須賀敦子詩集『主よ 一羽の鳩のために』 / 『クァジーモド全詩集』

曇。
変な時間に寝たので、遅く起きる。朝から戦闘機の爆音やら何やらでうるさいなかで寝ていた。

NML で音楽を聴く。■ハイドンのピアノ・ソナタ ニ長調 Hob.XVI:42、ファンタジア(カプリッチョ) Hob.XVII:4、アダージョ Hob.XVII:9 で、ピアノはアルフレッド・ブレンデルNMLCD)。ブレンデルは音が美しいな。■シューベルトのピアノ・ソナタ第七番 D568 で、ピアノはワルター・クリーン(NMLCD)。地味だがいい曲。もうこれはまったく我々のシューベルトだ。

図書館から借りてきた、須賀敦子詩集『主よ 一羽の鳩のために』読了。母から廻してもらった本。解説で池澤夏樹氏がいろいろ言っておられるが、自分には要するにお嬢様のポエムとしか思えなかった。まあ、それでいけないことはないし、そもそも須賀敦子は自分には高級すぎる文学者である。選ばれた人が読めばよいと思った。何ということもない。

 

『クァジーモド全詩集』読了。河島英昭訳。いつもながら、初読では何もわからなかったと言っていい。訳者のすぐれた解説を案内に、また読み直してみたいと思っているが、いまの段階でも感じていることはある。クァジーモド詩の語彙は、とても古典的なものがベースになっているということだ。特に、生き物の名が頻出するのは誰でもすぐに気がつくと思う。そして、川、空、月、風、河口、星座、森、海藻、神話、婚礼、死、島、貝…といった、単純な言葉たち。単純どころではない現代詩でありつつ、まるで太古の息吹を伝えているような感じがする。昨日これを読んで寝たのでわかるが、クァジーモド詩は無意識に豊かな滋養を供給するのだ。これこそが詩の役割りのひとつであると思われるが、如何なるか?

クァジーモド全詩集 (岩波文庫)

クァジーモド全詩集 (岩波文庫)

それにしても、訳者の全訳稿は比較的早く完成していたのに、いくつもの出版社を転々としては、ようやく筑摩書房に見出されたとは。本文庫あとがきで訳者はさらに、本全訳詩集が出版されて二十年になるが、日本においてクァジーモドが広く読まれたとはいえないと仰っている。そうなのだな。そういうものなのか。つい、余計なことを書いてしまいそうである。いずれにせよ、岩波文庫に入ったのはまずはありがたかった。出版社は、長く保って切らさないようにしていただきたいものである。


通院治療。とりあえず今日でおしまい。まだこれで治ったかどうかはわからないし、副作用のピークはこの一週間後あたりらしい。ただ、熱が出たりして最後までできない人もいるというので、それはよかったと言われたそう。現場のひとにはよく気を使って頂いたしな。ありがとうございました。あとはしばらく措いてのちの検査次第である。


NML で音楽を聴く。■コダーイ無伴奏チェロ・ソナタ op.8 で、チェロはエマニュエル・ベルトラン(NML)。この曲は無伴奏チェロのための傑作とされていて、録音も少なくないが、自分にはむずかしい。けれども今回、多少わかるかなという気がした。現代音楽の手法と民族音楽の接点にある曲であり、バルトークとよく似たアプローチであるが、この曲を聴くかぎりでは、バルトークよりもモダンな感じがする。そして、チェロという楽器がいかに深いかを教えてくれる曲でもあろう。自分はチェリストについて知るところがないが、ベルトランが相当の人であることは明らかで、圧倒される。

Various: 20th Century Cello Wo

Various: 20th Century Cello Wo

ガスパール・カサドの無伴奏チェロ組曲パスカル・アモイヤルの「Itinerance」で、チェロはエマニュエル・ベルトラン(NML)。

togetter.comあーおもしろかった。世間知のない自分にはよくわからないところもあるが、それにはっきり言って関心もほとんどないのだが、おもしろかったのでリンクしておく。ちなみに、コメント欄などではパヨクがバカにされていますが、わたしは教条主義的パヨクです(笑)。しかし、こういうのを読んでいると確かに野党もマスコミも終っているね。ホントどうでもいいのだが。

けれども、野党やマスコミは終っているというのはかしこいツイッター諸氏の口癖であるが、もちろんそういう君たちも終っているから安心なさい。もちろんわたくしも終っている。皆んなオシマイ。終了。


