日曜日。晴。
大冒険活劇を夢に見る。こちらの個々の能力は圧倒的なのだが、戦いは絶望的とかいう設定だった。何でそんな夢を見たのだろうな。いや、思い当たるフシはある。ある有名な知識人も夢に出てきていた。これは昨日たまたまブログを読んだせいだろうな。

NML で音楽を聴く。■バッハのフルート・ソナタ ハ長調 BWV1033 で、フルートはウィルベルト・ハーゼルゼット、チェロはヤープ・テル・リンデン、チェンバロはヘンク・ボウマン(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十九番 op.106 で、ピアノはファジル・サイNMLCD)。いわゆる「ハンマークラヴィーア」。第三楽章がよい。のちの op.109、op.110、op.111 という傑作群への、ブレイクスルーになったのかなと思う。

ハインツ・ホリガー(1939-)の「春の踊り」、ジョルジェ・エネスク(1881-1955)の「ルーマニアの様式による歌」で、ヴァイオリンはマイア・カベザ、ピアノはゾルターン・フェヘールヴァーリ(NMLCD)。よい演奏だな。■モーツァルトのディヴェルティメント ニ長調 K.136 で、演奏はウィーン八重奏団のメンバー(NMLCD)。

いい天気。
スーパー。たくさん人が来ていた。


昼過ぎ、セブンイレブン岐阜日野南店に車を駐めておいて一時間、散歩。

左は国道156号、右奥は金華山


奥をずっとまっすぐ行くと、名古屋である。

岐阜環状線


井ノ口トンネルに入る。


トンネル内は、風はべらぼうに強いし、車の音はめちゃめちゃやかましいし。

トンネルを出たところ。

奥は鵜飼い大橋。

長良川

不動閣の桜。
このあと日野の村(?)の中を通って、ぐるっと山を一周した形に。新しい家がたくさん建って、かつての景観がなくなっていた。昔、いまのトンネル出口のあたりに「交通公園」というレジャー施設があったのだが、もはや正確な位置はわたしにはよくわからない。いまはでかいラブホテルが三軒集まっている。

qiita.comこの考察、サクッと簡単にやっていますけれど、バカに出来ないですよ。「5月の連休明けには東京都の『感染源候補者数』は10万人を突破します。」放っておくとこの予想のとおりになる可能性はかなり高いと思います。
しかし、このプログラム、ふつうに PC をもっている人なら誰でも試してみることができるのが現在のすごさですね。Python 文化すごいというべきか。

こともなし

晴。
風邪は大したことがないようだ。

NML で音楽を聴く。■バッハのヴィオラ・ダ・ガンバソナタ ニ長調 BWV1028 で、ヴィオラ・ダ・ガンバヒレ・パール、チェンバロはミヒャエル・ベーリンガー(NMLCD)。なかなかよいアルバムだったと思う。■シャーンドル・ヴェレシュ(1907-1992)のヴァイオリン・ソナタ第一番で、ヴァイオリンはマイア・カベザ(NMLCD)。■シューマンのピアノ協奏曲 op.54 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ、指揮はコリン・デイヴィスBBC交響楽団NML)。コヴァセヴィチのピアノはかなりロマンティックだ。指揮は凡庸。

グリーグ:ピアノ協奏曲

グリーグ:ピアノ協奏曲

ブラームスヴィオラソナタ第一番 op.120 で、ヴィオラはチャン・マンシン、ピアノはアルバート・ティウ(NML)。

Viola Sonatas

Viola Sonatas

 
ごろごろ。

昼から三井山公園あたりを散歩。













今年は桜はたっぷり見たな。そろそろ散歩には暑い季節になってきた。


夜、田村隆一の『詩人の旅』を読み始める。じつにカッコいい。田村隆一は詩と散文が全然ちがうのだが、肩の力の抜けた散文はまったく上手い。つい読みすぎてしまうので、適当に読み止める。
 わたしは去年出た中公文庫の増補新板で読んでいるのだが、1991年に中公文庫の前の版が出ているようなのに、読んだ覚えがない。学生時代のよく本を読んだ時期だが、あんまり田村隆一のことを認識していなかったのだろうか。どうでもいいが、不思議な感じがする。
 本書巻末のリストを見ていると、いまでも中公文庫でこんな本が出ているのかと驚くような本がある。かつての「肌色文庫」時代の中公文庫はじつにすばらしかったが、いつ頃かクズ文庫になって、書店の意識はそのままなのだろう、またシブい本が入りだしたのになかなか書店で見かけない。

