日曜日。曇。

午前中、ごろごろだらだら。

NML で音楽を聴く。■ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第一番 op.107 で、チェロはマルク・コッペイ、指揮はローレンス・フォスター、ポーランド国立放送交響楽団NML)。よい。

Cello Concertos

Cello Concertos

エリオット・カーター(1908-2012)の「八つの練習曲と幻想曲」で、演奏はスイス・チェンバー・ソロイスツ(NML)。なかなかおもしろい曲。スイス・チェンバー・ソロイスツってのは知らないが、何かやたら上手い。
La Musique

La Musique

エリオット・カーターの「ラ・ムジーク」、弦楽三重奏曲、「ルイス・ズーコフスキーの詩」、「レトレーシング II」、「ナイン・バイ・ファイブ」、オーボエチェンバロのためのソナチネ ~ 第一楽章で、演奏はスイス・チェンバー・ソロイスツ、他(NML)。エリオット・カーターってよく知らなかったが、おもしろいな。アルバム丸々一枚聴いてしまった。また、演奏のレヴェルが高い。

おやつにチーズケーキ。

ベートーヴェン交響曲第四番 op.60 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティック(NML)。フレッシュで鮮烈なベートーヴェン。1993年の録音というからもう随分と前だが、わたしはこれまで気づかなかったね。いわゆる古楽オーケストラだが、18世紀オーケストラならぬ、「19世紀前半オーケストラ」というところなのだろうか。弦のアタックが鋭いのと、弦が薄めなので管楽器がよく聴こえるのが印象的だ。テンポも相当速く感じる。いってみれば、軽くてシャープなベートーヴェンというところだろうか。聴いていて楽しかった。

Beethoven: The Symphonies

Beethoven: The Symphonies

 
日没前、散歩。

そのうち消滅する風景。






カワセミ
風が冷たかったな。
 
図書館から借りてきた、ブレイディみかこ『ワイルドサイドをほっつき歩け』読了。といっても途中から1ページ5秒くらいで眺めただけ。おもしろくないことはないが、文章が解体されてしまって頭に入ってこない。俺も終わってるな。付録の第二章はまあまあおもしろかったので、多少つまみ読みした。たぶん、ふつうの人にはおもしろい本だと思います。
ワイルドサイドをほっつき歩け --ハマータウンのおっさんたち

ワイルドサイドをほっつき歩け --ハマータウンのおっさんたち

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第一番 BWV812 で、ピアノは岡田美和(NMLCD)。いまのわたしは本がなくとも音楽がなくとも空疎に生きていけると思っているが、しばらくぶりに音楽を聴いた。バッハは限りなく広く深いのであって、わたしはここにいつも数学的な構造と深いエモーションの結合を聴く、などともいえるかも知れない。数学的な構造とはもちろん比喩だが、バッハの超越性への感性は彼の信仰したキリスト教ゆえであって、キリスト教は不自然な宗教であると思うわたしでも、これは東洋人にはかつて作り出せなかった音楽だなと思わざるを得ない。というか、わたしがいちばんポジティブにキリスト教を受け入れられるのはバッハを聴いているときといってもよいのであり、同じようなことを浅田さんが仰っていてさすがだなと思った。ただ、そのような超越性をもちながら、それが深いエモーション(教授すなわち坂本龍一さんはさらに特定してメランコリーだと仰っていた)と何の違和感もなく結合しているところが、ほとんどバッハしかあり得ない、空前絶後の世界だといえるのかも知れない。とか、フランス組曲くらいで大げさですが、このようなささやかな曲にすらバッハの以上の特性がくっきりと刻印されているのは紛れもないことである。■ブラームスの六つのピアノ曲 op.118 で、ピアノはエレーヌ・グリモーNML)。朝から感動してしまった。グリモーは男性的ともいいたくなる線の太さと、女性的ともいいたくなる繊細さの両面をもつピアニストであるが、この曲集に、というかブラームスにぴったりだと思う。ここには特に稀な繊細さが聴ける。それにしても、ブラームス晩年の諦念に満ちたこの曲集を、若い女の子が弾いて、こんな見事な演奏になっているのだから、おもしろいものだ。ブラームス晩年のピアノ小品集は、特別なピアニストにのみ許されているのであるが。ちょっと、グリモーの弾くピアノ協奏曲第一番も聴いてみたいな。

