鈴木大拙『一禅者の思索』

曇。
暴力とセックスと純情のハードボイルド冒険活劇を夢に見るというのは、オレの頭の中は相当にお花畑だな。どうなっておるのだ。精神分析学的「補償」かな?

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第三番 BWV814 で、ピアノはシェン・ユエン(NMLMP3 DL)。■ジョン・ダウランドの「蛙のガイヤルド」、「ファンタジー」、「サー・ジョン・スミスのアルマンド」、「彼女は私の過ちを許すだろうか」、「はかない望み」、「クリフトン夫人の風情」、「ホワイト夫人に事あり」、「ホワイト夫人に事なし」で、ギターはマイケル・バトン(NMLCD)。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第七番 op.108 で、演奏はフィッツウィリアム弦楽四重奏団NMLCD)。


このところブログにクソマジメすぎることばかり書いているが、実生活ではできるだけ、あれこれ取り留めもなくぼーっと想念を浮かべながら、ベッドに転がってごろごろするようにしている。そのまま寝てしまえればいちばんよいのだが、なかなかそうもいかない。非生産的でだらしのない下らない人間が、まあ目標というほどではないが望ましい。いまや世の中かしこくて有用勤勉な立派な市民に満ち溢れているので、わたしごときがぼーっとしていても社会は発展また発展、万万問題ないことは確信されている。そんなクズは邪魔だから死んだほうがよいというのも一理ないではないが、誰でもマウントを取れるクズが存在した方が、皆さん何かと精神の健康のためにもよろしいのではないか。いつからか世界から被差別階級がなくなったことはないのだし、将来もあり得ない。それは、不満のはけ口がないと人間は生きていけないからである。それに、クズがいなくなったら、もしかしたら自分がクズになっちゃうかもしれないではないか。それは、コワい。

というわけでということもないが、寝てました(笑)。言い訳がましくてはあんまり不まじめになっていないかな。


たまたま鈴木大拙の「大地と宗教」という小文を読んでいて、そこでは大拙は「人間は大地を離れてはいけない」といっている。そんなことを言ったっていまや高層マンションの上の方の階で育つ子供もいるくらいだから、大拙みたいなことを言ってももうどうしようもないのである。そもそも、いまでは大拙の言っている言葉の意味がわからない人が少なくあるまい。「大地を離れる? ハァ?」てなものである。なんでそれがいけないというのか? ということだ。まあそれは措いて、この文章は1942年の講演を活字にしたものである。まだ戦前で、高層マンションどころではないのに、大拙はそんなことをいっているのだ。さらに大拙は、近代化の不可避もわかっていて、自分にはどうしてよいかわからないとも述べている。大拙はわからないそうであるが、自分もどうしてよいか全然わからない。わたしの住んでいる田舎でも我々はどんどん大地から遠ざかっており、わたしがしょっちゅう訪れているイオンモールなどは大地からの離脱の極致である。そして、いまやその完全人工物の世界に郷愁を覚える世代が大人になっている。まあ、楽観的に見れば、そんなことは大した問題ではなく、それはそれで新しい世代はうまくやっていくのかも知れない。

世界を完全にコントロールできるという思想は、まさに大地からの離脱から生まれたそれだろうな。そのうちかかる思想は極ふつうのものになっていくだろうし、いやすでに高度にそうなっている。東日本大震災のあと、日本は東北の海岸線を「万里の長城」で覆うことにした。この傾向が当り前のものになるという意味である、わたしの言いたいのは。

既に我々の少なからずは、人生すらも完全にコントロールできると思うようになっている。特に若い世代ほどそうだ。そこからは往々にして、我々は必ず死ぬ、そしていつ死ぬかわからないということを忘れがちになっている。

強い雨
鈴木大拙『一禅者の思索』読了。再読である。非常に勉強になった。またそのうち読み返したい。

一禅者の思索 (講談社学術文庫)

一禅者の思索 (講談社学術文庫)

