台風24号

日曜日。雨。

老父は朝早くから台風への備え。
早い時間にドラッグストアとスーパーへ行くも、スーパーはすごい混雑。みな考えることは同じだ。駐車スペースがないくらいだったが、何とか入れる。スーパーは今日は 17時で閉店とのこと。まあ、台風でそんな時間は誰も来るまいしな。

昼過ぎ、雨が強くなってきた。雨戸を閉める。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトピアノ三重奏曲第五番 K.548 で、演奏はトリオ・フォントネ(NMLCD)。■ハイドン交響曲第九十九番 Hob.I:99 で、指揮はフランス・ブリュッヘン18世紀オーケストラNMLCD)。■ヤナーチェクの「プレスト」、「おとぎ話」で、チェロはボリス・ペルガメンシコフ、ピアノはアンドラーシュ・シフNMLCD)。ヤナーチェクは役に立ちさえもする。

西洋古典叢書の『アエネーイス』を読み始める。

暴風治まる。(PM11:55)しかしネットによると中心は名古屋市付近とあるので、もしかしていわゆる「台風の目」に入ったのか。ナウキャストを見ると名古屋市から自宅付近にかけて雨雲はなく、むしろ静岡から関東の方に強い雨が降っているようだ。外はしんとしていて虫の声も聞こえる。

ブログ「本はねころんで」を見ていたら、ディネーセン(ディネセン)はカーレン・ブリクセンのこととあった。わたしはいずれの名も知らなかったが、最近河出文庫に入ったディネセンは購入済で、そのうち読もうと思っていたところである。既に山口昌男が紹介していたそうで、自分は一応『本の神話学』には目を通していたがまったく記憶にない。それにしても、山口昌男の目配りの広さよ。わたしは山口とはまったくちがうタイプの人間で、相性はあまりよくないが、それでも山口昌男は巨人であったなと思う。この人は本当に頭の切れる人で、しかも博覧強記であった。わたしの好きな吉本さんは山口昌男を何度も罵倒しているが、頭の切れと爽快なペダントリーでは到底山口に及ぶものではなかった。ただ、そこのところがまた山口の弱点でもあったと思う。吉本さんはふつうの人だったが、山口は一種の超人で、自分で考えるより先に何でもすぐにわかってしまうところがあった。それで、あれほどまでに広大な領域を飛び回ることになったのである。そして、自分の時代が来そうなところで、柄谷行人蓮實重彦のような知識人がもてはやされるようになったという不運もあった。いずれにせよ、当り前だが自分の遠く及ぶところではない、高みにあった人である。

こともなし

雨。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第一番 BWV1002 で、ヴァイオリンはゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ(NMLCD)。切なくなってくるくらいピュアで美しいバッハだ。確かにモダン楽器と比べれば力強さの点では劣るし、モダン楽器かどちらかを選べといわれればモダン楽器を選ぶのかも知れないが、それでもこのピリオド楽器による演奏はすばらしい。新しい世代による、新鮮で感動的なバッハになっている。そもそも古楽ヴァイオリンはモダン楽器と比べて和音の扱いは優れていて、それが無伴奏ヴァイオリンというこの曲の特性上有利になっている面もあるのだ。■シューベルトの「さすらい人」幻想曲 D760 で、ピアノはセルゲイ・エデルマン(NML)。エデルマンというピアニストは日本のマイナーレーベルである Triton から最初の CD が出たときから注目しているが、さて、いまや世界の一流ピアニストとして正当に認識されているのであるか、わたしは知らない。既にさほど若いピアニストではなく、日本の音大でピアノ教師をしているという以外の経歴は知らないのだが、いったい誰が見つけてきたものであろうか。この曲はわたしの偏愛する曲であり、既にポリーニリヒテルの録音で聴きすぎて他では滅多に満足できなくなってしまっていて、いまもいろいろ有名ピアニストの録音を試聴してみたが、どれも満足できず、結局これに落ち着いた。まあそれなりの耳があれば、この演奏のすばらしさは誰にでもわかるだろう。技術的にも内容的にもきわめてむずかしい名曲である。それにしても、すぐれた人というのは意外なところにいるものだ。わからぬものである。