 
昼食はモスバーガーのドライブスルーで。コロナ禍のせいか、ドライブスルーがえらく混雑しているな。

自動車学校で老母の高齢者講習があったのだが、それによると、(信号機のない)横断歩道で歩行者が待っているのを無視して通り過ぎたら、2点の減点、9000円以下の罰金なんだって。え、違法だったの? 全然知らなかった。岐阜県はそれの成績(?)がすごく悪いそうだが、そりゃそうでしょう、僕も初めて知ったよ。
 ぐぐってみると、全国平均で80%のドライバーが一旦停止しないのだって。だろうなあ。車校の講義でしっかり違法と教えるべき。ちなみに僕はいままで止まるか半々くらいで、実感としては止まっている方だと思う。

図書館。産業文化センターにて県知事選の期日前投票。市役所。


ブラームスのピアノ協奏曲第一番 op.15 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニ、指揮はカール・ベームウィーン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。ブラームスのピアノ協奏曲第一番をグリモーのピアノで聴こうと思い、2012年のネルソンスとの共演の冒頭、それから昔のエラート盤も少し聴いてみたのだが、いずれもあまり入り込んでいけず、自分はもうこの曲が聴けないのかなとちょっと悲しかった。で、これまで CD で繰り返し聴いてきたポリーニベーム盤を何となく聴いてみたのだが、感動して泣けてくる始末である。かつてを思い出して感傷的になったというほどでもなく、いやさてポリーニは完璧すぎて冷たいというような評言もこれまでよく目にしてきたが、まったく顧慮に値しないそれなのではないかとあらためて感じた。ポリーニの「完璧さ」というのは、つまりはモダンの極限まで到達しているということである。ブーレーズブラームスをまったく同じ方法論で弾けるといってもいい。まあしかし、わたしは別にそんなことはどうでもいいのだ。いまの若い人たちにはほとんど通じないことであろう。あらためてこの録音を聴いてみると、ベームがまたすばらしいね。ベームポリーニが気に入ってもっとたくさん一緒に録音するつもりだったらしいが、その途中で死んでしまった。ベームってのは大指揮者だったが、いまどれくらい聴かれているのだろう。この録音を聴いても、第一楽章の終結部のポリーニが飛んでもない迫力を聴かせているところ、ベームもよく応えていてすばらしかったり。なかなかこんな演奏は聴けない。この曲をポリーニはこの後アバドティーレマンと録音しているが、ティーレマンとのなどは CD を聴き返す気にもなれないけれど。ポリーニも老いた。

わたしの出発点はグールドと70年代のポリーニだったが、それが本当に幸せなことだったのかはわからない。彼らはあまりにも突き抜けていたから。青柳いづみこさんはピアニストとしてポリーニが直撃した世代だそうで、(ポリーニ本人に対してではないが)随分うらめしかったそうである。わたしはもちろんピアニストどころか、音楽はさほど知らないのだが、青柳さんの気持ちはわかる気がする。
 ついでに書いておくと、ポリーニがいちばん録音したかったのはベートーヴェンということだが、そして生涯をかけてピアノ・ソナタ全曲を録音したが、70年代の一部の録音(具体的には op.101, op.109, op.110, op.111)を除いてわたしはあまりいいとは思わない。ベートーヴェンはモダンの枠に収まり切らないからである。ベートーヴェンは武満さんのいう「どもり」に満ちた音楽家であり、ポリーニの方法論では処理し切れないそれであった。