エッセイ集のようなある連作短編集を読み始めるも、あまりおもしろくないので 30分くらい拾い読みする。でおしまい。

河合隼雄『私が語り伝えたかったこと』

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハのイギリス組曲第四番 BWV809 で、ピアノはファブリツィオ・シオヴェッタ(NMLCD)。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第六番 op.101 で、演奏はフィッツウィリアム弦楽四重奏団NMLCD)。

そういえば昨日老父が見つけたのだが、畑でモグラとスズメが死んでいた。こんなことは滅多にないのだが、それが重なるというのは。別に農薬を使ったりしたわけではない(ウチはほぼ無農薬といってよいと思う)。モグラは握りこぶしよりは大きくて、赤い手がでっかかった。昔、祖父が捕まえて殺したり、また自分でたまたま見たこともあって、それ以来か。スズメもだが、死んでいるとかわいそうなものである。老父はそのあとすぐに埋葬してやったということだ。


昼からミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリームボール+ポン・デ・シュガーボール+ブレンドコーヒー344円。『ポピュリズムとは何か』の第三章・第四章を読む。自分としてはゆっくり読んでいるが、それだけ中身があるということだ。ヨーロッパにおけるポピュリズムについて。ここでも簡単にポピュリズムを否定し去ることはむずかしい。ポピュリズム政党は確かに反移民や反イスラームといった、在来の価値観からは受け入れることがむずかしい主張もあって、(一致団結した)既成政党たちからは完全に排除されることもめずらしくないが、ベルギーの VB のように、最終的には排除されてもしかし既成政党の政策自体を大きく変えてしまったりする力があることは認めざるを得ない。これは政治的には敗北であるが、理念的にはむしろ勝利とすらいえる。また、「反イスラーム」であっても、「啓蒙主義的排外主義」(p.115)とでもいうしかない主張もあって、これはむしろ良質といわれる西洋的価値観からの連続性をもっていたりなど、なかなか複雑だ。そして、エリート批判。自分は思うが、合衆国のトランプ大統領への民衆の大きな支持も、エリートたちと貧困層がいかに分断されてしまっているか、巨大な経済的格差によっていかに貧困層の範囲が大きくなってしまっているか、そして貧困層がいかに既成秩序に絶望しているかの、ほとんどヤケクソな表れであるのだろう。実際、貧困層はどこまでトランプ大統領に期待しているのか、自分には疑問にも思われるので(これは妄想にすぎない)、彼ら彼女らはただただもうウンザリしているだけなのではないかという気もする。もちろん、トランプが救ってくれると本気で思っている人も多かろうが。

河合隼雄『私が語り伝えたかったこと』読了。今日読んだところでは、「現代人と宗教」という文章が特におもしろかった。2000年に書かれている。ここでいわれている「宗教」というのは、かなり広い意味で使われていて、「神話」というようなものも含む。この文章はこんな風に終っている。「日本の経済状態が大変なときに、あるいは、グローバリゼーションやIT革命の波が押し寄せてきているときに、何を間の抜けたことをと言われるかもしれない。それもそうだろうと思うが、むしろ、このようなときにこそ、ここに述べたような宗教性の探索が必要とも言えるのである。それを怠ると、日本という国は崩壊してゆくのではなかろうか。」(p.215)河合先生はこうも述べておられる。「…現在における宗教の必要性を認めるにしても、それをすぐに特定の宗教や宗派に結びつけることなく、あくまで個人としての宗教性を深めることを重要と考えてみてはどうであろうか。」(p.213)しかし、いまやこの文章はなかなか理解されないだろう。わたしの尊重する浅田さんも、マルクスを継承して宗教を民衆のアヘンとし、最終的に撲滅すべきであると考えておられる。少なくとも日本の知識人の常識は、浅田さんの考えと同断であるようだ。わたしは河合先生の仰っていることはよくわかるのであるが、もはや古くさい考え方にすぎまい。そして、わたしの所属するところの日本はまさに崩壊しつつある。次は、若い人たちによるまた新しい日本が誕生することであろう。いまの若い人たちは非常に合理的であるから、それは経済的合理性に貫かれた、論理を基盤とした新しい国になるにちがいない。

