各務原大橋あたりをぶらつく / ブルース・チャトウィン『パタゴニア』

日曜日。晴。
よく寝た。


武満徹の「カトレーンII」(1977)。


一柳慧の「樹の刻 水の刻」(1981)で、パーカッションは吉原すみれ、ピアノは一柳慧。おもしろい。ちょっとおしゃれな感じもする。


ショパンのバラード第一番 op.23 で、ピアノはクリスティアン・ツィマーマン。僕は何でかわからないけれど、ツィマーマンって結構好きなのだよな。清潔なところが好きなのだろうか。もちろんツィマーマンは現代を代表するピアニストのひとりであると誰もが認める大ピアニストだから、「何でかわからない」も何もないものだが。でも。いいんだよね、なかなか。とにもかくにも。


リストのピアノ・ソナタ ロ短調で、ピアノはクリスティアン・ツィマーマン。これは見事な演奏だ。オリンピックなら金メダルまちがいなしというべきである。なのだが、…なのだよね。言ってみればこれは、ルールのある格闘技のトップみたいなものだとも思う。「グラップラー刃牙」風にいうなら(笑)、なんでもありのストリートファイトで人間を超えようとする、ポリーニリヒテルのような凄みはないとしか言い様がない。ツィマーマンの演奏には「おお、すげえ」とか「美しいなあ」とは思ったりしたが、心を深く動かされる部分はまったくなかった。ってこれは自分がおかしいのかもしれないが。すごい演奏ではありますよ。それはまちがいない。

昼からミスタードーナツ バロー各務原中央ショップ。ストロベリーカスタードフレンチ+ブレンドコーヒー410円。最近買ったチャトウィンの文庫本を読む。チャトウィンって正直言ってよくわからないが、見栄からして読まないわけにはいかないので読む。何でも、カッコいいんだそうだ。

何だか川が見たいと思ったので、木曽川へ行くことにする。でも、各務原あたりを流れている木曽川は、あまり見るスポットがないような気がする。川幅が大きくて河原も広く、樹が生い茂っているのでよく見えないのだ。唯一と思われるのが、各務原大橋である。「各務原大橋交流広場」なんていうチャチなスペースがあるので、そこに車を置いておけばいい。

各務原大橋はこんな感じ。土木学会の2014年度「田中賞」というのを貰っているそうである。


各務原大橋から木曽川の上流側を望む。

橋を歩いて渡り切り、反対側の歩道を戻る。奥は北で各務原市中心部の方向。


各務原大橋から木曽川下流側を望む。以上すべて、クリックすると拡大します。よろしければ画面いっぱいでどうぞ。

結構満足した。なかなかいいところだと思うけれど、まあ人はあまり来ないよね。

レジュメ「経済学からみた日本国憲法」by田中秀臣in夜のTOKYO憲法トークライブ(9月22日浜松町)
いまは北朝鮮問題もゲーム理論で考えるのだな。これが最先端なのだ。ふーんという感じ。

ブルース・チャトウィンパタゴニア』読了。芹沢真理子訳。

パタゴニア (河出文庫)

パタゴニア (河出文庫)

 
細野晴臣を聴く。
細野さんはもう20年以上聴いているのだけれど、聴くたびに発見があって驚かされる。まさしくこれこそカノン。若い人たちは聴いているのかなあ。いまの高校生は坂本龍一細野晴臣も知らないのがデフォルトですよ。音楽を聴くなら、避けては通れないのですけれど。しかし、細野さんふざけてるなー。マジメに下らんことをしてるよ。いやもう、最高。
トロピカルダンディー(紙ジャケット仕様)

トロピカルダンディー(紙ジャケット仕様)

 

 

けものフレンズ第1話を観る。うーむ、おっさんにはよくわからないのですが。

町田康『バイ貝』 / 石牟礼道子&多田富雄『言魂』

休日(秋分の日)。晴。
よく寝た。しんどいときは寝るに限るのだが、それにしても寝過ぎかな。あんまりいい目覚めでもない。それから、何か単純な電子工作キットみたいなものを作ったのか、それが出てくる夢を繰り返し見た。昔の電子工作キットで、表示はシンプルな LED の点滅で数字だけ表せるというやつである。どうしてこんな夢を見たのだろう。