ブレイディみかこ『ワイルドサイドをほっつき歩け』を読み始める。おもしろいことはおもしろいのだが…、正直いうと自分とブレイディみかこさんとの間に隙間ができてしまった感じ。文章が読むはしから解体されてしまって、言葉が頭の中に入ってき難い。ライムスター宇多丸さんが「高みからレッテル貼ってるだけじゃわからない」と帯に推薦文を書いているが、わたしがそういう「高みからレッテル貼ってる」人間だからかも知れない。

諸行無常について / 多田富雄『春楡の木陰で』

曇。

この数箇月しんどいので、こんな対応をしていて意味あるのかとも思うが、そんなことに関わらず壊れているので、まあ何とかしないといけないよね。個人的な苦痛から普遍性に繋がればよいのだけれども。
未熟者は一生修行でござるな。

散髪。さっぱりした。短くすると白髪もまだあまり目立たないな。
いつも髪を切ってもらいながら半分寝ているので、テレビで地元のワイドショーがやっているのをぼーっと聞いているだけなのだが、それでも呆れてしまう。高井アナが東海地方の街道をゆっくりと歩いているコーナーだけ、聞いていてほっとする。もう何年続いているのかな。いまは知多半島で「お遍路」をやっている。以前郡上・飛騨街道を歩いていたのもおもしろかった。

何かカラスがかあかあうるさい。何だろう。

昼食の自家製切り干し大根がうまかった。いつもの大根の味噌汁が好きだし、わたしは田舎の人だ。

「オカタケな日々」第44回更新。

いまの世の中は諸行無常という当り前の真理と非親和的なので、我々の生き方が不自然になっているところがある。これを自然な構造に戻すのは、大変な苦痛が必要だということを実感する。分節化する以前の「無」を認めるということ。しかし、たぶんそんなことは決して一般化しまいし、自然な生き方に近づいて苦しむ人たちの助けになるということすらむずかしい。何度も書いているけれど、世界の徹底した人工化、「不自然」化。例えば西洋人にとって当り前の理性的、合理的に生きるというのは、それが根底に置かれると「不自然に」なる(つまり、生きる根拠として唯一の超越的絶対神を必要としたりする)ことを認識しないといけない。「自然に生きる」ということこそがむしろ合理的な考え方なのである。その意味で、通俗化したよき仏教は合理的というべきである。

諸行無常は「一切がむなしい」ということと(もちろん)関係がある。しかし、諸行無常といって認められる人も、「一切がむなしい」ということはなかなか認められないかも知れない。まあ、そんなものなのだろうな。「一切がむなしい」ということが無気力と繋がってしまうのが、我々の修行の足りないところである。そう思うと、通俗化した仏教はいろいろ考えてきたものだ。いや、かつての日本人は深く考えていた、感じていたといっていい。

第一原因を考えないということ。関係性のネットワーク全体を根拠として生きるということ。それはかつて(少なくとも日本において)可能であったのだから、現代において不可能と言い切ることはできない。我々の努力はもっぱらここに傾注されるべきである。

昼から晴れる。
肉屋。スーパー。
マンガでも借りようかと途中で TSUTAYA に寄ったが、棚を見ていて「まあいいや」となる。四半世紀前の「SLAM DUNK」とか「ジョジョ」の読んでいない分を借りようかと思ったが、もうあまりにも前すぎて、どこまで読んだのか忘れてしまった。アニメもまたそのうちという感じ。


多田富雄『春楡の木陰で』読了。「ブ」で108円で買った本。

私が自死を選ばなかった理由は、なんと言っても付きっ切りで看病し、私の病状に一喜一憂してくれた、妻のためだったと確信している。私の命は、私だけのものではない。それを苦しいからといって、私の意志だけで断つことはできないと悟ったからである。(p.190)

春楡の木陰で (集英社文庫)

春楡の木陰で (集英社文庫)