リスト:ピアノ・ソナタロ短調、シューベルト:幻想曲「さすらい人幻想曲」

リスト:ピアノ・ソナタロ短調、シューベルト:幻想曲「さすらい人幻想曲」

 
うーん、今日のNML の新着は Decca に Deutsche Grammophon の大盤振る舞いだ。最近でこそダメになったが、さすがにメジャーレーベルで過去の蓄積はすごいので、ルプーに小澤征爾ときて、それにフィッシャー=ディースカウのヴォルフ歌曲集がストリーミングで聴けてしまうというのは、ちょっと反則であろう。まあしかし、いまやかつてとはちがった意味で、Deutsche Grammophon より NAXOS の方がメジャーレーベルだともいえるので、事実 NML がこうなっているというのは時代に敏感であった者の勝ちというものであろうか。それにしても、CD は終ったといわれつつ、新譜の出てくる量はもはや個人でどうにかできるレヴェルを遥かに超えているのである。

マジメなことばかりしていると頭がおかしくなるので、下らぬことも大いにするのであるが、もうおっさんも後期になるとエロい画像とか見ていてもさほどおもしろくないので(当社比)、もっぱらベッドに寝転がり、iPadRuby 関連の語句を検索してだらだら見ているのがいちばんだらけているときである。いや、そこまでお勉強するのですかと思われるかも知れないが、全然ちがうので、ファンがアイドルの追っかけをするのとまったく変わらないのである。僕はアホなので、まつもとさんの発言を読んでいて感動して思わず泣きそうになったりする(実際は泣きません笑)。ここまでくるとちょっとおかしい人であるが、まあそんなだ。それもこれも、日本人でも Ruby の悪口とか、悪口とまではいかなくてもルサンチマンの混じった発言が多いからであるが、まつもとさんはあくまで温厚で誠実である。まあしかし、ソフトウェア技術についての話は厄介なので、ある言語のここがよくないという単に技術的な話が、その言語を dis ったと思われかねないので、まつもとさんは Ruby がそういう指摘を受けた場合、素直に耳をかたむけようという態度であり、コミッターの人たちも大概そうなっていると思う。

僕が Ruby でいちばん好きなのは、これまでも何度も書いてきたけれど、そのコードの見た目がよいという、まあどうでもよさそうな理由である。それにこれは感覚的すぎて、一般化するのは無理だ。でも、僕はコードの見た目というのはかなりあると思っていて、Ruby 以外の言語でも、優秀なプログラマのコードはたいていとてもすっきりしていて、わかりやすく、見た目がきれいなのを感じる。C でも Go でもそうだ。まるで初心者の書いたようなシンプルなコードが、最適解だということは往々にしてあると思う。でも実際には、初心者はシンプルなコードがなかなか書けない。で、何をやっているのかわからないコードが生まれてしまう。僕もプログラミング用のブログに載せてある昔のコード、書き始めの頃のコードがわかりにくくて我慢できず、書き直したことが何度もある。理想的には、コメント(コードに書く説明)がなくてもわかるようなコードがよい。それはなかなかむずかしいことなのだ。

細谷雄一『戦後史の解放I 歴史認識とは何か』

晴。
夢に小中学生のときにちょっと不思議な関係だった女の子が出てきた。それほど仲がよかったというわけでもなかったのだが、詳述しないけれど、いまでもふと思い出すことがある。彼女は何かの象徴なのだろうが、何の象徴なのかよくわからない。ただ、自分がもはや若くないということと関係がありそうな気もする。もう、恋愛とかそういうことは忘れなさいという無意識の教えと思わないでもない。

