柴田宵曲『子規居士の周囲』

曇。

うどん「ひらく」にて昼食。冷やしたぬきうどん

ネットを見て、時代は進んでいるなあと思う。

柴田宵曲を読む。
で、ごろごろ。


夜、柴田宵曲『子規居士の周囲』読了。わたしには佐藤紅緑の句がとても好ましかった。すっとわかるので、どういうものかね。本書にも遠回しに書いてあるが、紅緑は悪評の高かった人らしく、Wikipedia でも散々の書かれようである。しかし宵曲翁の評するとおり、紅緑の句は繊細で、俗気がなく、それこそ俗な言い方をすると「心が洗われるような」澄んだ句が少なくない。宵曲翁も高く評価していることをわたしは疑わない。

子規居士の周囲 (岩波文庫)

子規居士の周囲 (岩波文庫)

こともなし

曇。
ずっと変な夢を見ていた。何かの競技の夢。

自分がすごく薄っぺらい感じ。

NML で音楽を聴く。■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Canon IV alla Duodecima in Contrapunto alla Quinta, I per Augmentationem in Contrario Motu, Contrapunctus inversus XII a 4 forma recta, XII a 4 inversus, inversus XIII a 3 forma recta, inversus XIII a 3 forma inversa, XIV で、ピアノはセリメーヌ・ドーデ(NMLCD)。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第十三番 K.333 で、ピアノはフリードリヒ・グルダNMLMP3 DL)。■モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲 K.299 で、フルートはスーザン・パルマ、ハープはナンシー・アレンオルフェウス室内管弦楽団NMLCD)。まさに天上の音楽。このオルフェウス室内管のモーツァルト集は聴き応えがあるな。

しかしモーツァルト、天才すぎてこちらはしんどい。

消費増税で景気が悪化することはほとんどの方が理解されているだろうと思うが、どこまで悪くなるかは実際になってみないとわからない。いま、世界経済がかなり悪いというものも多くの方が知っておられるだろうが、それゆえ既に諸外国では金融緩和がぼちぼち始まっている。まったくバカなときに日本は増税したわけで、したものは仕方がないが、マスコミの報道を見ると日本の金利は既に最低水準で、金融緩和はムリという御託宣が多い。もちろんそんなことはないので、増税と金融緩和ではブレーキとアクセルを同時に踏むようなものでアホらしいが、とにかく国債をバシバシ発行して貨幣の流通量を増やすべきなのは当然で、しかしこれは不勉強な方には叱られるであろう。まあ、そういう金融緩和ムリ論はマスコミでは一般的で、それにしてもいかにも不勉強でこんなことでよいのかなとは思う。もうそんなのどうでもいいといっちゃあ、いけないのでしょうねえ。実際どこまで景気が落ち込むかは、これはわたしなどにはホントにわからない。どうなるのだろう。

ちなみに、日本だけ金融緩和せず景気が悪化すると、さらに苦しいことに円高になります。民主党政権時代の悪夢再来か。増税賛成金融緩和反対の経団連とか、まじバカだな。そんなに日本経済を崩壊させたいのか。結構な話だ。

こんな他人の受け売りを書いていてもしようがないので、昼寝でもするか。というわけで三時間くらい寝る。


大西巨人『春秋の花』を読む。図書館から借りてきたもの。大西巨人氏の本は時々借りてくるのであるが、この人はわたしにはこわい人なのでつい読まずに返してしまうことが多い。本書は古今の日本の詩文の断片を蒐めて著者の簡潔な文章を添えた本で、まずは読みやすい。大西巨人氏のイメージからすると意外なほどに瑞々しい断片ばかりが選ばれていて、感銘を受ける。いや、「意外」というのはわたしがおかしいので、本物というものはまさにかくある筈である。本書には巻末に詳しい索引がついていて、小林秀雄吉本隆明の断片が含まれていることをわたしは知った。万葉以来の「抒情詩」(といっていいのか)もたくさん含まれている。我々の時代には望むべくもない書であろう。

春秋の花 (光文社文庫)

春秋の花 (光文社文庫)

  • 作者:大西 巨人
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 1999/03
  • メディア: 文庫
 
日没後、少しだけ散歩。
20191001175015
彼岸花は毎年同じ場所に出るが、今年は十日ほど遅いので心配した。上の写真の場所はここ何年か気にかけているところで、ようやく咲いた。花は既に痛みかけているが。あまりうまくは撮れていないね。

戦闘機が三機、轟音とともに北へ。ウチは虫の声に満ちている。

■バッハのオーボエ協奏曲ヘ長調 BWV1053 で、オーボエセリーヌ・モワネ、指揮はヴェルナー・エールハルト、ラルテ・デル・モンドNMLCD)。■レーガーの「アルノルト・ベックリンによる四つの音詩」 op.128 で、指揮はイラ・レヴィン、フランクフルト・ブランデンブルク州管弦楽団NML)。