 

モーツァルト交響曲第三十五番 K.385 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(NMLCD)。いわゆる「ハフナー」。■ハイドンのピアノ・ソナタ第四十七番 Hob.XVI:32 で、ピアノはポール・ルイスNMLCD)。ポール・ルイスというピアニスト、かなりよいな。(追記。他の作曲家の曲をいろいろ聴いてみたが、どれもダメっぽい…。懲りずにそのうち挑戦してみる。)■シューベルトのピアノ・ソナタ第十四番 D784 で、ピアノはホルヘ・ボレットNML)。僕はこの曲はリヒテルの演奏が心に沁み込んでしまっているので、いろんな有名ピアニストを聴いてみたけれどなかなか聴けるのがない。その中ではボレットはさすがにおもしろいが、なんと繰り返しが(たぶん)すべて省略されているのだ! これだけは残念、というかかなり減点気分。

Piano Sonatas

Piano Sonatas

ドヴォルザークのヴァイオリン・ソナタ ヘ長調 op.57、他で、ヴァイオリンは堀米ゆず子、ピアノは野平一郎(NMLCD)。これならドヴォルザークが苦手な自分にも聴ける。このコンビで Decca あたりからベートーヴェンソナタ全集を出して欲しい。しかし、アマゾンで調べてみても、堀米さんの録音、あまりにも少なくないか? 全然実力に見合っていないと思うのですけれども。すばらしいヴァイオリニストですよ? ■バルトークの「コントラスツ」で、演奏はトリオ・ムジカリス(NML)。わっは、これはすごい。さすがバルトークだ。ちなみにピアノ、クラリネット、ヴァイオリンという変った編成の曲である。
Contrasts

Contrasts

ハチャトゥリアンクラリネット三重奏曲で、演奏はトリオ・ムジカリス(NML)。ハチャトゥリアン、もっと聴かないとな。

BOOK OFF 江南赤童子店へ

晴。早起き。
昨晩は鈴木大拙を読んで寝た。とてもよい。自分は未熟で、いろいろ参考・勉強になる。少しわかるところもある。なお、大拙はあんまり若い頃のは(人にもよるけれど)あまりお勧めしない。まだまだ真の大拙じゃない時期もあるので。

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス風序曲 BWV831 で、ピアノはファブリツィオ・シオヴェッタ(NMLCD)。このピアニストはどうして現代においてこんなにきれいな心を保ち続けていられるのかな。感心する。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第五番 op.92 で、演奏はフィッツウィリアム弦楽四重奏団NMLCD)。■望月京(1969-)の「パ・サージュ」で、ヴァイオリンは堀米ゆず子NMLCD)。■ジョン・ダウランド(1563-1626)の「前奏曲(マーガレット・ボード・リュート・ブック)」、「ファンシー」、「ストラング卿の歓迎」、「涙のパヴァーヌ」で、ギターはマイケル・バトン(NML)。

John Dowland

John Dowland

 
暑い。車外は32℃だった。
ATM と本屋へ行こうと外出。ATM のあと、ふと愛知県の BOOK OFF へ行こうと思う。江南赤童子店。車で30分もかからないくらいか。何故か500m以内に二軒あるファミマの一方で麦茶を買い、木曽川を渡って川島、江南へ。ひさしぶりなので BOOK OFF はまだあるだろうかと思ったが、ちゃんとあった。ある若い作家があれば買おうと思っていたのだが、はてしっかりと名前を覚えていないことに気がつく。アホやな。誰だったっけと字面だけで棚を見ていたが、いつもながら愛知県の BOOK OFF は岐阜県のそれとはだいぶ棚がちがう。有り体にいうと、岐阜県のは棚がしょぼくて、掘り出し物みたいなのが非常に少ない。やはりこれは本を読む人の密度の問題なのだろうと思うが、さて江南赤童子店はわたしの得意ワザ(?)の文庫本もなかなかだった。持っている本でも、へーこれがあるのかとか。開高健がたくさんあったのは頼もしい。買うかどうか迷ったのは中公文庫のアウグスティヌス『告白』三巻本で、岩波文庫版で読んだから断念する。結局まとめてそこそこ買ったのだが、最近は文庫新刊が高価になったので、思っていたよりずっと安く感じた。ちくま文庫田中小実昌さんのエッセイ集がいちばん高くて 710円、あとは 250円~450円くらいだった。文庫108円も結構いいのが拾えたのがうれしい。ひさしぶりに BOOK OFF っぽい感じで楽しかった。なお、最初のもくろみの「若い作家」の名前はついに思い出せず、でした。