NML で音楽を聴く。■ノーノの「兄弟よ何処へ?」、「生命と愛の歌~広島の橋の上で - 第2曲 ジャミラよ朝は近い」、「それはやさしい沈黙」で、演奏はノイエ・ヴォーカルゾリステン・シュトゥットガルトNMLCD)。

■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第一番 BWV1001 で、ヴァイオリンはゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ(NML)。きわめて音がきれいでピュアなヴァイオリンである。美しいといったらない。どうやらピリオド楽器のようであるが、現代楽器と変わらない運動性をもっていて、鬼に金棒というか、すばらしい出来栄えである。ヴァイオリニストについては何も知らないが、いわゆる「精神性」みたいなものも欠けてはおらず、深くて美しいバッハだ。残りを聴くのが楽しみで仕方がない。

J.S.BACH/ SONATAS & PARTITAS

J.S.BACH/ SONATAS & PARTITAS

ドビュッシー前奏曲集第一巻で、ピアノはファジル・サイNML)。最初の方は、なんだこりゃ、全然ふつうじゃないかと思って聴いていたが、やはりファジル・サイ、頑張りましたね。ドビュッシーは巨大だ。まあ、曲によってムラがある演奏ではあるが、それもサイらしいといえばそうであろう。


昼からミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。クレームブリュレドーナツ アップルシナモン+ブレンドコーヒー442円。細谷雄一の近代史を読んでいたのだが、おもしろいというか、とにかくかなりたくさんのページ数を読むことになった。そして、非常に気が滅入った。基本的な筋書きとしては、近代日本が欧米外交のデファクトスタンダードを知らなかったために、一部に明敏な識者がいたにもかかわらず、ことごとく外交で失敗したというものである。そして、さらには第一次世界大戦以降の国際的な平和指向を率先して破壊し、第二次世界大戦の導火線となったというのだ。その過程で、日本人は現在太平洋戦争時のアメリカによる無差別爆撃を非難するけれども、じつはかかる無差別爆撃を始めたのは悪しき日本であるというような事実が強調される。ついには日本は外交的にまったく八方塞がりになり(例えば無意味な「日独伊三国同盟」の締結など)、太平洋戦争での悲劇を招いた。一方で、ファシズムに断固対決したチャーチルなどが英雄視される。――まあ自分はそんな風に読んだが、もしかしたら悪意に満ちた読み方なのかも知れない。まあ何でもよいが、とにかく日本人の愚かしさをこれでもかと見せつけられて、本当に気が滅入った。本書はシリーズものなので、続編も読むつもりではあるが。
 それにしても、著者はいわゆる「村山談話」などにも否定的なのだな。ムダに外交の「パンドラの匣」を開けてしまった、愚策であると評価される。著者はわたしより三歳ほど年下であるが、おそらくは現在の日本がまた欧米流の外交のデファクトスタンダードに無知であるという認識で、それに強い危機感をもっておられるようだ。別に日本人が一般に愚かであるというような主張ではもちろんないが、愚かなわたくしにはそれも同然の効果を与えて、陰々滅滅たる気分である。なお、本書は現在の若くて優秀な学者たちから評価されていると思しい。なかなか愚かなおっさんにはつらいものがありますな。

「古い日本=クソ」「欧米=正義」なのですな…。「古い日本=クソ」たるわたくしであってみれば、何かもう老害はただ消え去るのみという感じもする…。いや、「アングロサクソン=正義」なのかな。めちゃめちゃな誤読でしょうが。さてもみなさん、本書を読みましょう!