Four Tone Poems After Arn

Four Tone Poems After Arn

  • アーティスト:M. Reger
  • 出版社/メーカー: Naxos
  • 発売日: 2019/10/04
  • メディア: CD
■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻 ~ No.1 BWV846 - No.6 BWV851 で、ピアノはアブデル・ラーマン・エル=バシャ(NML)。
J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲第1巻 (J.S. Bach: The Well-Tempered Clavier Book I)

J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲第1巻 (J.S. Bach: The Well-Tempered Clavier Book I)

こともなし

晴。

午前中はごろごろ。

午後からもごろごろ。

イオンモール各務原ユニクロでハイネック二着買う。ユニクロはでかい鏡だらけで、ぼーっとしたしょぼくれたおっさんが映っている。まあよろしいか。購入システムに戸惑う。早口で甲高い声の女の店員さんの言っていることが聞き取りにくい。ジジイ化。
ミスタードーナツフレンチクルーラーブレンドコーヒー378円。ザミャーチンの続き。さすがに SF としてはチャチだけれど、おもしろいですよ。結構モダニズムだ。

酒屋。

鈴木大拙「華厳の研究」(全集第五巻)を読み終える。華厳経と中国における禅との対比がむずかしい。でもこれがわからなければ、本論文がわかったことにはならない筈である。中国語とサンスクリットの世界の相違。荘厳広大で比喩として何でも使ってしまうサンスクリットの世界と、日常語での簡潔な中国語の世界。それがいずれも大乗仏教であるところが、各民族がいかに仏教を独自に消化したかを物語っている。この柔軟性、いきいきと生きた精神が大乗仏教の価値だ。
 しかし、わかったようなことを書いたが、わたしに華厳はむずかしい。『レンマ学』を参考にしてもまだとてもむずかしい。

こともなし

日曜日。曇。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十四番 op.78 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十七番 op.31-2 で、ピアノは岩崎洵奈(NMLCD)。なかなかいい。

昼寝。


珈琲工房ひぐち北一色店。ザミャーチンの『われら』を読む。これはおもしろい。オーウェルが発見したロシアのディストピア小説とのことである。いまでいえば SF のジャンルに入れてもよいであろう。自分は現在が、高度に知的な人物が SF を好んで読むという意味で「SFの時代」であると思っているが、本書は現代に適合的であるともいえようか。ちなみに、わたしは現在では反SF的であるかも知れない。高校生の頃は、SF ばかり読んでいたのですけれどね。


ツェルニーの「ウィーンのワルツによる変奏曲 『あこがれのワルツ』」 op.12、アルフレート・グリュンフェルト(1852-1924)の「ウィーンの夜会 - シュトラウスによるパラフレーズ」で、ピアノは岩崎洵奈(NMLCD)。なかなかよい。■パウル・ユオンの室内交響曲変ロ長調 op.27a で、演奏はチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団のメンバー(NMLCD)。

坂本龍一の『async』を聴く。
僕は坂本龍一の底を踏み破っているのか、ちょっとわからないなと思った。他日、別のアルバムを聴いてみよう。このアルバムはまた一年後くらいに。

Async

Async

柿木伸之『ヴァルター・ベンヤミン』

曇。

午前中、甥っ子の勉強を見る。


「資本主義を変質させねば」というからには、資本主義は変っていないということか。いや、それはちがうともいえる。従来の軌道をどんどん進めているという点では、確かに変っていっている。しかし、従来からの方向はまったく変えていない。我々の考えねばならないのは、その方向を変えるということだ。資本主義の「変化」が我々を変化させている以上、我々の変化が資本主義を変化させねばならないということであろう。もはや「思想」を変えるしかないのだが、たぶんそれはほぼ絶望的にムリなわけだな。

ちと話の主語が大きすぎるわけだが。

ラグビーW杯、日本がアイルランドに劇的勝利。テレビを見ていて、すごかった。しかし、まさか勝つとは…。最後、はやく時計が進めと思ってしまったね。


柿木伸之『ヴァルター・ベンヤミン』読了。秀才の仕事。僕はベンヤミンの翻訳書はすべて文庫版でちょうど二十冊もっており、そのすべてに目を通しているが、いまだにまるでわからない(こういうのは読んだといわない)。本書もわたしの能力を超えている。アホは困りますなあ。
 なんかベンヤミンって読んでいるとカッコいいという雰囲気で、かつてはベンヤミン云々ってしょっちゅう言われていたし、うるさかったなあ。こちらに能力と教養がなさすぎて、ベンヤミンのどこがおもしろいのかいまひとつわかっていない。まあ複製芸術による「アウラの消滅」とか、そういう紋切り型のわかりやすい話はもちろん誰でもわかるけれど。それから、あの面倒な「パッサージュ論」まで邦訳さらに文庫化までされていて、目を通したのはいいのだけれど、結局何だったのだろうという感じ。さらには、『ゲーテの「親和力」』とか『ドイツ悲劇の根源』とか? そういや学生時代に東京の知人のところに泊めてもらっていて、岩波文庫の『暴力批判論』を読んでいたら、知人がげんこつを突きつけてきて、「批判してみろー」とか言っていたっけ。まあそんなこんなだから、本書はわたしには高級すぎますね。にゃお。