今日買ってきた河合隼雄先生を読む。僕は学生の頃から河合先生の本はよく読んできたし、ずっと好きだったが、ひさしぶりに読んでみると非常にコワい。心にぐさぐさ突き刺さってきて、正直言ってかなり自信を失った。僕は塾講師を十五年ほどやって辞めたが、前からそう思ってはいたのだけれど、河合先生を読むと自分はあまりよい教師ではなかったのだろうなとつらつら思う。結構一生懸命やったときもあるし、一部の生徒には感謝されることもあったかも知れないが、結局自分は生徒に慕われるということがなかった。河合先生も仰っているが、子供には「わかってしまう」「ごまかしが効かない」のであり、それがすべてな気もする。そう思うと、自分が結婚できなかったのも、人格的な問題があったのかも知れない。いや、きっとそうだろう。
 まあわたしの過去のことなどどうでもいいので、本書(河合先生が亡くなられてから出版された)を読んでいると、河合先生がインターネットを知らずに亡くなられたというのがどうしても気になる。もし河合先生がいま生きておられたら、インターネットと日本人の心という問題にどういう洞察を与えられたか、考えてしまう。先生は人間の心というものはそんなには変わらない、変わるとしても非常にゆっくりとだと仰り、わたしもそれはそうだと思うのだが、それでも日本人の心はいま大きく変わりつつあるような気がしてならないのだ。つくづく、河合先生の意見を聞きたかったと痛感する。

「アジア人としての日本人」の終焉

曇。
昨晩は柴田宵曲を読んで寝た。これぞ不要不急の読書というべきだろう。ヘイトとフェイクニュースの時代に柴田宵曲を読む意味がどれほどあるかは知らない。明治は鎌倉時代なみに遠くなった気がする。

NML で音楽を聴く。■バッハの組曲 変ホ長調 BWV819a で、ピアノはシェン・ユエン(NMLMP3 DL)。この曲、初めて聴くが、未完なのではないか。ふつうは最後にジーグが来る筈。■ハイドン交響曲第八十七番 Hob.I:87 で、指揮はエルネスト・アンセルメ、スイス・ロマンド管弦楽団NMLCD)。■シューベルト幻想曲ハ長調 D934 で、ヴァイオリンは堀米ゆず子、ピアノは野平一郎(NML)。これはすばらしい。いままで何で堀米ゆず子さんを聴いてこなかったのかな。エリザベート王妃国際音楽コンクールで優勝したときのシベリウスには度肝を抜かれたのだが(参照)。たぶん、たんに忘れていただけだったな。もっと堀米さんを聴きたいね。なお、このディスクの伴奏者は野平さんで、それもよいですね。