細谷雄一『戦後史の解放I 歴史認識とは何か』読了。まあ上に感情的なことを書いたが、よい書物なのであろう。かかる歴史が「正しい」というなら、それでもよい気がする。まさしく、未来の日本は若い人たちのものだ。我々老害はただ消え去るのみであり、実際にそうなってもいるのだ。これからの日本は希望に満ち溢れているのであろうな。続巻も読もうと思う。

先日メインの PC(VAIO)のブート関連を弄くっていたせいであろう、先ほど Windows 8.1 を立ち上げた後、再起動したらデュアルブートしている Linux Mint 18.3 が起動しなくなってしまった。まことに Windows とのデュアルブートは危険である。まあ仕方がないので、サブの PC で USBメモリに Lubuntu 18.04 のイメージを焼き(Lubuntu にした理由は軽量 Linux だから)、VAIOBIOS からいわゆる「お試しモード」で Lubuntu を立ち上げる。で、Synaptic から Boot-Repair というアプリをインストールして、ブートの修復をおこなってみた。Recommend そのままにやっただけであるが、Lubuntu の USBメモリを取り除いて再起動してみたところ、うまく修復されていた。かつては大変に苦労したブート関連の修復も、最近では簡単になったものである。ふう、なんとか助かった。

なお、Boot-Repair はブート関連の修復をおこなうだけで、WindowsLinux などの OS の修復をおこなうものではありません。

『山之口貘 沖縄随筆集』

雨。のち曇。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトピアノ三重奏曲第四番 K.542 で、演奏はトリオ・フォントネ(NMLCD)。■ハイドン交響曲第九十七番 Hob.I:97 で、指揮はフランス・ブリュッヘン18世紀オーケストラNMLCD)。古典的演奏。■アルベニスの「イベリア」第三巻で、ピアノはアリシア・デ・ラローチャNMLCD)。


雨、きれいに上って好天。
珈琲工房ひぐち北一色店。白川静先生を読む。これまではどうも非科学的なような気がしていて読んでいなかったが、石牟礼さんの私淑されている先生だと知って読んでみた。もっと早く読んでいればよかった。自分も、科学教に毒されているなとつくづく思った。科学的非科学的と、そういう問題ではないのだ。先生の学問は、我々がいま現在どのように生きていくべきかということのためになされているものだったのである。そして石牟礼さんを読んでいてわかっていたことだが、先生の学問は東洋ということをはっきりと意識されてなされていたということである。もっとも、ここらあたりは自分が低レヴェルなので、先生のやろうとされていたことがはっきりとわかるとまではいかない。しかし、いずれにせよ一読してよくわかった。これからも少しづつ先生の著作を読んでみたいと思う。


図書館から借りてきた、『山之口貘 沖縄随筆集』読了。三十四年ぶりに沖縄に帰った貘さんは、戦後沖縄の何もかもが変ってしまったことに衝撃を受ける。古い沖縄が完全に消えてなくなり、まったく別の沖縄が新たに出来上がったかのような、それは有り様だった。(残っているのは舞踊だけ。)そして何よりも変ってしまったのが、沖縄の人たちが「琉球語」(貘さんは「方言」と呼んでいる)を当り前のように、まったく使わなくなってしまったこと。貘さんが琉球語で誰に話しかけても、答えはすべて「日本語」で返ってくるのだ。僕は、人がみずからの言葉を自発的に失って恬としているというのが、まるで想像できない。これはどういうことなのであろうか。それは苦渋の決断というものだったのだろうか。貘さんの記述を読むと、どうもそうではないようであるが。まあ、わたくしなどに何がわかるかと言われればわからぬと言うしかない。

山之口貘 沖縄随筆集

山之口貘 沖縄随筆集

でもまあ、自分のことを考えてみると、確かに岐阜弁というものはあるが、特に意識はしていないな。ということは、沖縄の人が「母国」の標準語をしゃべるようになっても、別に不思議はないのかも知れない。うーん、でも、本当にそれでいいのかなあ?