武満徹の「そして、それが風であることを知った」で、フルートはロバート・エイトキン、ヴィオラはスティーブン・ダン、ハープはエリカ・グッドマン。武満徹がまだよくわかっていないことがわかってきた。


ベルクのヴァイオリン協奏曲で、ヴァイオリンはアンネ=ゾフィー・ムター、指揮はロリン・マゼールニューヨーク・フィル。ベルクは確かに前衛ではあったのだけれど、まさにロマン派の延長上にあってほとんどロマン派という感じがする。この曲も、ほとんどロマンティックとすらいえる。

図書館から借りてきた、町田康『バイ貝』読了。

バイ貝

バイ貝

 
ホントにどうでもいいのだけれど、自分の妻のことを「嫁」って呼ぶ最近の風習、あんまり好きではない。ってじつにまったくどうでもいいよね。

昼から仕事。夕食後、ブラタモリを見る。

夕食のときに見ていた NHK のニュースで、「将来日本人はノーベル賞をとれなくなる?」という題で、日本のノーベル賞受賞者たちが警鐘を鳴らしているのを報道していたが、今ごろ何を言っているのかという感じ。このブログでも先日少しだけ書いたが(参照)、もうほとんど手遅れに近い。それでも、正しい方向に一刻も早く戻すのに、早すぎるということはない筈である。僕はもはや日本の学術がどうなろうがそれほど興味はないが、日本の学術の崩壊がよくないことだと思っている人が仮にいるとするならば、(何とかできるものならば)早く何とかした方がいい。学術の崩壊は必然的に、日本の国力の低下を加速する。僕がこういっているのが、何の根拠もない情弱の誤った認識ならば、どんなにかよいことであろう。僕はそれを期待する。

それにしても、再度書くが、日本という国は何がしたくて大学をこんな風にしてしまったのか。そう思うと、自分はやはりまだ日本の没落する姿を見たくないのだなとわかる。そりゃ、日本が最高に輝いていたといわれる80年代に育った世代だからな。しかし、その我々の世代に人材の出ていないことといったら、何なのだろう。もちろん自分も下らぬ人間であるし。何だか申し訳がない気がする。

図書館から借りてきた、石牟礼道子多田富雄『言魂(ことだま)』読了。往復書簡集。何というか、言葉が出ない感じ。内容についても、自分の能力では書きようがない。多田富雄先生はもちろん世界的な免疫学者であるが、能に深い造詣をもっておられた。2001年に脳梗塞で倒れられ、その後の政府の「リハビリ打ち切り制度」に烈火のごとく憤怒されて、病身をおして激しく抵抗された。しかし、いまだにその制度は続いている。また、病を得てからも新作能を書き続けてゆかれた。2010年死去。
 石牟礼道子氏はもちろん『苦海浄土』の著者である。現代ではほとんど死滅した、古代的感性の持ち主とでもいうか。いわゆる「チッソ」や国の水俣病に対する欺瞞を世に知らしめたのも周知であろう。これらのような二人の往復書簡として、本書の深さは自分などには計り知れないものである。ただ深く感じられたのかどうか、ただそうであることを祈るのみである。まさしく「言魂」とはそのとおりというか、お二人とも渾身の力を込めて書いておられる。これを読めば、現代が本質的にどういう時代であるのか、1000年規模の単位で知ることができよう。それにしても、お二人がこれほど現代を直視しながら、生きる力を失われなかったのはすごい。いまの時代にあってまともな感性をもった人間なら、生きる力を奪われない方がむしろおかしいくらいである。自分の鈍感さを恥じるが、それにしてもいまの子供たちを見ていると、もはや魂の密度が薄いような気がする。お二人の認識しておられたことが、既に現実化してきているのはまちがいないように思われる。