詩人の旅-増補新版 (中公文庫)

詩人の旅-増補新版 (中公文庫)

それにしても、田村隆一全詩集が岩波文庫に入っていないのは、また一方で不思議な感じもすることである。

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのヴィオラ・ダ・ガンバソナタ ト長調 BWV1027 で、ヴィオラ・ダ・ガンバヒレ・パール、チェンバロはミヒャエル・ベーリンガー(NMLCD)。バッハのヴィオラ・ダ・ガンバソナタはどれもよいな。■ハイドン弦楽四重奏曲第一番 Hob.III:1 で、演奏はハーゲン四重奏団(NMLCD)。■メンデルスゾーン弦楽四重奏曲第六番 op.80 で、演奏はヴィジョン弦楽四重奏団NMLCD)。この曲がこれほどぶ厚い響きで演奏されるのは稀だろう。迫力がある。あらためて、メンデルスゾーン室内楽は悪くないと思う。

ヤナーチェクのヴァイオリン・ソナタで、ヴァイオリンはマイア・カベザ、ピアノはゾルターン・フェヘールヴァーリ(NML)。アルバムの曲目を見てちょっと惹かれたので聴いてみた。

Folk Roots

Folk Roots

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十一番 op.110 で、ピアノはヴィオレッタ・ハチキアン(NML)。わたしの基準としては殆ど聴き通すに値しないピアノなのであるが、何度も聴き止めようと思いつつ最後まで聴いたということは、それなりの何かを感じたということなのであろう。この、過去に録音でたくさんの名演の残っているむずかしい曲なのだから。なお、このアルバムは「フーガ」ということで一本筋が通っているようである。この曲はもちろん終楽章がフーガ。
Fugenpassion

Fugenpassion

  • 発売日: 2020/03/20
  • メディア: CD
 

以下のことは知っている人が多いと思うが、自分のためのメモとして書く。

  • 山中先生の提言に「これまでわが国は、無症状や軽症の感染者の急増による医療崩壊を恐れ、PCR検査を限定的にしか行ってきませんでした」とはっきりと書いてあるが、なるほど、日本で感染者が数字の上で少ないのはそのためだったのかも知れない。日本でなぜこんなにPCR検査が少ないのかという発言は、以前から聞いた。韓国などは一時期感染者数が爆発的に増えたが、多数のPCR検査を直ちに行う体制を構築したことは周知のことで、そのためかはわからないが現在感染者数は急速に減っている。仮に日本の感染者数が少ないのが検査を行っていないためだとすれば、(いろいろ言う人もあるが)やはり本末転倒な話である。政府の対応のまずさということをいう人はいくらでもいるが、一理あるのかなと思うところがある。
  • 感染力のべらぼうな強さ。症状のつらさ。周知かも知れないが感染者の手記を読んで実感した。(この方も、自分であやしいと思って要請しているのに、ちっとも検査をしてくれなかったと述べておられる。やはり、対応がおかしい感じがする。)特に、感染力の強さは、自分も認識していたつもりでいて、甘かったと痛感した。ふつうに昼食を共にしたくらいで感染しているのである。そして、症状がきつい。この感染者の方はまだ若く、それに「軽症」らしいが、それでこんなものかという驚きがある。確かに、体力のない人、老人などが感染したら危険だというのを再認識させられる。とにかく、自分が感染しないのも大事だが、感染した人間が他人に感染させないというのがもっと大事ということらしい。やはり、迅速に検査をしないのはマズいのではないか。

なかなか大変なことになっているなというのは否めない。政府がダメというのはあまり言いたくないが、それがどうなのかはこれからの結果が示すことだろう。これも言いたくないが、マスク二枚というので愕然とした人は多いと思う。