ああ、あと、忘れていた。戦後沖縄からなくなってしまったものに、貘さんのいうところでは、おばけとか幽霊とか、そういったものがあると。貘さんの子供の頃は、あやしげなものに囲まれて生活しているのを誰も不思議に思わなかったようである。これは、開高健もエッセイで、島尾敏雄奥さん(つまりミホさんである)の話として書いていた筈である。ミホさんによると、あやしげなものがいる場所があちこちにあって、そこで唱えるというような呪文をたくさん覚えていたという。戦後はそれらが沖縄からいなくなったそうだ。そんなことを開高は書いていたと覚えている。

深井智朗『プロテスタンティズム』

晴。のち曇。のち雨。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトピアノ三重奏曲第三番 K.502 で、演奏はトリオ・フォントネ(NMLCD)。

■バッハのイギリス組曲第三番 BWV808 で、チェンバログスタフ・レオンハルトNMLCD)。■バルトークのヴァイオリン・ソナタ第一番で、ヴァイオリンはカン・スヨン、ピアノはスティーヴン・デ・プレッジ(NML)。

Bloch & Bartók: Works for Violin & Piano

Bloch & Bartók: Works for Violin & Piano

■ノーノの「シルヴィアのための歌 『春が来た』」で、指揮はマンフレート・シュライアー、ノイエ・ヴォーカルゾリステン・シュトゥットガルトNML)。ノーノはいま聴いても鮮烈。目の覚めるよう。
Nono: Quando Stanno Morendo

Nono: Quando Stanno Morendo

ヤナーチェクのヴァイオリン・ソナタで、ヴァイオリンは塩川悠子、ピアノはアンドラーシュ・シフNMLCD)。ヤナーチェクはまさに「中間の音楽家」だな。我々にも親しい感じがする。もっと聴かないと。■ヤナーチェクの「霧の中で」で、ピアノはアンドラーシュ・シフNML)。ヤナーチェクの音楽は我々の未来のためにあるようなそれだな。
Capriccio / Pohadka, A Fairy Tale

Capriccio / Pohadka, A Fairy Tale

 
夕食を楽しく飲み食い。強いお酒がおいしい季節になってきた。皆んなで、菓子とか柿の種とかぼりぼり食いながら黒糖焼酎をロックでやったりとか。

■エルネスト・ブロッホ(1880-1959)の「エキゾチックな夜」、「バール・シェム」、「アボダー」で、ヴァイオリンはカン・スヨン、ピアノはスティーヴン・デ・プレッジ(NML)。エルネスト・ブロッホって、てっきりあの『ウェルギリウスの死』の小説家が作曲もしているのかと思った。あの人は「エルンスト」だな。ちなみに『ウェルギリウスの死』は近日読む予定であるが、面倒なことはわかっているので先延ばしにしている。『夢遊の人々』はマジきつかった。さて、このエルネスト・ブロッホであるが、時代にしては保守的な語法ですね。ロマンティックといってよいだろうが、まあいまは酔っ払っていてよくわからない。■バルトークのアンダンテ イ長調で、ヴァイオリンはカン・スヨン、ピアノはスティーヴン・デ・プレッジ(NML)。バルトークにしてはロマンティックな小品。


深井智朗『プロテスタンティズム』読了。これはいい本だな。プロテスタンティズムに関する知識を大いにアップデートさせられた。カルヴィニズムなどは大幅にカットすることで、ルターから現代に至るまでのプロテスタンティズムの歴史をわかりやすく概観させてくれる。特に二十世紀以降の話がおもしろかった。ドイツでは、プロテスタントはおおよそ保守と言っていいというのはちょっと意外だった。また、アメリカ大陸に渡ったピューリタンたちはその保守的なプロテスタントの中では迫害された集団であり、その「新プロテスタンティズム」がアメリカのいわば無意識(という言葉を著者が使っているわけではない)を形づくっているというのもよくは知っていないことだった。その「新プロテスタンティズム」も、アメリカに来て多数派になると保守化するのである。
 それにしても、キリスト教自体、本書の記述を読んでいるとまったく厄介な宗教であると思わざるを得ない。これは極東の一仏教徒の妄言であるが、「神」というものが現実に存在していたら、はっきり言ってマズいのじゃないか(笑)。まあキリスト教徒のみならず、ユダヤ教徒にもイスラム教徒にも「神」の存在は当り前なのだが、じつに困ったものである。自分だけかも知れないが、他人が「神」を信じるのは結構なのだけれど、それがどうも気持ち悪いような気がして仕方がない。なんでそんなものを心の内に飼っているのか。まあ、幼稚な妄言というか偏見はこのくらいにしておこう。知恵ある者なら、こんなことは思うまい。むずかしいものである。