堀米ゆず子 ヴァイオリン・ワークス1 音楽の旅-叙情を求めて

堀米ゆず子 ヴァイオリン・ワークス1 音楽の旅-叙情を求めて

ああ、なーんだ、NML に全然ないや。そりゃ人気ヴァイオリニストですものね。NML に入れるのはもったいないということでしょうな。


夕方、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー410円。ちょっと未来屋書店に寄って買ってきた、中公新書の『ポピュリズムとは何か』というのを読む。これはかなりおもしろい。ゆっくりと第二章まで読んだ。ポピュリズムというと自分にはどこかネガティブなイメージがあったのだが、そんな簡単なものではないことがまずはわかった。もともと反エリート、反エスタブリッシュという面があって、例えばその濫觴である合衆国の「人民党」(十九世紀末に、そんな政党があったのだ)とか、アルゼンチンのペロン政権とか、むしろ国家・政策の「民主化」に大きく貢献しているのである。ポピュリズムには「カリスマ指導者」がいる場合が多くて、それで民主主義に反するというところもあるのだが、しかしその「大衆性」から言って、むしろ民主主義の補完者として位置づけられるところがある。なかなか簡単に否定できるものではなさそうだ。ただ、「反エリート、反エスタブリッシュ」という点が強調されると、政策が右派的なのか左派的なのか、それははっきりしないともいえる。その置かれた状況において、玉虫色的に変化してしまうのだ。うーむ、なかなかむずかしい。さて、このあと、ヨーロッパにおけるポピュリズムの説明がある。続けて読む。

自分がいま政治ということで何に反応しているか考えてみると、確かに人間が完全に平等ということはそもそもあり得ないのだけれど、しかし個人の間に大きな経済的格差があるのは許容できないというのがあるのではないかと思う。それは自分が貧乏人であるから引き出されてきた考え方だろうし、そこからすればまあ当然だろう。だから、金持ちが大きな格差を肯定するというのも、まあ当り前といえば当り前だ。現状を見ると、金持ちと貧乏人を比べると貧乏人が圧倒的に多いし、格差はあまりにも大きいし、金持ちが権力を握っているように見える。これは貧乏人のバイアスに満ちた現状認識であろうか? こうなると、自分は左派なのではあるが、むしろポピュリズムを支持することになってしまうのか?

わたしは思うのであるが、自分はあるいはアジア人としての最後の日本人に属するのではないか。いまの(少なくとも)エリートたちを見ていると、ほぼ完全に「西洋人としての日本人」になっている。古典はすべて西洋の古典であり、自分たちのアイデンティティとして古来の日本文化の蓄積を放棄して、わずかにマンガやアニメ、あとはせいぜい村上春樹くらいしかない。それは、西洋人たちもそう日本人を見做すようになった。そしてどうでもいい話だが、それで西洋人たちは安心したと思う。わたしは武満徹の伝記を読んで、戦後でもある時代までは、西洋がいかに「アジア人としての日本人」に注目せざるを得なかったかを痛感したものである。それは確かに日本の戦後の、西洋諸国をも凌ぐ経済発展によるものではあったろうが、西洋はとにもかくにもそこに真剣に東洋を見出すことを強いられた。それはいまとはまったく異なるのであり、西洋人もまた、いまや日本をマンガやアニメ、村上春樹の国と捉え、日本人をそれらしかアイデンティティのない人たちだと見做している。ある意味では、「三流の西洋人としての日本人」として。それはもう、取り返しのつかない時点まで到達してしまったのだが、さてこれから日本人はどこへいくのだろうか。わたしはそれを見届けて死にたい気もするのだ。

って吉本さんのことを考えていたら妄想した。吉本さんはまちがいなくふつうのアジア人だったし、それに自覚的でもあった。なお、わたしはマンガやアニメ、また村上春樹を低級なものと見做しているというわけでは別にありません。それらももともとは、アジアのコンテクストをもっていたと思っていますし。

p-shirokuma.hatenadiary.com僕はシロクマ先生を読んでいるといつもムカつくのであるが、それでも読むし、これはおもしろかった。このエントリはたぶんバズるし。しかし、シロクマ先生はこれを多少の「悪意」(?)というか皮肉も込めて書いておられると思う。だって、シロクマ先生は既婚者で子供もおり、子育ての大変さとともにその喜びも享受されていることを、他のエントリで隠しておられないから。それにしても、まあ田舎でも事情は大して変わらないとはいえ、東京圏はすごいことになっておりますなあ。なんか日本人の自業自得を感じる。ってわたしのようなひきこもり独身中年が他人事のような顔をしているのはまちがっていそうだが。