山中先生の HP を見ている。
山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信
 
追記(PM17:04)。とりあえずこれまでの個人的な暫定的結論。

  1. 感染したらいまのところ(対処療法しか)治療法はない。治癒は自分の免疫系に任せるしかない。なので、まずは感染者を特定し、隔離するしかない。
  2. 感染していることが確実でない(つまり他のすべての)人間たちは、お互いに必要に応じて必要な距離(social distance)を取るしかない(first priority)。しかし、完全に他人と接触しないことは(当り前だが)不可能。あとは、誰でも知っている、マスク・手洗い。

これがまちがっていたらまた考え直す。

昼から銀行屋さんの話を聞く。こういうのも止めた方がよいと言われるかも知れないが、わたしにはよくわからない。というか、人と会ってはいけないという雰囲気がこわい感じがする。明日は電車に乗って甥っ子がやってくる予定であるが。そういえば、岐阜はいわゆる「喫茶店文化」の土地柄であるが、確実に影響を受けていると思う。
銀行の外回りさんも、いまはどうも大変のようだ。いずれにせよ、僕には絶対にできない仕事だなと思う。

部屋掃除。ひさしぶりだったので、汚れていて時間がかかってしまった。きれいになってさっぱりした。

近所のコンビニにて払い込み。ついでにシュークリーム三個と牛乳を買う。
コーヒーにする。シュークリームは一個 300kcal 以上。マジか。せっかく痩せたのに、また太るぞ。

ウチの桜も満開。


多かれ少なかれ老母の調理を手伝っているのだが、今日は手早くミートローフを作る。わたしが型に強くしっかりと詰めておかなかったので、少しやわらかくて崩れやすく焼き上がってしまった。まあおいしかったのだけれどね。

弁証法はまずはよくて、で正→反→合というのだけれど、正も反も合もじつは同時に重なって存在しないといけないのである。だから、合→反→正でもいいし、なんなら反→合→反でもいい。じゃないか?

ここ数日、風邪気味。コロナウイルスに感染したのかはわからないが、熱はないし、いまのところ喉が少しいがらっぽいだけ。けれども、万が一を考えて明日甥っ子の勉強を見るのはなしにしてもらう。PL を飲んで今日は早めに寝るつもり。

市民公園・新境川堤の桜を見たり

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのヴィオラ・ダ・ガンバソナタ ト短調 BWV1029 で、ヴィオラ・ダ・ガンバヒレ・パール、チェンバロはミヒャエル・ベーリンガー(NML)。名曲。

Sonatas 1027-1029

Sonatas 1027-1029

 
肉屋。スーパー。さすがにわたしもマスクをしていった。次第に感染の包囲網が近づいてくる感じ。


昼から市民公園、新境川堤あたりを一時間あまり散歩。桜はほぼ満開なので結構人は出ていたが、そもそも市民公園の駐車場に空きがあること自体、例年とちがうといえるのかも知れない。平凡な感想ですが、桜は本当にきれいでした。
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ここまで市民公園。
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ここまで新境川堤。
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ムスカリ
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岐阜県各務原西高等学校の前にて。
20200402154401
各務原市立那加中学校。
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ぐるっと一周してきたところ。
20200402154440
那加福祉センター前。奥は学びの森。
20200402154503
名鉄各務原線犬山線)。奥は市民公園前駅。
なお、画像を貼り付けるためのHTMLタグは、数が多いので Ruby で modify しました。アップロードが多くて、今月のフォトライフの容量を一気に半分使ってしまった(笑)。
枚数が多いので、大容量回線でないと読み込みに時間がかかると思います。すみません。フォトライフの原寸(高画質)のソースを使っていますしね。