なお、本書によると、現代ドイツではヴァイマール憲法で規定された国家による宗教教育が基本法としてそのまま生きていて、実際に学校では特定宗教(カトリックプロテスタント)について現在でも教育されているという。つまり、ドイツでは国家と宗教が分離されておらず、このことは意外であった。ちなみにこれもドイツにおいて、いまやカトリックプロテスタントに次ぐ第三の規模の宗教はイスラム教であり、それもあるだろう、現在では国家による宗教教育は議論の対象になっているとのことである。

こともなし

雨。
早起き。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトピアノ三重奏曲第一番 K.496 で、演奏はトリオ・フォントネ(NMLCD)。■ハイドン交響曲第九十四番 Hob.I:94 で、指揮はフランス・ブリュッヘン18世紀オーケストラNMLCD)。■シューベルトのピアノ・ソナタ第十六番 D845 で、ピアノはワルター・クリーン(NMLCD)。

ミスタードーナツ イオンモール各務原店。ハニーディップブレンドコーヒー378円。山之口貘さんの沖縄に関する随筆集を読む。今日はめずらしくフードコートで、勉強したり本を読んだりしている人たちを見かけたな。ものすごくやかましい中なのだけれど。しかし、イオンが流している音楽はヒドいね(個人の感想です笑)。

昨日佐々木閑氏をおもいっきり dis ったけれど、凡夫一生修行というのは正しいですね。
基本が大事。

Linux Mint のブートをいろいろ弄くってみたのだが、壊すのが怖いので大概にしておく。Windowsデュアルブートしていて、しかも UEFI になったのでややこしい。

佐々木閑『日々是修行』

振替休日。晴。
もうちょっと頭を休めるかな。だいぶよくなってきた。

昨日のエントリにゆたさんが書いて下すったコメントのリプライに、「若い人が本をまったく読まない」と書いたけれど、まあ読んでいる人もいるよね。でも、それはホントに極少数者で、で、その他がほぼ読書量 0 ということなのだろうと思う。けれども、自分は一応一流大学みたいなところへいっていたのですけれど、その頃からそこでも誰も読みなどしていなかったですよ。知人を見ていると、文学部とかでもそうだった。ってそれで大学で何をするのだろうね(笑)。

ホント、自分はバブル世代でクソだった。いま、日本を壊しているのは我々の世代なのではないかと妄想して、さみしいというか申し訳ないというか、そんな気持ちになる。

で、若い人たちは情弱の老害を糾弾すると。いまやネットでよく見る光景だなあ。まあ、若い人たちであろうが老害であろうが、どちらでも大して変わりはないと自分は思っている。

最近 Ruby で Thread を使う機会があって、そのせいもあって並列・並行処理にちょっと興味があるのだが、この並列・並行処理というのは非常にむずかしい。Ruby ではいまのところ fork, Thread, Fiber あたりがそれになるわけだが、自分はまだなかなかうまく使いこなせないのである。thread-safe に書くとか、同期、排他制御などが非常にむずかしい。ヘタにやると、余計に遅くなってしまう。最近では CPU のコア数が増えてきて、並列処理が大変重要になってきた。Ruby はそのあたりがあまり得意でないので、笹田さんなどが Ruby の並列処理である Guild を開発している。ちなみに Guild は完成がかなり近くなっているようで、リリースがとても楽しみだ。新しい言語は並列処理のことをよく考えてあるものが多くて、Go やら Elixir が注目されている。
 一般的にオブジェクト指向プログラミングは並列・並行処理が苦手だとされていて、それはオブジェクトが一般に mutable であるからである。むしろ、関数型プログラミングが並列・並行処理に向くとされていて、それはそうかも知れない。Elixir は関数型言語である。Ruby はいわゆる「純粋オブジェクト指向言語」で、OOP がとっても得意であるが、関数型プログラミングのような真似ができないわけではない。というか、かなり関数型っぽいところもある。Guild でそのあたりどうなるか、楽しみである。