しかし、男性が女性にアプローチしたらいまやセクハラと見做されかねないというのは、ホントにそうですね。男性がそのリスクを回避するのは当然である。これも自業自得。


ハイドンのピアノ・ソナタ第六十番 Hob.XVI:50 で、ピアノはポール・ルイスNML)。時々この曲が聴きたくなる。これはこの曲のカッコよさを充分に表現した演奏。残りを聴くのが楽しみ。

ありゃ、このディスク一年前に聴いていた(参照)。orz…。■ドビュッシー前奏曲集第一巻で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。僕には野平さんのドビュッシーを 40分間聴くというのは、しんどい…。じつに聴き応えのある演奏だった。ホントすごい。

西村賢太『下手(したて)に居丈高』 / 東浩紀『ゆるく考える』

日曜日。曇。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第一番 BWV825 で、ピアノはファブリツィオ・シオヴェッタ(NML)。このピアニストはピュアだな。聴いていて気持ちがよい。

Bach, J.S.: Keyboard Suites

Bach, J.S.: Keyboard Suites

 
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第四番 op.83 で、演奏はフィッツウィリアム弦楽四重奏団NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第二番 op.19 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチ、指揮はクラウディオ・アバドマーラー室内管弦楽団NMLCD)。マジよいな。自分はベートーヴェン好きすぎである。ちなみにこの曲、アルゲリッチは 100回以上演奏しているのだとか。でも全然ルーチンでないのが天才の証であろうか。■アルヴォ・ペルト交響曲第四番「ロサンゼルス」で、指揮はエサ=ペッカ・サロネン、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団NML)。ペルトは通俗ギリギリのところなのだが、つい聴いてしまうな。しかし表題が「ロサンゼルス」っていうのはちょっと謎で、いつものごとく「ストックホルム」とか「ヘルシンキ」(ってよく知らないが)という感じなのですけれども。まあ、ロサンゼルス・フィルなのですな。委嘱作品なのかな。

 

珈琲工房ひぐち北一色店。図書館から借りてきた、西村賢太『下手(したて)に居丈高』読了。随筆集。こういう本物の文学を読んでいるときが、いちばん「本を読んでいる」という感じがするな。著者は図書館で借りてきて文学を読むなんてのは、そんなのは文学を読むといえるのかねみたいなことを言っているので、つまりはまあ自著を買って読めということですから(文筆家としては当然の態度である)、文庫本の人であるわたくしなどは西村賢太の文庫本でも揃えようかな。結構出ているのだよね。でも、もうだいぶ持っているのですよ、西村賢太の文庫本は。

下手に居丈高 (文芸書)

下手に居丈高 (文芸書)

 
東浩紀さんの「なんとなく、考える」という十年前の連載を電子書籍で読んでいるのだが、つくづくおもしろい。何という才能であり、頭のよさであろうか。東さんは頭がよすぎてものを書いていると論理で自縄自縛に陥っていくのであるが、そこからコンスタティヴ、パフォーマティヴ両面で隘路を打ち砕いていこうとする姿がすばらしい。つまりこの連載の言葉で言い換えると、マジメに考えてハマっていくのをマジメと不まじめの両方を駆使しながら、だらしなさそうな感じも見せつつ脱出していこうという実践である。わたしは iPad mini を持ちながらごろごろ寝転がって(不まじめな格好で)読んでいる(すみません笑)のだが、繰り返すけれどもマジでおもしろい。そして、自分の時代遅れぶりをこれまたつくづく感じて感慨にふけってしまう。わたしと東さんでは年齢差はわずかであるが、その間には超えられない壁が厳然とある(年齢差だけには還元できまいが)。だからどうというわけではないけれどもね。
ゆるく考える

