PC (ポリティカル・コレクトネス)について

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハのブランデンブルク協奏曲第一番 BWV1046 で、指揮はモーゲンス・ヴェルディケ、デンマーク室内管弦楽団NML)。

■バッハのフランス組曲第五番 BWV816 で、ピアノはアレクサンドラ・パパステファノウ(NMLCD)。■スカルラッティソナタ K.1, K.2, K.3, K.4, K.5, K.6, K.7, K.8, K.9, K.10 で、チェンバロスコット・ロスNML)。

 
長時間ごろごろ。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリームボール×2+ブレンドコーヒー351円。本日落掌した、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』を読む。梶谷先生が推薦しておられたので読んでみた。題名やアマゾンのレヴューなどで予想していた本とはだいぶちがっていた。いや、まだ第二章までしか読んでいないので、結論ではないのだけれどね。すごくおもしろいのですよ。導入である第一章は PC(ポリティカル・コレクトネス)のお話で、まずこれが非常に参考になった。PC 自体はわたしが学生の頃アメリカでよく言われるようになっていて、「批評空間」誌などを立ち読みしていたわたしは「ふーん」と思っていた。その頃はまだ日本では PC はほとんど問題になっていなかったのであるが、いまでは日本でも PC は猖獗を極めている。本書ではその PC に関する整理がなされていて、いまの日本では90年代のアメリカでその語が使われていたシチュエーションと、ベクトルが真逆になっているというのである。その整理の過程で「アイデンティティ・ポリティクス」と「シチズンシップ」の対立という軸が提示され、どうやらこれが本書のお題らしいのだ。著者はわたしよりも20歳若い人で、論理の扱いは手慣れたものであり、じつに鋭い。(じつはそこに危惧をも感じるのであるが、それはまたわたくし個人の問題である。)
 しかし、わたくし個人の話をすれば、この著者の論理の鋭さというのは、ついに日本もこうなったかという、若い人たちを見ているといつも思う感慨を誘う。例えば自由主義と民主主義という概念は、第二次大戦後結びついていたが、それはむしろ例外的状況であったというのは、まったく納得されるのであるけれど、それにしてもカール・シュミットなどを援用してサクサク議論が進んでいくのを目の当たりにしていると、恐ろしい気分になってくる。世界のあちらこちらではいまこのような「自由主義」(リベラリズム)とか「民主主義」(デモクラシー)というがごとき言葉が重すぎて、概念が完全に実体化し、そのために「血さえ流される」ような状況になっているが、ついに日本もこうなったのかというような。もちろん、これは避けることのできない流れなのである。本書での「アイデンティティ・ポリティクス」と「シチズンシップ」の対立というテーゼも、このような流れの中にある。まあ、頭の悪いわたしには戸惑うしかない状況で、これに対してどうしようもない。本当に自分がバカで困るのだ。
 第二章で展開される、内田樹加藤典洋上野千鶴子高橋哲哉あたりの「ビブリオバトル」の整理も、わたしには「へー」というような情けないため息しか出ない。吉本さんあたりも軽くサクッと整理されているが、わたしは戸惑うばかりだ。自分の時代遅れたると頭の悪さを、ここでもつくづく再認識させられる。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

  • 作者:綿野 恵太
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2019/07/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
いまふと思い出したが、本書に「みんなで議論すれば、すばらしい答えが出ると考えるひともあまりいないだろう」(p.67)という文章があるけれど、議論の本にこういう本音がさりげなく出ているというのも、何か時代を感じて興味深い。それはどうも日本的なシニカルな感じもするが。そしてわたしもたぶんそのようなシニカルさを共有しているような気がするのである。
 
カルコスに寄るも何も買わず。


しかし、PC か。綿野氏の本の第二章では日本の反PC論者の典型として内田樹が分析されている。さて、わたしも PC には戸惑いを隠せないから「反PC論者」に分類されるのかも知れないが、アラン・ブルーム内田樹とはだいぶんちがうような気がする。というか、彼らと同一視するのが恥ずかしいようなもので、わたしは PC が出てきたとき、そんなものは人生にあまり関係のない、少なくとも人生において最大級の重要性をもつものではない、言葉遊びのようなものと思っていたのである。しかしそれはいまになってみると、いかにも土人的な、論理というものの本質を知らない人間の「楽観」に過ぎなかったと思い知らされたのだ。いまや、PC は肯定するにせよ否定するにせよ、人生において最大級の重要性をもっている、そういう人が増えてきたのははっきりしているし、それが当り前になってしまったということである。そしてわたしは、いまでも土人であるのだ。どうしたものであろうか、これは。皆んな、概念、論理、正しさあるいは正義、そんなものの話ばかりしている。わたしはこれについていこうにも、到底ついていけないのだ。

けれども、こんなことを書いていると例えば「反知性主義者」にでも分類されてしまいそうだな、いまでは。そうしたければ、好きにしたらいいのだけれども。ようやく日本も、土人の国から文明国になりつつあるのかも知れませんね、と(わたしという)土人がいう。