昼からひさしぶりに県営プール。日記を検索してみると前に泳いだのが3月8日というから、(Ruby で)計算してみるとちょうど 200日ぶりということになるらしい。泳いでみたら 30分泳いだだけで結構しんどかった。でも、やはり体は多少は動かさないとダメだ。面倒なことをやらないといけないこともあり、またしばらく通おうと思う。

佐々木閑『日々是修行』読了。著者の名前は最近よく見かける。仏教研究者で、敢ていえば「釈迦原理主義者」のような人だ。もっともこれは冗談である。さて、先に結論から言っておくと、本書はダメな本である。というか、著者は仏教の本質がわかっていないというのが事実だ。しかし、これはどうしようもないバカであるわたくしがそう主張するにすぎない。そしてその主張の根拠もここで書かないという、まったくわたくしは卑怯な人間である。著者がダメであるのはわたしには明らかであるが、他人がそれをどう考えようがどうでもよい。
 さて、著者は「仏教とはなにか」という問いには答えられないという(p.9)。様々な仏教があって、仏教は「異様に混乱した宗教」なのだという(p.10)。しかしまた、仏教の核心があって、それは「修行」だともいう(p.18)。ちょっとこのあたりは著者も混乱していると思われるが、まあよい。確かに仏教において修行は終わることがない。それゆえに著者のいうことは別におかしいことはないが、正確な言い方をすると、「修行」は仏教の十分条件ではない、必要条件である。なぜなら、どのような宗教にも「修行」は存在するから。だから、著者が仏教を「混乱した宗教」というのは、その十分条件にあたるものがないという意味であろう。それなら意味は通る。ところが残念ながら、仏教には十分条件が存在しているのである。そしてそれを言葉でいうことはできない。という、わたしは愚かな非合理主義者であり、糾弾すべき蒙昧主義者である。まことに下らない人間だ。
 しかし、仏教について誤った本を書くというのはどうなのか。確かにそれは罪深いことであり、他人を惑わすことであるが、じつにわれわれはみな罪深いことにかわりはない。著者は、わたしなどよりよっぽど優れた人間ではないか。少なくとも、わたしが著者を非難することはできない。それは、天に唾する行為であるから。

日々是修行 現代人のための仏教100話 (ちくま新書)

日々是修行 現代人のための仏教100話 (ちくま新書)

 

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのセレナード第十二番 K.388 で、演奏はヨーロッパ室内管弦楽団ウィンド・ソロイスツ(NML)。好きな曲。この曲にはモーツァルト自身が弦楽五重奏のために編曲した版(K.406)もあるが、自分はこの管楽合奏版の方が断然好きである。また、モーツァルト短調の曲でもある。モーツァルトには短調の曲は長調に比べ圧倒的に少ないけれど、デモーニッシュで印象的なそれが多い。例えばピアノ協奏曲第二十番、第二十四番、ピアノ・ソナタ第八番、弦楽四重奏曲第十五番、大ミサ ハ短調などのように。この曲は名前こそ「セレナード」であるが、本格的な室内楽で、聴き応えは充分。演奏もよいね。

Mozart: Chamber Works

Mozart: Chamber Works

シューマンの「幻想小曲集」op.12 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。■アルベニスの「イベリア」第二巻で、ピアノはアリシア・デ・ラローチャNMLCD)。