ゆるく考える

つい「マジメと不まじめの両方を駆使」なんて書いてしまったが、しかし「マジメと不まじめの両方を駆使」するというのは果たしてマジメなのか、不まじめなのだろうか。これはどちらを取ることもできると思うが、ちょっと考えてみるとおもしろい。というか、「メタ思考」とか言って切り捨ててしまわないで、こういうことを考えるのが重要な意味での「考える」ということではあるまいか。東さんも連載で頑張っておられる。

「なんとなく、考える」は連載20回で中断終了。連載の最初の方は元気がなかった東さんだが、最後の方は「朝生」でのよい意味での「放送事故」やら、ツイッターを始めて(2009年だったんだ…)その可能性を高評価していたり、小説の好評だったりと、えらく元気になっている。こうなると、上に書いたことはかなり誤読ですね。それにしても、十年前はまだ東さんもネットの可能性を素朴に信じていて、いまのネットへの一種の幻滅を見ると時代も東さんも変ったのだなあと思う。いまやツイッターが悲惨な SNS になっているのも、たぶん当時では予想もできないことだったのだろう。まさにツイッターこそが現実そのものだという時代がくるとはたぶん誰も思わなかった。さて、続けて読む。

東浩紀『ゆるく考える』読了。

こともなし

晴。

日本を代表する Lisper として尊敬されている竹内郁雄先生の Web連載を読んでいたら、先生が小学生のときに兄から教えられた問題というのがあった。こんなのである。

とある会社の社長は毎日午後5時に会社を出て自宅からの迎えのクルマに乗って帰る。
ある日、午後4時に退社した。
天気が良かったので、迎えのクルマに出会うまで散歩した。
出会ったところで、クルマはUターンして自宅に戻った。
するといつもより10分早く帰宅した。
何時何分にクルマに出会ったか?

ハッカーの遺言状──竹内郁雄の徒然苔第18回:問題児も悪くない | サイボウズ式

なるほど、これは良問である。マーティン・ガードナーの本に出ているそうである。竹内先生のお書きになっているとおり、方程式で解こうとすると結構大変な筈だ(やっていないのでわからないが)。しかし、うまく考えれば一瞬で解ける。わたしはすぐにわかりましたよ。実際、ひらめけば小学生でも解けます。

NML で音楽を聴く。■バッハの組曲イ短調 BWV818 で、ピアノはシェン・ユエン(NMLMP3 DL)。この曲は初めて聴くな。


なんか気持ちが悪い。

ずっと AOJ をやっていたのだけれど、上手くいかなかった。

こともなし

曇。
途中で一旦起きたのだけれど、合計で十時間くらい寝たのではないか。長くておもしろい夢を見たのだが、既にだいぶ忘れているのが残念。ちゃんとオチまで付いていた。しかし、どこから来た夢なのかね。不思議だな。

脳みそ崩壊して急速にバカになっている。当分続くのではないかな。何もできない感じ。

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第六番 BWV817 で、ピアノはシェン・ユエン(NMLMP3 DL)。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第三番 op.73 で、演奏はフィッツウィリアム弦楽四重奏団NMLCD)。確かにボロディンQ に比べれば落ちるかなあとは思う。少し精度がアマい。でも、この曲のすばらしさは充分わかるとも思うのだ。ちなみにこの曲は、傑作揃いのショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲の中でも、わたしのもっとも好きな曲のひとつである。


昼から県営プール。泳いでいる間、外はどしゃ降りだった。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルフレンチブレンドコーヒー410円。西村賢太のエッセイ集、というか随筆集(の方がふさわしいかな)を読む。yomunel さんが読んでいたので読みたくなった(赤松利市という人は知らなかったので、これも読んでみたい)。図書館から借りてきた本なので、著者には罵倒されそうであるが。いやいや、中身は本物そのもの。これぞ文学。そもそもわたしと同世代の人間には才能が輩出していなくて、作家はというと西村賢太(はひとつ年上だが)、阿部和重吉田修一、思想家は若松英輔くらいしか思い当たらないが、まあなかなかのメンツじゃね? 学者は 0 という感じですね。ま、わたしも大したことがないし。