ヒマなときの理系書の斜め読みを、また始めようと思う。どうせわかっていないので御安心(?)下さい。とりあえず、小出昭一郎『物理現象のフーリエ解析』を斜め読み。小出昭一郎先生とはなつかしい。初学者向けの物理本をわかりやすく書かれる先生だった。自分は学生のとき小出先生の本はあまり読まなかったが、クソ生意気な学生だったからだと思う。フーリエ解析はプログラミングでも有用なので、本書はもう少しきちんと読もうかな。もちろん物理のあらゆる分野でフーリエ解析は必須である。本書は多少古いので、プログラミング関連の話題が一切ないのは仕方がないけれども。

物理現象のフーリエ解析 (ちくま学芸文庫)

物理現象のフーリエ解析 (ちくま学芸文庫)

池内紀『記憶の海辺』

日曜日。晴。さわやかな朝。
夢で、ドッジボールのボールみたいなポンポン弾むビニールボールの、発見と収集に関する一大スペクタクル(?)を見る。何でそんな夢を見たかわからないが、とてもおもしろい夢だった。

昨晩は澁澤龍彦を読んで寝たのだが、澁澤みたいな人はどんどん出てくるべきなのに、実際はめったに出てこないな。結局中沢さんくらいのものか。中沢さんは、澁澤は現代人に可能な想像力の全領域を踏破しおおせてみせたと言っていた。よく、澁澤龍彦なんて中学生、せいぜい高校生くらいまでに読むべきものと言われているが、自分は幼稚なので学生のとき愛読して、いまでも読んでいるという。こんなにイマジネールが豊かなひとは最近ではほとんど見たことがない。現代はイマジネールが貧困であるというのは紋切り型だが、真実であるといわざるを得ない。ひとごとではないのだ。

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NML で音楽を聴く。■ハイドンのピアノ・ソナタ ホ短調 Hob.XVI:34、ロ短調 Hob.XVI:32 で、ピアノはアルフレッド・ブレンデルNML)。

3 Piano Sonatas

3 Piano Sonatas

ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3楽章」、シェーンベルクの六つのピアノ曲 op.19、バッハのオルガン小曲集から BWV639(F・ブゾーニ編)、ショパンスケルツォ第一番 op.20、ブラームスの「パガニーニの主題による変奏曲」op.35、ブゾーニソナチネ第六番「カルメン幻想曲」、スクリャービンのピアノ・ソナタ第五番 op.53 で、ピアノは杉本恭子(NML)。杉本恭子、何者! 自分はまったく知らないピアニストであるが、たぶん既によく知られているのではないか。検索していてこのアルバムを見つけたのだが、収録曲からしてどうしても聴きたくなっちゃうではないですか。ものすごく意欲的な選曲である。いやあ、あれよあれよという間にアルバム全部を聴いてしまいましたよ。一言でいうと、ハードボイルド! 技術はものすごく高くて、「ペトルーシュカからの3楽章」を完璧に弾きこなしているが、それだけではない。日本人にはめずらしく明晰さがあり、構築性がすばらしい。そしてスケールの大きいこと。音も魅力的。変な褒め方だが、ドイツ・グラモフォンと契約してもおかしくないですよ。自分とは相性がすごくよくて、ショパンとかスクリャービンとか、心を奪われてしまった。シェーンベルクでも、op.25 じゃなくて op.19 なのが主張を感じる。いや、すばらしいピアニストを発見してしまいました。このピアニストで、リストのピアノ・ソナタ ロ短調とか、ショパンのバラードスケルツォの全曲とか、シューマンの「謝肉祭」とか是非聴いてみたい。
Virtuoso Piano Works

Virtuoso Piano Works

杉本恭子、全然無名らしいですな。マジですか…。アマゾンでの CD はジャケット写真がまちがっているし。何なのだ…。お前ら、これすばらしいと思わないの?

