玄侑宗久&坂本真典『祝福』

曇。
昨晩は中沢さんの『熊を夢見る』を読んで寝た。精神のこんな貧しいままでいてはダメだと強く思わされた。わたしだけかも知れないが、中沢さんの豊かさに呆然とさせられ、それでも現代の閉塞を突破していくのがきわめてむずかしいのには粛然とさせられる。希望の扉はもはやきわめて狭い。
 武満さんも晩年、世界はどんどん悪い方にいっているという認識だった。しかし武満さんは、どんなに先が真っ暗でも希望を捨てることは(意地でも)しなかった。中沢さんのこれまでの人生は本当に大変でつらいものであったが、それでも決して諦めることをされていない。それよりも若いわたくしが、いかに能力がない凡人とはいえ、希望を捨ててよいのだろうかという思いはある。

午前中、甥っ子の勉強を見る。試験はそこそこできたようだが、ミスなどが多く、悔しい結果でもあったようだ。いや、悔しいってのはよい兆候なのですよ。これでやる気になるのがもう一年早かったらなとは思うが。


東さんの仰るとおり、中沢さんと柄谷行人の問題にしているところは(じつは)似ている。わたしが憶測で註釈をつければ、新石器時代からのスパンで資本主義を考えるという点においてだ。しかしこれも東さんのいうとおり、柄谷行人は中沢さんより遥かに貧しい。知識においても、能力においても。柄谷行人は、基本的に単純に交換関係しか問題にできないように見える。つまり、おなじみの「交換関係C」だ。って、わたしは別に柄谷行人なんてどうでもいいと言いたいのではありません。でも個人的には、彼の近年の仕事よりも文芸評論家だった頃の方が好きである。

現代は生活の隅々にまで資本主義が浸透しているので、我々の生活のほぼすべてが計量可能になっていっている。ゆえに、我々の自然に対する視線も計量化されているが、自然の現実のほとんどはじつは計量可能ではない。ゆえに、我々は自然の極一部しか見ることができず、その他の自然を切り捨て、不可視にすることになる。ゆえに世界は単純化、人工化することになる。

コメダ珈琲店那加住吉店。たっぷりブレンドコーヒー530円。安原顯ヤスケン)の『乱聴日記』の続き。おもしろいなあ。バカすぎて笑ってしまう(もちろん思いっきりの褒め言葉)。非常にクセの強い人なので好悪は分かれるだろうし、若い人たちはこういうのが苦手なのはわかっているが、わたしもバカなのでこれは好きだ。現代音楽はよく聴いておられるなあ。まあ主にメジャーどころで片山杜秀さんのようなゲテモノ趣味(?)ではないが、それでも(?)感心してしまう。しかし、これだけ現代音楽の演奏会に行けるのはさすがに東京だという気も。わたしももう少し現代音楽(特に日本の)を聴かないとな。それにしても、いまだとここまでクセの強い人はそもそも出てこられないようにも思う。20年も経つと、何もかも変ってしまうものだなあ。インターネット以前だしなあ。


図書館から借りてきた、玄侑宗久坂本真典『祝福』読了。坂本氏による美しい蓮の写真と、玄侑さんの小説とのコラボレーション。このような本の感想を書くほどわたしは野暮ではない。

祝福

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