國分功一郎『原子力時代における哲学』

晴。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第五番 op.10-1 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■パウル・ユオン(1872-1940)のピアノ五重奏曲 op.33 で、演奏はチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団のメンバー(NML)。

Quintett op.33 / Kammersinfonie op.27

Quintett op.33 / Kammersinfonie op.27

リゲティ弦楽四重奏曲第一番「夜の変容」で、演奏はオルティス四重奏団(NMLCD)。


昼から図書館。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルフレンチブレンドコーヒー410円。國分功一郎さんの『原子力時代における哲学』の続き。第三講の途中まで読む。ハイデッガーがわかりやすく解説されるのであるが、ちょっとわたしの能力が足りないね。ハイデッガーイオニア哲学によるプラトン批判が、原子力発電批判になっているというところがよくわからない。アナクシマンドロス断片が特に全然わからない。アホには哲学マジむずかしいぜ。でも國分さんが誠実な思考をしているのはわかる。あと、ハイデッガーの「土着の思考」みたいなのは個人的によくわかるけれど、わたしは田舎者としての自分をハイデッガーで補強しようとかは全然思わない。これは原発にはあんまり関係ないけれど。僕に「土着の思考」みたいなのがあるとすれば、たぶんそれはオレオレ仏教の方に関係がある気がする。

イオンモール未来屋書店に寄ったら岩波新書の新刊が入っていたので、以前から買おうと思っていたのを購入。BGM でショパンのバラードが流れていましたな。


■マルク=アンドレ・ラパスの「ムーヴマン」で、演奏はオルティス四重奏団(NMLCD)。

國分功一郎原子力時代における哲学』読了。うーん、わからない。ハイデッガーの「放下」はまあわかる気がする。何なら(オレオレ)仏教的に理解してもよい。しかし、その「放下」(それは漠然とした一般論であろう)が原発批判になるというのがよくわからない。頑張って(まあ頑張っちゃいけないんだろうけれど)「放下」すれば、原発批判の言説が意志を介さずおのずと心中に浮上してくるのであろうか。それこそが真の原発批判である、と。というか、オレまったく國分さんの議論が読めていないのではないの?
 第四講の中沢新一批判。國分さんは「中沢さんの議論でほとんどよい」という。ただ、中沢さんの議論は「存在」の議論から「当為」の議論へ性急に移行しており、このままだと人々を「考えさせない」ためのドクトリンになるという。つまり中沢さんの議論を念仏のように繰り返しておけば、何も考えずに安易に「原発批判」ができてしまう、と。なるほど、これはそうでないとはいえない感じもする。いずれにせよいい機会だから、中沢さんの『日本の大転換』を読み返してみるとしよう。
 それから、「原発の魅力=ナルシシズム」論もわたしにはむずかしいなあ。著者はナルシシズムは世界から目を逸らすことであり、否定すべきことであると述べている。確かにナルシシズムすなわち幼稚である。しかし、わたしにはロマンティシズムもナルシシズムも確実にある。ということは、わたしも反原発とかいいながら、じつは原発が好きなのかも。まあ、それはわたしの幼稚性をはっきり示しているということであろう。ほんとクズだなあ、こいつは。

「日本の大転換」を読み返してみた。その過激さにびびった。原発一神教・資本主義との同型構造の指摘など、他人から批判されたのも当然である。しかしこれは、ただの反原発の書なんてものではないね。まさに一神教文明が作り出した現在の資本主義への、苛烈な批判そのものである。浅はかな人間の理解を到底超えていて、まさにあの時でないとむしろ言えなかったことかも知れない。しかし、資本主義が外部を消そうとする、自閉的なバイアスをもっていることの指摘などは、少しづつ理解されてきているような気がする。例えば東さんなどは、(中沢さんからの発想ではないだろうが)我々は等価交換の外部を必要としていると、うまいことを最近言っていたな。わたし個人はいま本書を読み返してみて、中沢さんのいう「キアスム(交差)構造」という言葉が気になった。これは、日本人が長年にわたって築き上げてきた、日本人には比較的親しいある考え方を指していう概念である。これは「社会」に本来備わった、人間同士を結びつけていく作用とも説明されている。もちろんこれは日本(人)に限ったものではないけれども。しかし、「社会」! いまや「社会」も徹底的に計量され、脱臭されサニタイズされた存在に(世界中で、つまり日本でも)なりつつあるのだ。この論文を読んで、そんなことを思ったのだった。併録されている「太陽と緑の経済」も読み返してみよう。

日本の大転換 (集英社新書)

日本の大転換 (集英社新書)

結局、我々は資本主義を変質させていかねばならない。例えばグレタ・トゥーンベリ氏の発言も、その文脈で理解する必要があるだろう。しかし、東日本大震災原発事故を経験した我々すらほとんど変わることができなかったのだ。むしろ反動がきている。トゥーンベリ氏の怒りも、そう思えば当然ともいえるかも知れない。しかし残念ながら、わたしはトゥーンベリ氏に「許さない」といわれつづけるであろう愚物なのであるが。

しかし、「資本主義を変質させていかねばならない」というが、問題は「どこへ? どうやって?」なのだ。それへ向けてもっとも掘削を進めているのが中沢さんだとわたしは認識しているが、もちろんわたしの認識はほとんどの人間の共感を呼ばないだろう。そして、トゥーンベリ氏が話題になったのは、もう時間がないかも知れないということゆえだ。しかし、時間がなくとも我々は地道にやるしかないのである。我々を非難する若い人たちが、我々の考えつかなかったことを実現させる日が確実に来るらしいから、それまでは。

いまほど思想が必要なときはない。「中二病」者のわたしはそれを痛感する。