しかしこれ、無名というか、検索で見事に引っかかってこないのですけれど。ふつう何か引っかかるものだが。どうなっているのかさっぱりわからない…。

夕食後、寝てしまう。深夜に起きる。

図書館から借りてきた、池内紀『記憶の海辺』読了。副題「一つの同時代史」。母から廻してもらった本。自伝である。まずまずおもしろかった。よい時代を生きてこられたなあと思う。著者はみずからの偏屈ぶりをこれまでもよく筆にしているが、本書は偏屈者の自己証明のようなものだ。しかし、たくさんのよき人々と巡り合ってこられたものだと思う。私は、よき知人が多い人というのは、偶然そうなったのではないと思っている。思えばわたくしは、知人の少ない男であった。教師をしていても、生徒に慕われたということがなかったと思う。著者の半生を読んでいると、そういうことはその本人がそう望むかどうかなのだとわかる。

記憶の海辺 ― 一つの同時代史 ―

記憶の海辺 ― 一つの同時代史 ―

 
河島英昭氏が亡くなったのだな。先日、ウンガレッティの訳詩集について書いたばかりである。いまからクァジーモドを読む。

池内了『科学者と戦争』

曇。
十一時間くらい寝た。

ごろごろする。

昼から三時間くらい寝た。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第三十二番 K.454 で、ヴァイオリンはアンネ=ゾフィー・ムター、ピアノはランバート・オルキス(NMLCD)。■バッハの「ゴルトベルク変奏曲」BWV988 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NML)。やはり名曲だな。当り前か。これは1990年の録音で、シュ・シャオメイは2015年にもこの曲を再録音している。それも NML で聴けるようだ。

GOLDBERG-VARIATIONEN

GOLDBERG-VARIATIONEN

ベートーヴェン弦楽四重奏曲第三番 op.18-3 で、演奏は東京Q(NMLCD)。■シューベルトのピアノ・ソナタ第六番 D566 で、ピアノはワルター・クリーン(NML)。こんな曲があったのか。シューベルトはおもしろいな。リヒテルの録音とかないかな。
Schubert: Piano Sonatas Vol.1

Schubert: Piano Sonatas Vol.1

 
ゆたさんに勧められて NML を使っているけれど、このところ NML を聴いてばかりいるな。とてもよい。でも、たぶん三分の一くらい現実逃避だと思う。何か、何にもしたくないので。

NML で音楽を聴く。■ブラームスの「ドイツ・レクイエム」op.45 で、指揮はカルロ・マリア・ジュリーニウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ウィーン国立歌劇場合唱団(NML)。圧倒的な曲であり、演奏だな。でも、僕はこの曲が好きなのだろうか。そもそもよくわかっているのだろうかという疑いがある。何か、宗教曲にしてはあまりにもマッシヴなのだよね。なお、「ドイツ・レクイエム」というのは、「ドイツ語によるレクイエム」とでもいう意味。ふつういうレクイエムというのはラテン語のテクストなので。もともとはシューマンの死をきっかけに構想されたものであり、ブラームス30代半ば頃に完成した。僕はよく知らないけれど、たぶんブラームスの若い時代の終わりを示すような作品なのではないかなと思う(でもよくは知らない)。交響曲第一番が書かれるのはまだまだ先のことだ。

Brahms:Vol.8 German Requiem

Brahms:Vol.8 German Requiem

 

図書館から借りてきた、池内了『科学者と戦争』読了。全体として底が浅く、徹底して考えぬかれていない。本書の基盤は「戦争こそ人間を破壊する最大の元凶であり、いかに言い訳しようと戦争を許容する教養はありえない」(p.192)というものであろうか。「教養」などという、今は誰ももっていないもの(もちろん私も著者ももっていない)を持ち出しているのは御愛嬌で、その他にも「人格」「人間性」などの言葉が並ぶ。まあ、この素朴さがまた本書の強みでもあろうか。さて、著者は軍事研究を糾弾するけれども、では例えば「軍事研究を怠ったために、他国からの侵略戦争に敗れてもよいのか」とか、「強大な軍事力があるゆえに、他国から侵略されないのである」というような(これまた)素朴な主張を、著者の論理はまったく退けることができない。このような主張は、かならず著者のような主張と平行線になり、お互いにお互いを非難し合うだけである。自分はパヨクだから「軍事研究は悪である」という著者の主張を肯定するが、それはあくまでもイデオロギー的にそうするだけであって、論理的なものではない。
 この問題は本当に厄介なのだ。つまりは、「愛国心」というものをどう捉えるかということである。祖国というものは愛されねばならないのか。そして愛されるがゆえに、他国の支配下にあってはならないものなのか。これがむずかしいのだ。例えばこのブログを読んで下さっている少数のひとたちには、わたくしに愛国心などあるのかと思われるかも知れない。いわゆる非国民的発言ばかりしているから。けれども、そのあたりは自分は完全に矛盾している。サッカーの日本代表が勝ったり、オリンピックで日本人がメダルを取ったりするとうれしいというような素朴な感情はやはり愛国心であろうし、それに日本が絶頂だった80年代の子である自分は、いまの日本のエレクトロニクス産業の凋落ぶりや、日本の学術研究の崩壊ぶりを見ていると、理屈抜きに哀しい。日本人がダメになっていくのを日々実感しているのも、たまらない気がする。そういう自分が、「軍事研究は悪である」と主張するのは、いや実際そう主張するのだが、完全に矛盾なのだ。そもそも国立大学の存在そのものが、国策のため、国益のために存在するのである。自分はそれでも「軍事研究は悪である」と主張するが、それは矛盾そのものである。
 これは本書とは関係のない話なのだが、近年自分はずっと、「人を殺す」ということは何なのか、自問している。人が人を殺すとは何なのか。また、どうして人間は戦争をしたがるのか。これらはこれまで散々多くの人たちに問われ、過去の賢者たちによっても解決できなかった難問である。もちろん答えは出ないのだが、問わずにはいられない問題でもある。しかし、一方では、著者らのように底は浅いが、現実的な運動を起こしていくことの重要さもわかっている。結局、自分は頭でっかちなのだ。そして実際には何もしない。最低の人間である。

