヤスケン)の『乱聴日記』の続き。おもしろいなあ。バカすぎて笑ってしまう(もちろん思いっきりの褒め言葉)。非常にクセの強い人なので好悪は分かれるだろうし、若い人たちはこういうのが苦手なのはわかっているが、わたしもバカなのでこれは好きだ。現代音楽はよく聴いておられるなあ。まあ主にメジャーどころで片山杜秀さんのようなゲテモノ趣味(?)ではないが、それでも(?)感心してしまう。しかし、これだけ現代音楽の演奏会に行けるのはさすがに東京だという気も。わたしももう少し現代音楽(特に日本の)を聴かないとな。それにしても、いまだとここまでクセの強い人はそもそも出てこられないようにも思う。20年も経つと、何もかも変ってしまうものだなあ。インターネット以前だしなあ。


図書館から借りてきた、玄侑宗久坂本真典『祝福』読了。坂本氏による美しい蓮の写真と、玄侑さんの小説とのコラボレーション。このような本の感想を書くほどわたしは野暮ではない。

祝福

祝福

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのイタリア協奏曲 BWV971 で、チェンバロは辰巳美納子(NMLCD)。よい。■モーツァルトのホルン五重奏曲 K.407 で、ホルンはマイケル・トンプソン、エンシェント室内アンサンブル(NMLCD)。■ハイドンのピアノ・ソナタ第六十番 Hob.XVI:50 で、ピアノはジョン・オコーナーNMLMP3 DL)。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第六番 op.18-6 で、演奏はミロ・クァルテット(NMLCD)。この演奏者は、「現代という貧しき時代のベートーヴェン」として頑張っているのではないか。人によってはまったく評価しないでもあろう。わたしは好きだ。
 
昼から県営プール。


老母の Linux Mint で年賀状を作ろうというので日本郵便の「はがきデザインキット」をインストールしているのだが、住所録の CSV ファイルの読み込みなどがうまくいかず、多少苦戦。どうやら去年保存したデータは問題があるらしく、「番地」だけ打ち込み直す。まあ、そんなに面倒なことではなかったようだ。それから、2019年度版から2020年度版へ公式のアップグレードではうまくいかなかったので、再インストールしてみたらうまくいった。
marginalia.hatenablog.com

岩波文庫のトオマス・マン短篇集を読む。実吉捷郎訳。わたしが小学生のときに出た本であるが、こうまで訳文が古びているとは。わたしも齢を取る筈である。まあしかし、古い訳文だからどうということはわたしにはない。文豪の短篇集ではあるが、いつもどおりエンタメとして読んだ。じつに下らない話をすごい筆力でやるのでかなわない。半分くらい読んだが、いやな短篇ばかりである。特に、いまでいう身体障害者(本書には「せむし」とあるが、もちろんいまでは自主規制される単語であろう)、それも澄明な生活を愛する高貴な人を舌なめずりするようなねちっこい文体で破滅させる「小フリイデマン氏」のひどさにはうんざりした。惹句によるとマンが若いときの短篇から選んだ本らしいが、いかにもオレは人生に精通しているぞと見せつけてくるところが文豪なのかも知れない。

こともなし

曇。
寝過ぎ。十二時間くらい寝た。何をする気もない。

「何をする気もない」というのはオレオレ仏教的にはまちがっている。ふつうの生活をふつうにするのがオレオレ仏教。


時雨れる。
コメダ珈琲店那加住吉店。たっぷりブレンドコーヒー530円。ここはコーヒーはさほど好みでないが(ミスドの275円の方が好み)、音楽がかかっていないのがちょっとよい。イオンモールのフードコートはくだらん音楽や宣伝・注意ががなり立てていて、自分ながらよくあそこで本が読めるなあと思っている。イオンモール岐阜基地の飛行機が離陸していく真下なのだが、その轟音が聞こえないくらい環境音がうるさい。
 さて、安原顯の『乱聴日記』を読み始める。1999年の出版だから、ちょうど20年前の本ということになるか。安原顯のことは、いまどれくらい知られているのだろうか。といってもわたしもよく知らないといえばそうなので、クセの強い特異な編集者だったこと、病の治療のためだったのか、村上春樹の生原稿を古本屋に叩き売ったことなど、そんな印象である。2003年死去。彼が編集長をしていた書評誌「リテレール」をわたしは、そのころリニューアルしたばかりの恵文社一乗寺店でよく立ち読みしていた。彼は音楽をクラシックだのポピュラーだのとジャンル分けするのは無意味という考えの持ち主で、本書もその姿勢で一貫しているが、といっても基本的にはクラシックとジャズである感じ。文芸も入れて、全体的に非常に辛口の批評であるが、そんなにイヤな感じではない(すぐに「クズ」とか「イモ」とかいうが)。わたしはジャズは知らないけれど、クラシック音楽に関しては、彼が現代音楽をよく聴いておられる以外は、いまのわたしに参考になるところはあまりない。といってもわたしがエラいというわけではなくて、わたしはもうクラシックのビッグネームの演奏家をあまり聴かないからだ。本書はむしろオーディオの話がおもしろくて、PC のブラウザ経由でヘッドホンで音楽を聴いているわたしなどはうんこだなとつくづく思う。そういや安原さんはオペラや声楽は苦手とあって、そこはわたしと同じだなと思った。わたしは外国語が聴き取れないので、そうなのである。もっとも、日本語の歌詞を外国人が歌ったものでも、大抵は何を言っているのか聴き取れない(笑)。