昨日ストリーミングサーバについて調べていたが、その関係で NAS というものを知った。NAS とは「ネットワーク・アタッチト・ストレージ Network Attached Storage」の略で、非常に簡単にいうと、ネットワークに繋がったストレージ(ハードディスクとか)のことである。PC だってネットに繋がっているし、PC のハードディスクとどこがちがうのかという疑問が湧くが、それはもっともだ。NAS はストレージそのものがIPアドレスをもっているように振る舞うところが PC のハードディスクとちがう。つまり、ネットワーク接続機能をもったストレージということで、じつは内部は LinuxWindows など、OS が管理しているのであり、既に PC に近いのである。家庭内の LAN に繋げて使い、例えば家族で共有できるし、設定によっては外部のインターネット(WAN)から接続することも可能だ。ということは高度なセキュリティ機能が必要だということで、OS が必要なのも当然である。(そうなると、では今度は PC を NAS として使えないかということが考えられるけれども、じつは可能であるらしい。これは遊びとして、そのうち調べてみたい。)

NAS はその性格上、常時電源が入っているので、電気代が気になるところである。実際、PC を「自宅サーバ」として使う場合、電気代が相当にかかるけれども(あと、CPU の発熱による火事の心配がバカにならないことを付記しておく)、NAS はそれほどでもないらしい(月数百円というところか)。NAS はもう少し正確にいうと実際に接続するストレージは自分で選べるものもあるので、その場合は低電力のものを選択することになるだろう。

では、NAS をストリーミングサーバとして使うことはできるのだろうか。これでわたしの言いたいことが通じるのかはちょっとわからないのだが、とにかく NAS で動画のストリーミング視聴ができるのは調べてみればすぐわかる。しかし、例えば HTML5 の video タグで個々の動画に指定する URL を与えることができるのか、そして、ぶっちゃけていうと、その動画データを最初に一気にすべて読み込むことをせずに、それでも好きなところから視聴したりできるのかということである。いや、それは NAS の個々の製品に依ることは明らかであるが、つまりはその中でHTTPプロトコルをサポートしているものはあるのかということだ。簡単にぐぐってみるとそれはありそうな感じだが、まあわたし程度にはよくわからない。しかし、自分専用のストリーミングサーバをもとうなんていうのははっきりいって「道楽」で、HTTP(S)で動画配信をしたかったら既にあるウェブサービスを使った方が遥かにラクだし、そもそも video タグの実装がブラウザ毎にちがうのが面倒だし、簡単にやろうならぶっちゃけ YouTube に依存すれば誰でもできる。それでもわたしのような阿呆は「道楽」を求めるところがあるのだが。

まあ、ストリーミングサーバはもういい。NAS がおもしろそうなのはよくわかったので、そのうち安いやつを買うのではないかと予想(?)している。

Ruby で CGI

雨。

RubyCGI してみた。
https://marginalia.hatenablog.com/entry/2020/04/01/225015
 
遊びだが、Linux Mint に入っている画像を、LAN 内の iPad mini のブラウザで見るようなことができないか。これは Ruby で簡単にできる。サーバは WEBrick を使い、CGI で HTML を吐かせればよい。
では、音声ファイルや動画ファイルはどうか。これは散々調べた。HTML5の audio タグや video タグを使えばよいのだが(それは CGI で吐かせられる)、結局音声ファイルや動画ファイルの配信は、専用のストリーミングサーバを使わなくてはならないことがわかった。Ruby でお手軽に、というわけにはいかないのだった。

Ruby 標準添付ライブラリの cgi.rb は初めて使ったのだが(これまで、RubySinatra を使ったことはある)、簡単なことがわからず、非常に苦労した。ぐぐって出てくる情報は大事なところが欠落していて、何がいけないのかさっぱりわからなかった。情報が古いのである。そんなこんなで、丸一日費やしてしまった…。

ちなみに、LAN 内で遊んでいてインターネット(WAN)に晒すつもりはまったくないが、やろうと思えば簡単である。(プライベート)IPアドレスを固定し、ポートを開放すればよい。いわゆる「自宅サーバ」である。
自宅サーバをインターネットに公開する - オベリスク備忘録