科学者と戦争 (岩波新書)

科学者と戦争 (岩波新書)

国家は最悪の存在である。しかし、国家よりマシなものが存在しない。これが自分の矛盾の根源のひとつである。これには次のようなコロラリーがある。すなわち、国家は必要である。けれども、国家は信用できない。

結局、自分が軍事研究を肯定しないのは、何かそこにイヤなものがあるからである。そのような曖昧な基盤しかないが、けれどもやはりそれが基盤なのだ。そういうしかない。

こともなし

曇。

Linux Mint を 18.3 にアップグレードしてから日本語のインプットメソッドがデフォルトで mozc でなくなってしまったようなのだが、これをもとに戻すのがわからない。いまだと、起動後にわざわざ GUI で mozc を選択してやらないといけないのだよね。$ fcitx-diagnose で調べてみても、特におかしな所はなさそうなのだが。確かに「既定の入力メソッド」は mozc ではなくて fcitx-keyboard-jp なのだが、ふつうに最初から mozc の使える Ubuntu 18.04 でもそうなっているので、別にいいみたいだ。わかりませぬ。まあ大した手間ではないのでいいのだが、解決法がわからないというのはおもしろくないねえ。

ブログ「本はねころんで」さんが Linux に挑戦のようで「おお」と思う。文系の大変な読書家でおられるのに、機械にもお強いようだ。Linux は一般にはあまり知られていないし、敷居が高そうに思われているが、Ubuntu 系(僕のメインで使っている Linux Mint もそうである)とかだったらいまはネット上に情報がたくさんあって、検索すればたいていのことは解決する(ちょっと面倒なことになると英語で検索しないといけないが)。僕も検索検索でここまでなんとかやっています。かつてはネット接続とか日本語入力を整えるのが本当に大変だったようだが、いまは昔に比べたら簡単になった。アメリカなどでは最初から Windows ではなく Linux を使うユーザーも増えてきたらしい。Windows 10 でも Ubuntu が使えるようになったらしいし(って自分には意味がよくわからないのだが。そもそもファイルシステムからしてちがうだろうに)。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第二十七番 K.379 で、ヴァイオリンはアンネ=ゾフィー・ムター、ピアノはランバート・オルキス(NMLCD)。

通院治療。あと月曜日だけになった。でもこれで終わりかどうかはわからなくて、検査の結果次第である。これで治っているといいのだが。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第五番 op.18-5 で、演奏は東京Q(NMLCD)。■ブリテン無伴奏チェロ組曲第三番 op.87 で、チェロはエマニュエル・ベルトラン(NMLCD)。

早寝。

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■ブラームスクラリネットソナタ第一番 op.120-1 で、クラリネットは松本健司、ピアノは横山幸雄NMLCD)。なかなかいい演奏。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第四番 op.18-4 で、演奏は東京Q(NML)。いい演奏。東京クァルテットというのはなかなかユニークなカルテットだな。内声部を日本人がやっていることと関係があるような気もする。

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲集 (2CD) [日本語帯・解説付き輸入盤商品]