言魂

言魂

しかし、こんなことばかり書いているけれど、自分は多少マジメではあるが、決して暗い人間ではないと思っている。日常生活では笑うことも少なくないとも思っている。しかし、世の中の99%の人はこういう暗い事実と向き合いたくないようなので、そこらへんはちょっと書いておこうと考えているだけだ。まあ、それはほとんど無意味であるとは知っているものの。ほとんどの人には「なにくだらねーこと言ってんの」だよね。否定はしません。自分が絶対に正しいとも思わないし。

反安倍派のみなさん、解散はまたとない「大義」を問うチャンスです
上の記事で田中秀臣先生が、古谷経衡氏の発言として以下を引用しておられた。

大義がない、党利党略だ、と言ってもこれが選挙。今解散すれば、自民党単独で270くらいは行くだろう。公明党と合わせれば300超で大勝利。これが選挙なのだ。こうやって冷徹に勝ってきたから安倍1強は実現している。情でも理でもない、票読みなのだ。選挙で勝つのが権力の源泉のすべてなのだ。

https://twitter.com/aniotahosyu/status/909586633556615169

僕は数日前に下らないことを書いたが、それはまちがっていたと思う。上の古谷経衡氏の発言は完全に正しい。政治とは確かにそういうものだ。自分は理性では完全にそう思う。共産党の小池書記局長の言っていることが矛盾しているのも田中先生の仰るとおりである。

それなのに、そのような「正しさ」に感情的に納得できない自分がいる。どうも、自分は政治のことを考えるのに向いていないのだ。「選挙で勝つのが権力の源泉のすべてなのだ」という事実が、何か奇妙な感じがするのが抑えられない。

以上のこととはまったく関係がないが、ひとつ考えついた。「こいつひとりを殺せば、死ななくてもよい1000人を救うことができる。もちろんこいつには何の罪も落ち度もないけれどね。さあ、お前、こいつを殺せ」といわれたら、ためらいなく、あるいはためらいつつ殺す人間が正義であろう。しかし、自分はどうもそれに納得できないのである。そういう人間は、政治を語るべきではないのであろうか?

やはり自分は確信する。自分は論理が絶対であるとは思えない人間なのだ。最終的に感情で判断する人間なのだ。いま解散する自民党はさもしいし、安倍首相は下らない政治家としか思えない。田中先生の仰っていることは屁理屈とも思えてしまう。やはり田中先生は正しいが、それがわかっていても田中先生は自分はきらいだ。まったく自分は下らない人間である。

それから、僕はアベノミクス(というよりリフレ政策)はいまでも基本的に正しいことを確信している。その点でも田中先生は正しいと認める。そしてこれは、感情的にも納得しているのだ。

【魚拓】対北朝鮮、対話と圧力どちらを重視すべき? - Yahoo!ニュース 意識調査
北朝鮮に対しては対話よりも圧力をかけるべきという人の方がはるかに多いのだな。へー、もう好きにしてくれという感じ。

こともなし

晴。
早起き。


武満徹の「妖精の距離」(1951)で、演奏は The Fujita Piano Trio。短い。短すぎるのだ。


モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ ト長調 K.379 で、ヴァイオリンはヘンリク・シェリング、ピアノはイングリット・ヘブラー。これも短い。もっと聴いていたいのだ。しかしヘブラーの平凡で清潔なピアノ、いいですなあ。シェリングともよく合っている。こんな記事もある。


湯浅譲二の「クロノプラスティク I - III」で、指揮は岩城宏之準メルクル飯森範親。いやもう、めっちゃおもしろいじゃないですか! 日本人作曲家とひと括りにしてはいけないのかも知れないけれど、とにかく日本人作曲家はおもしろい。だいたいの傾向としては、ダサくてマジメって感じですね。いや、いいじゃないですか。もう日本人作曲家に飽きるというまで聴こう。何を聴いてもおもしろい。