そうそう、ベンヤミンといやパウル・クレーの「新しい天使」だったね。本書もクレーから始まっている。で最後はピレネー山中で自殺したと。


NML で音楽を聴く。■モーツァルトオーボエ協奏曲 K.314 で、オーボエはランダル・ウォルフガング、オルフェウス室内管弦楽団NMLCD)。■ショパンのバラード第一番 op.23 で、ピアノは岩崎洵奈(NML)。何度も途中で聴き止めようと思ったのだが、結局最後まで聴いてしまった。いまの自分と相性がよいのかな?

ジェイ・セカンド ~バラード~

ジェイ・セカンド ~バラード~

ショパンのバラード第二番 op.38、第三番 op.47、第四番 op.52 で、ピアノは岩崎洵奈(NML)。岩崎洵奈のバラード全曲を聴いてみた。大満足。このピアニストがよいそれか自分にはまったくわからないのだが、少なくともこれはよい。じつに素直なバラードで、しかしポイントは的確に掴んでいる感じ。西洋人的な強い個性はないが、だからといってつまらないとは限らないのだ。これぞよい意味での日本人ピアニストの演奏だと思う。(追記。検索していたら、ショパン・コンクール(ディプロマ賞)でアルゲリッチに「自然で美しい演奏」と賞賛されたとか。アルゲリッチと全然ちがうタイプなのだが、さすがにアルゲリッチは広大だねえ。)■ブラームスのピアノ四重奏曲第三番 op.60 で、演奏はエリゼーン四重奏団(NMLCD)。

こともなし

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Contrapunctus IX a 4 alla Duodecima, X a 4 alla Decima, XI a 4 で、ピアノはセリメーヌ・ドーデ(NMLCD)。■バッハのオーボエ協奏曲ニ短調 BWV1059 で、オーボエセリーヌ・モワネ、指揮はヴェルナー・エールハルト、ラルテ・デル・モンドNML)。

Oboe Concertos

Oboe Concertos

細川俊夫の「ドローイング」で、指揮はルイージ・ガゲーロ、ウーホ・アンサンブル・キエフNML)。
Gardens

Gardens

ショパンマズルカ op.6-1, 6-2, 6-4, 7-1 で、ピアノはアンナ・ゴラーリ(NML)。なかなかいい。
Mazurka Diary (Dig)

Mazurka Diary (Dig)

 
『日本の大転換』を読み直してみたのは個人的にとても大きかったな。あれで、どうして日本人が大きく変ってしまったのか、結び目がスッと解けるようによくわかった。それは、何の関係があると思われるかも知れないが、現在の資本主義が計算・計量可能なもの以外をどんどん排除し、自閉していっていることと関係がある筈である。まあ、多くの人には、コイツなにいってんのでしょうね。それはよいのだ。これは自分には小さくない突破だった。もっといろいろ関連して考えられる筈である。

しかし東日本大震災原発事故は資本主義を日本から変質させていく大きなチャンスだったのに、それに完全に失敗したことは明白だな。やはり、いまの日本人には無理だったのかということになる。自分も今ごろこんなことが見えてきて、じつに何も見えていなかったのだなと恥ずかしく思う。

國分功一郎『原子力時代における哲学』

晴。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第五番 op.10-1 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■パウル・ユオン(1872-1940)のピアノ五重奏曲 op.33 で、演奏はチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団のメンバー(NML)。

Quintett op.33 / Kammersinfonie op.27

Quintett op.33 / Kammersinfonie op.27

リゲティ弦楽四重奏曲第一番「夜の変容」で、演奏はオルティス四重奏団(NMLCD)。


昼から図書館。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルフレンチブレンドコーヒー410円。國分功一郎さんの『原子力時代における哲学』の続き。第三講の途中まで読む。ハイデッガーがわかりやすく解説されるのであるが、ちょっとわたしの能力が足りないね。ハイデッガーイオニア哲学によるプラトン批判が、原子力発電批判になっているというところがよくわからない。アナクシマンドロス断片が特に全然わからない。アホには哲学マジむずかしいぜ。でも國分さんが誠実な思考をしているのはわかる。あと、ハイデッガーの「土着の思考」みたいなのは個人的によくわかるけれど、わたしは田舎者としての自分をハイデッガーで補強しようとかは全然思わない。これは原発にはあんまり関係ないけれど。僕に「土着の思考」みたいなのがあるとすれば、たぶんそれはオレオレ仏教の方に関係がある気がする。