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲集 (2CD) [日本語帯・解説付き輸入盤商品]

ベートーヴェン交響曲第三番「英雄」op.55 で、指揮はクラウディオ・アバドベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。アバドのすばらしい演奏。アバドらしく自然体かつオーソドックスで、まあベートーヴェンなのだからもっと大見得を切ってもいいとは思うけれど、最高のクオリティであると思う。この曲はベートーヴェンがのちのちまで誇りにしていた傑作であり、彼の五本の指に入る代表作である。クラシック音楽を聴くのに仮に目標などというものがあるとすれば、この曲を自分なりに把握するのはその目標のひとつであるかも知れない。別に「人類の至宝」と言ったって、おかしくないのではないか。
Claudio Abbado: The Symphony Edition

Claudio Abbado: The Symphony Edition

エロイカ交響曲の演奏として自分の印象に残っているのは、ブリュッヘン18世紀オーケストラのそれと、小澤征爾サイトウ・キネン・オーケストラのそれである。どちらもマジメで正面からの正攻法です。この曲には、そういう演奏が似合うと思っている。

ツイッターとか Tumblr でよく名言を集めている人がいるけれど、あれ、名言をいう人と集めている人ってたぶん重ならないよね。どうでもいいけれど。まあ、名言をいう人がすごいってわけではなくて、たぶんそういう人は名言のネタになる人を観測しただけなのだろうと思う。ほんとにすごい人はそういうどうでもいいことに意識がいかないのではないか。ってどうでもいいですね。

通院治療。あともう少し。


ネットニュースを見ていると日本終了という記事ばかりでうんざりする。確かにそれは事実だけれど、たぶんもう皆んな知っていることだし、誰も自分に関係あることとは思っていないのだから、もういいのではないか。いまだに日本終了を知らない人にそういうことを言ってもムダだし、意味ないと思う。僕は、日本が終了したのは2017年だと思う。別に2017年に何かあったわけではないけれど、そんな気がする。それへの対策というものもない。別に日本というシステム自体はまだほとんど崩壊していないけれど、まちがいなく徐々に崩壊していくし、問題はそれが止められないということだ。もちろん自分などにどうしたらよいのかなどわかるわけがない。世の中にはかしこい人たちがたくさんいるので、彼ら彼女らが何か考えるでしょう。まあ、そういう人たちがいちばん終了なのだけれどね。個人的に、皆んなやれることだけはやりましょう。とバカが言う。


NML で音楽を聴く。■リゲティ無伴奏チェロ・ソナタ、デュティユーの「ザッハーの名による3つのストロフ」、ヘンツェの「セレナード」、クラムのチェロ・ソナタ、ニコラ・バクリの組曲第四番 op.50 で、チェロはエマニュエル・ベルトラン(NML)。現代音楽の無伴奏チェロのための作品集。いやあ、力作揃いだなあ。まさしく NML で聴くのがぴったりのアルバムだ。あとで二枚目も聴こう。

Various: 20th Century Cello Wo

Various: 20th Century Cello Wo

 
何となく何もする気がしないので、AIZU ONLINE JUDGE をやっていたのだが、段々自力で解けなくなってきた。むずかしい。まあ自分はこのくらいのレヴェルかなという感じ。

レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』

雨。
昨晩はひさしぶりに深夜までコーディングをしていた。やはりプログラミングって悪くないですね。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第五番 BWV829 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NMLCD)。シュ・シャオメイのバッハ、よかった。これからも聴くだろう。■ブラームス弦楽四重奏曲第三番 op.67 で、演奏は東京Q(NMLCD)。これを聴いていると自分の底の浅さが浮き彫りになる。ありがたい。■シューベルトのピアノ・ソナタ第五番 D557 で、ピアノはワルター・クリーン(NMLCD)。
 
どうでもいいのだけれど、「××はモノローグだからダメで、オレたちはダイアローグだからよい」みたいな決まり文句があって、これで簡単に他人を貶められるという便利さ。最近読んだうんこたちもいっぱい使ってたね。モノローグだってよくバカにされる典型が小林秀雄。まあ自分なんかは小林秀雄とは比較にもならぬのだが(当り前である)、自分もどう思ってもモノローグだな。誰か批判してくれないか知らん。しかしこれ、誰が流行らせたのかな。柄谷行人あたり、よく使っていたね。

