こともなし

曇。
寝過ぎ。十二時間くらい寝た。何をする気もない。

「何をする気もない」というのはオレオレ仏教的にはまちがっている。ふつうの生活をふつうにするのがオレオレ仏教。


時雨れる。
コメダ珈琲店那加住吉店。たっぷりブレンドコーヒー530円。ここはコーヒーはさほど好みでないが(ミスドの275円の方が好み)、音楽がかかっていないのがちょっとよい。イオンモールのフードコートはくだらん音楽や宣伝・注意ががなり立てていて、自分ながらよくあそこで本が読めるなあと思っている。イオンモール岐阜基地の飛行機が離陸していく真下なのだが、その轟音が聞こえないくらい環境音がうるさい。
 さて、安原顯の『乱聴日記』を読み始める。1999年の出版だから、ちょうど20年前の本ということになるか。安原顯のことは、いまどれくらい知られているのだろうか。といってもわたしもよく知らないといえばそうなので、クセの強い特異な編集者だったこと、病の治療のためだったのか、村上春樹の生原稿を古本屋に叩き売ったことなど、そんな印象である。2003年死去。彼が編集長をしていた書評誌「リテレール」をわたしは、そのころリニューアルしたばかりの恵文社一乗寺店でよく立ち読みしていた。彼は音楽をクラシックだのポピュラーだのとジャンル分けするのは無意味という考えの持ち主で、本書もその姿勢で一貫しているが、といっても基本的にはクラシックとジャズである感じ。文芸も入れて、全体的に非常に辛口の批評であるが、そんなにイヤな感じではない(すぐに「クズ」とか「イモ」とかいうが)。わたしはジャズは知らないけれど、クラシック音楽に関しては、彼が現代音楽をよく聴いておられる以外は、いまのわたしに参考になるところはあまりない。といってもわたしがエラいというわけではなくて、わたしはもうクラシックのビッグネームの演奏家をあまり聴かないからだ。本書はむしろオーディオの話がおもしろくて、PC のブラウザ経由でヘッドホンで音楽を聴いているわたしなどはうんこだなとつくづく思う。そういや安原さんはオペラや声楽は苦手とあって、そこはわたしと同じだなと思った。わたしは外国語が聴き取れないので、そうなのである。もっとも、日本語の歌詞を外国人が歌ったものでも、大抵は何を言っているのか聴き取れない(笑)。

わたしは最近、いまの西洋の無名の(クラシックの)演奏家たち(おおかた演奏にはだいぶ欠点がある)がめざしているところが少しわかってきたように思うので、その感性をまとめて現在の日本の感覚に接続してみたいなとちょっとだけ思っている。まあ、そんなことができるのか、して意味があるのかはわからないが。ま、NML の賜物ですな。

ブログ「本はねころんで」さんが『龍彦親王航海記』(僕も図書館に入れば読みたい)を読んでおられる。小笠原豊樹岩田宏)さんの小説(知らねー)に接続されていたり、その山口昌男的芋づる式読書には脱帽。澁澤龍彦についてはあまりお好きでないようだが、懐の深い読書人でいらっしゃるなあとつくづく思う。ふつう澁澤龍彦くらい高校生のときに読んでおけどころか、わたしは学生の頃に文庫本を愛読して、いまでもかなり好きである。幼稚な読書といえよう。わたしにとって澁澤は近代の想像力のコアの部分をすべてもっていた人というところだが、これとてオリジナルの意見ではなく、中沢さんのパクリだ。わたしの読書過程ではイメージとは凡庸なものであるという時代で、想像界は徹底的に貶められてきたが、わたしはずっと想像力については重要視してきた。というか、いまでも現在の想像力というか、現代はもっとも深い地点でどういうイメージになるかというのは知りたいことである。もちろんその点ではアニメ、マンガ、ゲームなどがとりあえずの答えを出しているわけだが、ほんとにそんなものしかないのだろうかとはちょっと思う。まあ、時代遅れのおっさんの妄想でもあろうか。


ほんとにちょっとづつ料理を教わっている。今日はカレー鍋で、鍋料理など特に教わるまでもないかも知れないが、やはりやってみないとわからない。自分の不器用さには呆れるが、まあそれでも出来ないことはない。ひとり暮らしをしていたときに料理を身につけておけばよかった。pha さんではないが、若い人には料理をお勧めしておきたい。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第七番 op.59-1 で、演奏はミロ・クァルテット(NMLCD)。初期ベートーヴェンがよかった演奏者なので、「ラズモフスキー」はどうかなという感じがしていたのだが、聴いてみたらよかった。センチメンタルな気分になっていたので、終楽章とか胸を突かれた。しかし何で僕はベートーヴェンがこんなに好きなのかねえ。自分が田舎者だからというのは確実にあると思う、悪い意味ではなしに。ドイツ音楽というのは田舎者の音楽でしょう。フランスの「印象派」たちも大好きなのだけれどねえ。そういや、このところ NML の新着にドビュッシーがあまり入らないな。たまたまなのだろうけれど。■マーラー交響曲第九番で、指揮はマリス・ヤンソンスバイエルン放送交響楽団NML)。2016年10月のライブ録音。NML の「今週の一枚」で、ヤンソンス追悼のアルバムとして推薦されていたので聴いてみた。「追悼盤」といっても、聴いてみたところでは現役感バリバリで、マジでしんどかった。僕はいまではハイティンクか小澤かヤンソンスかというところだが、ヤンソンスがそんなにすごい指揮者だとわかったのはつい最近のことである。無知は恐ろしい。たぶんその真価がわかってきたのは、ブログ検索してみると今年の4月7日、マーラーの第七番の演奏を聴いてからのようだから、わたしの無知も呆れたレヴェルだ。とうに世界は認知済だったのである。しかしいつも書くが、マーラーの超一流の演奏は、精神の器の小さい自分にはほとんど限界で、NML の新着でも気になるマーラー演奏にしばしば出会うが、ほとんどスルーさせてもらっている。そう日常的に、疲労困憊していられないのである。かつてはマーラーをふつうに聴いていた自分だが、これは齢をとって衰えたからというよりは、かつては全然わかっていなかったのだな。まあ、いまでもわかっているわけではないが。

マーラー :交響曲 第9番 ニ長調[SACD-Hybrid]

マーラー :交響曲 第9番 ニ長調[SACD-Hybrid]

しかし、聴いて疲労困憊しないようなマーラー演奏など何だという気もする。