斜方投射の数値計算と描画(Ruby) - Camera Obscura
試みに 4次のルンゲ−クッタ法の肩慣らしをしてみる。

町田康を読み始めたが、何だか笑えないし、しんどい。これはこちらの問題である。このあと今日はもう何もできまい。

赤坂憲雄『司馬遼太郎 東北をゆく』

晴。
よく寝た。中で古本を売っている列車の夢を見た。なぜか大阪だったようだ。


武満徹の「オリオン」で、演奏は The Fujita Piano Trio。武満徹の曲って短いのが多いのだよね。もうおしまい?って思ってしまうことがある。まあそれはそれでいいのだけれど。


シューベルト交響曲第三番で、指揮はイーゴリ・マルケヴィチ。


ブラームスクラリネット三重奏曲 op.114(ヴィオラ版)で、ヴィオラはユーリ・バシュメット、チェロはワレンティン・ベルリンスキー、ピアノは Mikhail Muntian。この曲はもともとはクラリネットとチェロとピアノのための曲だが、ブラームス自身がクラリネットの代わりにヴィオラを用いてもよいとしているのだと思う。でも、正直言ってクラリネット版が思い出されてどうしようもなかった。ヴィオラだと同じ弦楽器のチェロとかぶってしまって、どうしてもさらに地味な感じになってしまう。ただ、慣れてくると第三、第四楽章あたりではヴィオラなりのよさを感じないわけではなかった。特に第三楽章、速めのテンポであっさり弾かれているが、ちょっと tragicomic な感じでおもしろかったりした。とにかくいい曲で、自分は好きである。


ラヴェルの「ステファヌ・マラルメの三つの詩」で、歌手はアンネ・ゾフィー・フォン・オッター。すばらしい曲。美しい。フランス語がわからないのだけが残念。

下らない「自分」など消え去ってしまえばいいと思う。凡人。

彼の戦略上というか、理論が必然的に要求するのであるが、デリダはわりと単純なことでも、ものすごく面倒な言い方をするので何だかなあという気になる。で、それをありがたがって真似する人たちがデリダを秘教的にした。東さんはデビュー作(いや、ブレイク作?)でそういうデリダをざっくばらんに語ったのであって、僕はそういうのはなかなか愉快だったと思うのだが、あいかわらずデリダは何だかよくわからない受容をされているところもある。ってまあアホの自分にはあまり関係ないのですが。
 蓮實重彦さんはデリダをバカにしている(?)けれど、デリダと関係ないのかなあ。自分にはとてもそうとは思えないのだけれど。これもまあ、バカにはわかりませんね。にゃお。

 蓮實さんはホントいろんな人をバカにするなあ。アドルノもバカにしていたよね。デリダよりも、アドルノよりもえらい蓮實重彦。さすがだ。わーすごい。

昼から県営プール。いい天気で、すごく気持ちがよかった。ピリスのモーツァルトを聴きながら車で長良川の堤防道路を走っていて、何だか自分に酔ってる系の感じ。

おっさんが横断歩道をわたる途中で iPhone(か Android か知らないが)で何かを撮ったのだが、そちらを見てもおっさんが何に感じたのかちっともわからなかった。おっさんは横断歩道をわたり終えても何度もそちらを見るのだが、自分には意味不明。何だかおかしくって笑えた。