にゃん。

okatake さんも幸田文か。幸田文、このところ(極一部界隈で)よく見かけるなあ。でも、わかる気がする。黙ってやるべきことをやった本物ということなのかな。ちょっとちがうか。うまく言えないな。
本物が前景に来ない時代だものね。表に出ているのはうんこばかり。本物がいないわけではないのだけれど。でも、もうそのうちにいなくなる。

ウンガレッティを読み返す。つくづく訳詩を読むむずかしさを感じる。第一詩集『喜び』を特に繰り返し読んでいるのだが、翻訳で読んでいるかぎり何も言うことはできない。これは日本語の詩とするのは無理なのではないかと思うのもある。たとえば画期となったとされる「砂漠の金の麻」は、私にはほとんどわからない。もっともこれは、自分だからわからないのかも知れない。これらは第一次世界大戦時に塹壕の中で書かれたものであるが、発表の意志がなかったというのはそのとおりであろう。たぶんウンガレッティは、塹壕内で肉片と化した自分と同じく詩篇たちも粉々になってしまうことを確信していたような気がする。実際、第一次世界大戦時の塹壕戦は、ただただ兵士たちの命の限りない消耗にすぎなかった。ウンガレッティが生き延びられたのは、まったく運がよかったというしかなかったのだろう。以上、無意味なおしゃべりである。

それにしても、ウンガレッティがモダニズムから離れた詩人であるというのは、これは訳されたものを読んでいるとほとんど驚きである。自分は、例えば日本の「戦後詩」の現代性とそれほどのちがいを感じないのだが(きちんと読めていないのか)。これは、原詩の韻律が翻訳不可能であるせいが大きいのか。確かに我々も、日本語の韻律詩である俳句だと、なかなかモダニズム詩と称することはむずかしいかも知れない。厄介なことである。

通院治療。あと少しになってきた。


普段は Linux Mint を使っているのだけれど、時々 Windows も使うので仕方なくウィルスバスターを更新。早く更新しろってうるさいのだよね。それにしても高いなあ。ウィルスバスターのせいで本当に Windows が遅くて(同じマシンで Linux Mint を使うので、差は歴然としている)、しばしばフリーズするし、もう世の中の大部分が Windows を使っているからどうしようもないけれど、何とかして欲しい。Windows はもう少しまともな設計にすればいいのに。Windows Update も勘弁してもらいたい。何で Debian の apt みたいにいかないの? それに、エンコードはもういい加減に Shift_JIS は滅んで欲しい。ふつうに UTF-8 でしょう、いまは?

それに、日本では特に何でも Excel で、これがプログラミングの普及を妨げている。「神 Excel」とか、もう勘弁して欲しい。自分は Microsoft Office はもっていないが(いや、少し古い Windows 7 用のはもっているけれど)、こればっかりでしょう。しようがないなあ。

図書館から借りてきた、レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』読了。村上春樹訳。チャンドラーは『ロング・グッドバイ』をこれも村上春樹訳で読んで感動したので、フィリップ・マーロウもの長編第一作を読んでみた。『ロング・グッドバイ』は全篇に悲哀の雰囲気があったが、本作ではマーロウは結構かっこつけで、タフを気取ってちょっとイタいところもある。また、ラストはいかにも取ってつけたようで、なんとも拍子抜けさせられざるを得ない。マーロウへの依頼も、すべてわかってみると、は?という感じだ。また、訳者も述べているとおり、ミステリーとしてのプロットはそれほど緻密でない。(誰によって殺されたか最後までわからない人物もいる。チャンドラーは伏線を回収するのを忘れていたようだ。)ということで、自分は本書は『ロング・グッドバイ』には及ばないと思うが、しかし以上の欠点があっても、この小説はなかなか魅力的だと思う。マーロウが意地を張り続けるのは依頼人の心情を汲んだからで、そこではマーロウはまったくぶれていない。本書最後の執事との会話が、自分は本書のクライマックスだと勝手に思っている。さすがにホロリとさせられました。結論的にいうと、読んで満足しています。村上春樹の翻訳も、いろいろいう人はあるけれど、現代的でよい文章であるのは明らかだ。他のチャンドラーの村上訳も読んでみたいと思っている。

大いなる眠り

大いなる眠り

しかし、ミステリーでの無意味な殺人は、どうも自分には苦手である。本書でも、すべてわかったあとでの最初の殺人は、じつに無意味なものだ。それだから、ある登場人物が特殊な性癖であることが要請されている。どうも、そうした不自然さが気になってしまうのだ。これでは、おもしろいことはわかっているのだが、なかなかミステリーが読めませんな。