 

日没前、散歩。




そのうち失われることがわかっている風景なので、精々歩いておこう。


やっほーこんにちは。

 
夜。
劇場版「ソードアート・オンライン オーディナル・スケール」を見る。

こともなし

晴。
寝坊。自分の関係ないところでしゃべって、皆んな感心するのだが去っていく夢を見る。何かわたしに関して象徴的な感じ。そのあと、名古屋(といっても架空の町)の黒く油に塗れた工場が印象的だった。

午前中、ぼーっとしていた。

ビット操作メソッド三題(Ruby) - Qiita
ちょっと思いつきで。

昼から県図書館。鴎外、オーウェル他、ひさしぶりにプログラミングの本も借りる。
おじいが何だか知らないが司書に怒鳴りまくっていて、いたたまれない感じだった。

帰りに肉屋へ寄っていく筈だったのに、ぼーっとして忘れていた。終わってるな。

Linux Mint を 20.1 にアップグレードする。

早寝。

こともなし

曇。時雨れる。
寝不足。

スーパー。

Ractor の Enumerable 化?(Ruby) - Camera Obscura
昨晩からちょっと実験的なことをしている。あまり意味はないかも知れない。

夕方、少し寝てしまう。

夜。
読みさしのつまらない本を措いて、多田富雄『春楡の木陰で』を読み始める。エッセイ集。元本は2009年の出版で、多田先生が亡くなる前年のことである。もちろん先生の脳梗塞以後で、本書には病気の話もあるが、何といっても冒頭に三篇集められた、若い頃のアメリカ留学時の回想記が感動的だ。まるであざやかな短篇小説のようである。この方の情感は深いな。若いときアメリカの下層民(といったら叱られるだろうか)と親しく接して、浅からぬ交わりをいくらも結んでおられるのにはびっくりする。そういう人たちも、先生の情感の深さがわかるのだな。凡庸なエリートには無理なことである。多田先生は世界的な免疫学者であるだけでなく、小林秀雄を読み抜いた人であり、わたしは何となくの親しみを感じずにはいない。石牟礼さんも、多田先生には心を開いておられたな。そんなことが思われる。

こともなし

祝日(成人の日)。曇。

午前中、甥っ子の勉強を見る。今朝の路面凍結ゆえ、一時間遅らせて始める。
昼食は甥っ子と博多ラーメン「まっしぐら」にて。コロナ禍緊急事態宣言のゆえか、休日なのに道路も空いていたし、お店も混んでいなかった。
昼からもお勉強。再来週からハードスケジュールになりそう。

しかし、いまの例えば大学生は、ゲームもやらないといけないしマンガも読まないといけないし、アニメも見て映画も見て音楽も聴いて、バイトもせにゃならぬしできれば恋愛もしたいし、ネット見て SNS やって、それに「学生の本分」であるお勉強と、そりゃ本とか読むヒマがなくても全然不思議じゃないな。でも、結局若い人たちがいちばん本を読んでいるわけだし。
わたしはというと、最近ますます何もせず「白痴化」している感じ。しょうもないおっさんだ。

わたしはそれほど頭がよいわけじゃないけれど、そこそこは勉強ができて、教えていてこういうむずかしい問題が解ける方がどうかしていると思う。素朴な願いだが、そんなに頭がよくなくても、また戦略的に抜け目なく生きていかなくても、それでも人がふつうに生きていける世の中を望みたい。生き馬の目を抜くとか、そんな言葉もあるが、どうかしているよ、まったく。
 敢ていえば、エリートはそういう世の中を作るべきだと思う。エリートじゃないと生きていけない世の中に、しちゃってないですかね。まあ、世界中(もちろん日本でも)の「分断」は、つまるところそれなんだけどね。いずれにせよいつの時代でも一般人にこそ「人生」があるのだけれど、それがたいへんなことになってきている。いや、話が大きすぎか。