イオンモール未来屋書店に寄ったら岩波新書の新刊が入っていたので、以前から買おうと思っていたのを購入。BGM でショパンのバラードが流れていましたな。


■マルク=アンドレ・ラパスの「ムーヴマン」で、演奏はオルティス四重奏団(NMLCD)。

國分功一郎原子力時代における哲学』読了。うーん、わからない。ハイデッガーの「放下」はまあわかる気がする。何なら(オレオレ)仏教的に理解してもよい。しかし、その「放下」(それは漠然とした一般論であろう)が原発批判になるというのがよくわからない。頑張って(まあ頑張っちゃいけないんだろうけれど)「放下」すれば、原発批判の言説が意志を介さずおのずと心中に浮上してくるのであろうか。それこそが真の原発批判である、と。というか、オレまったく國分さんの議論が読めていないのではないの?
 第四講の中沢新一批判。國分さんは「中沢さんの議論でほとんどよい」という。ただ、中沢さんの議論は「存在」の議論から「当為」の議論へ性急に移行しており、このままだと人々を「考えさせない」ためのドクトリンになるという。つまり中沢さんの議論を念仏のように繰り返しておけば、何も考えずに安易に「原発批判」ができてしまう、と。なるほど、これはそうでないとはいえない感じもする。いずれにせよいい機会だから、中沢さんの『日本の大転換』を読み返してみるとしよう。
 それから、「原発の魅力=ナルシシズム」論もわたしにはむずかしいなあ。著者はナルシシズムは世界から目を逸らすことであり、否定すべきことであると述べている。確かにナルシシズムすなわち幼稚である。しかし、わたしにはロマンティシズムもナルシシズムも確実にある。ということは、わたしも反原発とかいいながら、じつは原発が好きなのかも。まあ、それはわたしの幼稚性をはっきり示しているということであろう。ほんとクズだなあ、こいつは。

「日本の大転換」を読み返してみた。その過激さにびびった。原発一神教・資本主義との同型構造の指摘など、他人から批判されたのも当然である。しかしこれは、ただの反原発の書なんてものではないね。まさに一神教文明が作り出した現在の資本主義への、苛烈な批判そのものである。浅はかな人間の理解を到底超えていて、まさにあの時でないとむしろ言えなかったことかも知れない。しかし、資本主義が外部を消そうとする、自閉的なバイアスをもっていることの指摘などは、少しづつ理解されてきているような気がする。例えば東さんなどは、(中沢さんからの発想ではないだろうが)我々は等価交換の外部を必要としていると、うまいことを最近言っていたな。わたし個人はいま本書を読み返してみて、中沢さんのいう「キアスム(交差)構造」という言葉が気になった。これは、日本人が長年にわたって築き上げてきた、日本人には比較的親しいある考え方を指していう概念である。これは「社会」に本来備わった、人間同士を結びつけていく作用とも説明されている。もちろんこれは日本(人)に限ったものではないけれども。しかし、「社会」! いまや「社会」も徹底的に計量され、脱臭されサニタイズされた存在に(世界中で、つまり日本でも)なりつつあるのだ。この論文を読んで、そんなことを思ったのだった。併録されている「太陽と緑の経済」も読み返してみよう。

日本の大転換 (集英社新書)

日本の大転換 (集英社新書)

結局、我々は資本主義を変質させていかねばならない。例えばグレタ・トゥーンベリ氏の発言も、その文脈で理解する必要があるだろう。しかし、東日本大震災原発事故を経験した我々すらほとんど変わることができなかったのだ。むしろ反動がきている。トゥーンベリ氏の怒りも、そう思えば当然ともいえるかも知れない。しかし残念ながら、わたしはトゥーンベリ氏に「許さない」といわれつづけるであろう愚物なのであるが。

しかし、「資本主義を変質させていかねばならない」というが、問題は「どこへ? どうやって?」なのだ。それへ向けてもっとも掘削を進めているのが中沢さんだとわたしは認識しているが、もちろんわたしの認識はほとんどの人間の共感を呼ばないだろう。そして、トゥーンベリ氏が話題になったのは、もう時間がないかも知れないということゆえだ。しかし、時間がなくとも我々は地道にやるしかないのである。我々を非難する若い人たちが、我々の考えつかなかったことを実現させる日が確実に来るらしいから、それまでは。

いまほど思想が必要なときはない。「中二病」者のわたしはそれを痛感する。