木谷明『「無罪」を見抜く』

曇。

一時間半ほどぼーっとする。以前ストレスだった部分が、ようやく少しづつ統合されてきた感じかなと思う。しかし、わたしはほんとに修行が足りないな。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第一番 BWV825 で、ピアノはアレクシス・ワイセンベルクNML)。ワイセンベルクというとわたしが思い出すのはグールドの好んだピアニストということである。甚だ人工的なピアノで、完璧にお化粧したすごい美女という感じで全然わたしの好みではないのだが、嫌いかというとなかなかそういうわけでもない。西洋というのは、基本的にこういう「人工物」なのではないか。常套句だが、じつにユニークなバッハという他ない。それでも、お化粧をしたバッハというのは、やはりわたしの好みでないのだが。

Bach: Partitas & Fantaisie chromatique et fugue

Bach: Partitas & Fantaisie chromatique et fugue

  • 発売日: 2020/02/14
  • メディア: MP3 ダウンロード
そうそう、カラヤンのお気に入りのピアニストでもあったな。■松平頼則の「蘇莫者」、「ガッゼローニのための韻」で、フルートはエベルハルト・ブルム(NML)。

 
■福島和夫の「水煙」で、ピアノはシュテッフェン・シュライエルマッハー(NMLCD)。しかし、この人は何で作曲を止められたのだろう。■ハイドン弦楽四重奏曲ニ長調 Hob.III:63 で、演奏はハーゲン四重奏団(NML)。いわゆる「ひばり」。
Haydn: Lark/Rider Quartets

Haydn: Lark/Rider Quartets

 
小雨ぱらつく。
図書館。予約本は借りられるということなので、老母のと一冊づつ借りる。ついでに、今までのは返却。市民公園、新境川堤の桜はいまが満開だが、雨のせいか、それともパンデミックのせいか、歩いている人はまばらだった。ここ、例年はすごい人出になるのだが。

和菓子「餅信」に寄る。よくばり大福と草餅を、それぞれ三個づつ買う。意外とお客さんが来ていた。皆んな喫茶店とかはやめて、家で和菓子なのだろうか。
ドラッグストア。

おやつにいま買ってきたよくばり大福を。おいしい。

木谷明『「無罪」を見抜く』読了。強い感銘を受けた。もっとも、昨日本書について書いてみて、自分には感想を書く資格がないとわかったので、中身については書かない。
ひとつ、内容とはあまり関係のないことかも知れないが、強く印象に残った発言について。それは、裁判官の分類についてである。引用する。

…私は、これまで多くの裁判官と付き合って、裁判官にも色んなタイプがあると思います。
 これについては、私は三分類しています。一つは「迷信型」です。つまり、捜査官はウソをつかない、被告人はウソをつく、と。頭からそういう考えに凝り固まっていて、そう思いこんでいる人です。何か被告人が弁解をすると、「またあんなウソついて」というふうに、最初から問題にしないタイプです。私は、これが三割くらいいるのではないか、と思います。二つめはその対極で「熟慮断行型」です。被告人のためによくよく考えて、そして最後は「疑わしきは」の原則に忠実に自分の考えでやる、という人です。これが多めに見積もって一割いるかいないか。その中間の六割強は「優柔不断・右顧左眄型」です。この人たちは、真面目にやろうという気がない訳ではない。三割の頑固な人たちとは違うので、場合によっては、「やろう」という気持ちはあるのだけど、「本当にこれでやっていいのかな」と迷ってしまうのです。(後略)(p.334-335)

わたしは、これは一般化できると思う。様々なことにおいて、この三分法は適用できる。わたしは残念ながら「優柔不断・右顧左眄型」であろうが、じつに恥ずかしいことであると、本書を読むと痛感させられる。そして、現在はあらゆる分野において、「迷信型」が増え、「熟慮断行型」が減っているのがふつうの日本人の現状であろう。わたしはもはや頭の固まってしまった年齢であるが、いまでも少しでもまともな人間になりたいとは思わされるのである。わたしは、日本人の将来に関して、希望をほとんどもっていない。