わたしは最近、いまの西洋の無名の(クラシックの)演奏家たち(おおかた演奏にはだいぶ欠点がある)がめざしているところが少しわかってきたように思うので、その感性をまとめて現在の日本の感覚に接続してみたいなとちょっとだけ思っている。まあ、そんなことができるのか、して意味があるのかはわからないが。ま、NML の賜物ですな。

ブログ「本はねころんで」さんが『龍彦親王航海記』(僕も図書館に入れば読みたい)を読んでおられる。小笠原豊樹岩田宏)さんの小説(知らねー)に接続されていたり、その山口昌男的芋づる式読書には脱帽。澁澤龍彦についてはあまりお好きでないようだが、懐の深い読書人でいらっしゃるなあとつくづく思う。ふつう澁澤龍彦くらい高校生のときに読んでおけどころか、わたしは学生の頃に文庫本を愛読して、いまでもかなり好きである。幼稚な読書といえよう。わたしにとって澁澤は近代の想像力のコアの部分をすべてもっていた人というところだが、これとてオリジナルの意見ではなく、中沢さんのパクリだ。わたしの読書過程ではイメージとは凡庸なものであるという時代で、想像界は徹底的に貶められてきたが、わたしはずっと想像力については重要視してきた。というか、いまでも現在の想像力というか、現代はもっとも深い地点でどういうイメージになるかというのは知りたいことである。もちろんその点ではアニメ、マンガ、ゲームなどがとりあえずの答えを出しているわけだが、ほんとにそんなものしかないのだろうかとはちょっと思う。まあ、時代遅れのおっさんの妄想でもあろうか。


ほんとにちょっとづつ料理を教わっている。今日はカレー鍋で、鍋料理など特に教わるまでもないかも知れないが、やはりやってみないとわからない。自分の不器用さには呆れるが、まあそれでも出来ないことはない。ひとり暮らしをしていたときに料理を身につけておけばよかった。pha さんではないが、若い人には料理をお勧めしておきたい。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第七番 op.59-1 で、演奏はミロ・クァルテット(NMLCD)。初期ベートーヴェンがよかった演奏者なので、「ラズモフスキー」はどうかなという感じがしていたのだが、聴いてみたらよかった。センチメンタルな気分になっていたので、終楽章とか胸を突かれた。しかし何で僕はベートーヴェンがこんなに好きなのかねえ。自分が田舎者だからというのは確実にあると思う、悪い意味ではなしに。ドイツ音楽というのは田舎者の音楽でしょう。フランスの「印象派」たちも大好きなのだけれどねえ。そういや、このところ NML の新着にドビュッシーがあまり入らないな。たまたまなのだろうけれど。■マーラー交響曲第九番で、指揮はマリス・ヤンソンスバイエルン放送交響楽団NML)。2016年10月のライブ録音。NML の「今週の一枚」で、ヤンソンス追悼のアルバムとして推薦されていたので聴いてみた。「追悼盤」といっても、聴いてみたところでは現役感バリバリで、マジでしんどかった。僕はいまではハイティンクか小澤かヤンソンスかというところだが、ヤンソンスがそんなにすごい指揮者だとわかったのはつい最近のことである。無知は恐ろしい。たぶんその真価がわかってきたのは、ブログ検索してみると今年の4月7日、マーラーの第七番の演奏を聴いてからのようだから、わたしの無知も呆れたレヴェルだ。とうに世界は認知済だったのである。しかしいつも書くが、マーラーの超一流の演奏は、精神の器の小さい自分にはほとんど限界で、NML の新着でも気になるマーラー演奏にしばしば出会うが、ほとんどスルーさせてもらっている。そう日常的に、疲労困憊していられないのである。かつてはマーラーをふつうに聴いていた自分だが、これは齢をとって衰えたからというよりは、かつては全然わかっていなかったのだな。まあ、いまでもわかっているわけではないが。

マーラー :交響曲 第9番 ニ長調[SACD-Hybrid]

マーラー :交響曲 第9番 ニ長調[SACD-Hybrid]

しかし、聴いて疲労困憊しないようなマーラー演奏など何だという気もする。