『ウンガレッティ全詩集』

晴。
基本に。基本ってのは最初にやるというよりは、一生それに立ち返っていくものである。それを見つけることが大事なのだ。見つけた人は幸いなるかな。

丸亀製麺イオンタウン各務原。とろ玉うどん大+イカ天+エビ天。うまかった。
スーパー。

通院治療。


NML で音楽を聴く。■シューベルトのピアノ・ソナタ第四番 D537 で、ピアノはワルター・クリーン(NMLCD)。まさしくこれは我々の知っているあのシューベルトだ。シューベルトのピアノ・ソナタは、おそらくここからシューベルトその人になると思しい。いい曲ですね。しかし、すばらしい第二楽章は、自分の記憶だともう少し装飾音が付いていた筈なのだが、エディションがちがうのかな。■シューマンのピアノ・ソナタ第一番 op.11 で、ピアノは浜口奈々(NMLCD)。うん、これは昨日聴いた「ダヴィッド同盟舞曲集」の演奏よりもずっとわかった。というか、昨日聴いたのはこちらが無理解であったのかもな。このピアノ・ソナタ第一番は、よく弾き込んであるように感じた。日本人ピアニストのユニークさが出ていると思う。ただ、自分はシューマンと同じ分裂気質で、シューマンを偏愛しているので、この健全な演奏は多少もの足りなかったのも事実である。それに、このピアニストは、それほどロマンティックというわけでもないようだ。数少ないであろう録音の機会に、シューマンを選んだのはよかったのかなとも思う。まあしかし、それは余計なお世話というものであろう。さらなるご活躍を祈念したい。■シューマンの「交響的練習曲」op.13 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。1958/11, ウクライナでのライブ録音。うーん、困る。詳細に書こうか迷うが、まあ簡潔にしておくか。まず、ノイズ処理がしてあって音は驚くほど美しい。ただ、変奏間にデジタル的な空白が取ってあって、それが不自然で気になる。演奏は40代前半のリヒテルの凄まじさが全開で、手加減一切なし。そして、かなり微分的というか、即興的というか。いちばん問題なのは、飛んでもない第六変奏の爆演(爆炎?)のあと、息をつめて第七変奏冒頭の一撃を待っているところに、なんと第九変奏である! 第七、第八変奏が省略されているのだ! これはつらい。でも、確かスタジオ録音でもこうだった気がする。何故? わかりませぬ。という感じで、万人に勧められるものでは毛頭なし。リヒテル狂、そしてこの曲を偏愛する者だけ聴けばよいのかも知れない。なお、フィナーレの最後の方、ミスタッチというよりは弾き間違いというくらいの大きなミスがあったりする。困る困る。とにかく、こんな体験はリヒテル以外ではありえない。

Schumann/Brahms: Richter

Schumann/Brahms: Richter

これ、CD だと12枚組なのだが、詳細を見てみると聴かざるを得ない感じだな…。NML バンザイであろうか。

『ウンガレッティ全詩集』読了。河島英昭訳。本当は「読了」などと書くべきではないかも知れない。ただ活字を追った程度の読み方しかできていないので。一読では何もわからなかったといっていいだろう。しかし、訳者・河島英昭氏の解説には感銘を受けた。(思えば、この老文学者の翻訳で、どれほどの文学作品を読んできたことだろう。)解説を読んで、また始めから少し読み直しているところである。確かに翻訳で詩を読むというのは無意味なのかもしれないが、でも自分は外国語ができないのだから、翻訳で読まなかったら読む術がない。どうしようもないのである。それにしても、訳者も書いておられるが、詩の翻訳をするというのはほとんど絶望的な作業でもあろう。「翻訳は裏切り」ということわざ(これ自体じつは翻訳不可能なのだが)があるくらいで、もとの詩とは似ても似つかないものができる他ないからだ。そして、その苦心の翻訳を、自分のような文学のわからない奴が読む…、絶望的である。でも、仕方ないではないか。そうするより他にしようがない。まあつべこべ言っていないで、もう少し読み直します。で、クァジーモドもあるので、余裕があったらそれも読みます。

しかしこれは、岩波文庫以外の文庫では無理な出版かもしれないなあ。このところの岩波文庫の詩の充実ぶりはどうなっているのだ。すごい。