こともなし

曇。

ごろごろ。

午前中、スーパー。

ごろごろ。

カルコス。脳みそが硬直化して、買う本があまりない。木谷明という方へのインタヴュー本と、吉田秀和さんの『ブラームス』(河出文庫)を買う。
それにしても、出版不況だか何だか知らないが、本屋は大量の本で埋め尽くされている。精神の柔軟な方には、本屋は依然楽しい場所であろう。


木谷明『「無罪」を見抜く』を読み始める。副題は「裁判官・木谷明の生き方」。日本の刑事裁判は起訴されれば99%有罪ということになっているが、この木谷明という人は、三十数例の無罪判決を出し、そしてそのすべてを確定させた裁判官というので有名らしい。もとよりわたしのまったく知らない人であったが、本屋で少し読んですぐに買った。読み始めてみたら、これが非常におもしろい。本書は木谷明氏への聞き書き、いま風にいうとオーラルヒストリーである。裁判官の実際の生態というのもとても興味を惹かれることであるが、何よりも人柄なのか、語り口というのか、これにわたしは強く惹きつけられる。木谷氏は自分は鈍才であり、努力家でまじめにやってきただけだみたいなことを言われるが、それはにわかに信用できないことはいうまでもない。木谷氏の父親はその道では超有名らしい、囲碁の木谷實であるし、そもそも氏自身東大に現役合格、司法試験も一発で合格されているのだから。けれども、よく切れるナイフのような秀才とはちがうというのは、読んでいて頷かれるところがある。なんとなく語り口が飄々としていて、おどけた感じ。ざっくばらん。家族との楽しかった思い出なども話される。で、仕事の話は、落ち着いたはっきりとした口調で、ごまかさない。わたしはこういうのを読んでいると、何でもない一節にじーんとしてしまったりする。何かが活字を通して伝わってくる感じ。さて、本書は半分くらい、150ページほど読んだ。まだまだ木谷氏は若いが、既に特徴的な判決を出し始めているようだ。続けて読む。

 
250ページあたりまで到達。主に、木谷氏が最高裁判所調査官だった頃の話を読む。おもしろくって仕方がない。わたしは裁判というものに関してほとんど無知であるが、生々しい回想を読んでいるとそれだけでだいぶわかった気になれる。もしかしたら常識なのかも知れないが、判決というのはまずは調査官が書くのである。もちろんそれを裁判官が削除・修正・加筆したりするわけだが、調査官が書いたものが大筋でそのままになることもめずらしくないようである。また、調査官が書いた「キメ」の文句をひとつ削除することで、裁判官が調査官の意図を骨抜きにしてしまったり。なお、調査官の間には「審議」という合議があってそれで丁々発止の議論が行われるので、勝手なことが書けるわけではない。最高裁だから、大法廷と小法廷とか小法廷同士の間に緊張感があったり、裁判官の性格を考慮に入れたり、結構泥くさいものだなと思わざるを得なかった。裁判官が圧力をかけてきたり、逆にサポートしてくれたり、なかなか一筋縄ではいかないのだなということである。調査官として木谷氏が担当した裁判のひとつに例の「四畳半襖の下張」事件があって、木谷氏は担当してすぐに、これが「猥雑」というのはバカバカしい(そもそも、ふつうの人?には文章がむずかしくて読めない笑)と判断するのだが、裁判官の圧力や過去の判例などでがんじがらめになっていて、そのままでは(有罪、というか棄却は)どうしようもないことになっていた。そういう場合に、知恵を絞ってどう「抵抗」するかとか、そんな世界なのである。ただ、やはりその「抵抗」が司法の流れを変えたりするので、ああ、そういう仕事なのかと納得されることがあった。いや、マジおもしろいです。

それにしても、例えば殺人事件で少年に「無罪の大きな可能性」があっても、法律論の立場から有罪にするしかないということがあるとは、わたしの想像を超えた世界だった。そして、木谷氏がやってこられたのは、そういうのをなんとか「理屈」を編み出して救済していくという仕事だったのかなと、ちょっと話が見えてきた感じがある。つまり、法律論ではなく、事実に立脚するということ。ただし、法律論、裁判の技術的な領域を無視しては、何もできない。ここのところである。