図書館から借りてきた、赤坂憲雄司馬遼太郎 東北をゆく』読了。なかなか微妙な本で、読んでよかったと思う。著者は東北の生まれではなかったと思うが、東北に生涯を捧げておられる方だ。本書では司馬遼太郎が「街道をゆく」のシリーズで取り上げた東北に関する、著者の応答である。それは、必ずしも肯定的なものばかりではない。というか、司馬遼太郎に対して、多少回りくどい言い方ではあるが、はっきりと否定的な部分もある。しかし、全体としては司馬遼太郎に対する敬意のあふれた本であるといえるだろう。
 それにしても、「東北」というのがそれだけ語りがい、こだわりがいのある場所であるという事実が、自分を驚かせる。自分は生まれも育ちも岐阜県であるが、岐阜や中部地方にそのような含蓄はほとんどないといえるだろう。こちらでは「東海三県」という言い方がなされ、それは愛知・岐阜・三重県を指すが、三重県はそもそも関西圏に近い存在である。言葉やアクセントもはっきりと関西弁だ。また、「中部地方」という呼び方もされるが、それは「東海三県」に静岡、福井、石川、富山をあわせたものであるけれども、NHK の区切りとしか意識できないものである。とても、「東北」のような含蓄などあり得ない。というか、全国でももっとも地域的特色の薄い地方というしかない。
 そのような土地の人間からすると、本書は何か異様な感じがする。というか、本書というよりも、自分が異様なのかも知れない。岐阜県というといちばん有名なのは高山であろうが、そもそも高山が岐阜県にあることを知らない人も多いだろう。高山以外だと、郡上八幡や温泉地である下呂くらいであろうか。それ以外は、地元はとにかく長良川の鵜飼と織田信長ばかりである。織田信長は注釈が必要だろうか。なぜ岐阜で織田信長なのかというと、そもそも「岐阜」という地名は信長が採用したものであり、また信長の生涯では岐阜に屋敷を構えていた期間がいちばん長かったのだ。有名な「天下布武」というのを言い出したのも、信長が岐阜に住み始めてからである。…
 とどうでもよいことを書いた。まあ本書の中身については、要約できるような本ではないから書かない。自分は家族の観光旅行で何度も東北の地を踏んでいるが、それを思い出しながらの読書であったと、個人的なことで結んでおこう。ふと、本書でも言及されている、三内丸山遺跡のことが思い浮かぶ。三内丸山での縄文人たちの生活は、縄文中期に1000年を超える長さをもっていたと記憶している。住みやすそうな、すばらしい土地であった。縄文時代の平均寿命は30歳くらいであったが、いまの我々の生活とどちらが幸福だったのだろうと何となく思われて仕方がない。

司馬遼太郎 東北をゆく

司馬遼太郎 東北をゆく

安倍首相は国連総会における演説で北朝鮮に対しては「対話ではなく圧力だ」と言い切ったらしい。自分の感覚がおかしいのかも知れないが、もういい加減にしてもらいたい。外交カードの選択肢を自分から減らすバカが、いったいどこにいるのか。ってここにいるのだ。何でも、トランプ大統領が演説の中で日本のいわゆる「拉致被害者」に言及したことに対し、わざわざ感謝しにいったともいう。まあそれはどうでもいいが、トランプ大統領の忠実な犬であることを表明しての「圧力しかない」であるとすれば、なさけないとしか言いようがない。ってパヨクは思うのだが、右翼はこれを見て恥じないのか。いったいどちらが国賊なのか。パヨクなのか。

しかし、どこかの指導者たちは圧力をかければ北朝鮮が屈すると思っているようだが、その可能性がないとはいわないが、まあ 5%くらいのものだと思う。いや、何の意味もない床屋政談はもうやめよう。えらい人たちが世界平和を守ってくれるにちがいない。ああ、安心した。さっすが安倍首相。バカは反省します。

いやまあしかし、たぶん大丈夫だ。いままでも大丈夫だったから、今度もたぶん大丈夫なはず…。って大丈夫でないって、いったい何だろう。

しかしどこかのバカは北朝鮮がいうことをきかなかったら「完全に壊滅」させるとか何とか言ったが、つまりは「核兵器を撃ちこむぞ」って言っているわけだけれども、北朝鮮にいるのは幼稚な坊とその取り巻きだけではないんだぜ。民衆がいるのだ。まあカスの脅しではあろうが、それにしてももはや外交もなにもあったものではない。もうこれだけでいまの世界が終っていることがわかる。

ああもう、素人くさいことをいうのがイヤになってきた。かしこい人たちが勝手にどうにかすればよいのだ。それにしても下らない世界である。

もう今日はあとできるだけ下らないことをして過ごそう。(PM08:46)

ウェルギリウス『牧歌/農耕詩』 / ジャック・デリダ&豊崎光一『翻訳 そして/あるいは パフォーマティヴ』

曇。


武満徹の「Between Tides」で、演奏は The Fujita Piano Trio。


柴田南雄の「ピアノのためのインプロヴィゼーション」第二番で、ピアノは松谷翠。柴田南雄おもしろいなあ。こういう音楽が聴きたかったという感じがする。どうして皆んな聴かないの?


ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第二番 op.100 で、ヴァイオリンはアドルフ・ブッシュ、ピアノはルドルフ・ゼルキン。巨匠たち。


リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」op.40 で、指揮はジュゼッペ・シノーポリリヒャルト・シュトラウスは消化したい。

つまるところ自分は世界に向けて自分を開いていくのが充分でないのだな。よくわかった。

県図書館のミスで先日借りてきた内の一冊が誤って「延滞」になっていたので、電話してみたら心よく訂正していただけた。気持ちのいい対応でした。

図書館から借りてきた、ウェルギリウス『牧歌/農耕詩』読了。小川正廣訳。

牧歌/農耕詩 (西洋古典叢書)

牧歌/農耕詩 (西洋古典叢書)

京都大学学術出版会の「西洋古典叢書」が、県図書館に 117冊も入っている! 検索して喜んでしまったね。

図書館から借りてきた、ジャック・デリダ豊崎光一『翻訳 そして/あるいは パフォーマティヴ』読了。

衆議院解散に「大義名分」など関係ない、そういう人もいるようだ。政治とはそういうものだと。そうかもね、どうでもいいが。

こともなし

晴。


武満徹の「ノスタルジア」(1987)で、ヴィオラはユーリ・バシュメット、指揮は Roman Balashov。


バルトークの「弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽」で、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンフィルハーモニア管弦楽団カラヤンが若い頃のモノラル録音。カラヤンは一見わかりやすそうな皮をどんどん剥いていくと、何か謎めいたものにぶつかる。僕はカラヤンは本質的に、少数の人々が愛好するマイナーポエットではないかと思う。ちっともわかりやすいとは思わない。

NHK火野正平さんの「こころ旅」を楽しみにしている。もうすぐ秋の旅が始まるが、さすがにこれで最後かも知れない。録画してあった「ディレクターズカット」を見ながら昼食をとっていたが、しみじみと見入ってしまった。何の特徴もない、日本の田舎がたまらなくなつかしい。こういういまや年寄りしかいない田舎、これからどうなっちゃうのだろうと、永遠の田舎者は思う。

チャリ番組 - mamo.birdの日記
いろんな人がいますな。僕は昔から時代遅れだったし、いまでもそうだ。

[SOLVED] Flickering Screen. Ubuntu 16.04
Linuxカーネルを 4.8系にして画面がちらつくようになるというはやはりあるようだ。グラフィックボードが「Intel Corporation Haswell-ULT Integrated Graphics Controller」であるのも自分と同じである。レンダリングをソフトウェアレンダリングにしてハードウェアアクセラレーションを使わないと症状が出ないから、グラフィックボードに関するカーネルのバグであることは殆ど確定的。カーネルを 4.4系にするとちらつきがなくなるというところまで同じである。PC を起動するときいちいちカーネルを指定しないといけないので、いまのところちょっと面倒だ。デフォルトで起動するカーネルを変更すればいいのだが、面倒くさいのでやってないのです(笑)。

PC 遊び。

こともなし

休日(敬老の日)。晴。


バッハのトッカータ ハ短調 BWV911 で、ピアノはシプリアン・カツァリス


ショパン24の前奏曲 op.28 で、ピアノはユジャ・ワン

Ruby関数型プログラミング遊び。

ちょろっと付け加えておくけれども。
安倍首相は「勝てそうだから」という理由だけで衆議院解散、総選挙に打って出るらしい。冗談かと思ったら、ホントみたいだ。確かに民進党は死に体だし、北朝鮮の活動が活発で支持率が伸びているらしいが、そんな理由だけで解散するのですか。これが政治家のやることか。こんなのが政治なのか。何の「大義名分」もないではないか。志が低いというか、そうしたものはほとんど感じられない。これは最近ではいちばん腹がたったことだ。また国民がそれを許すのか。もうこんな国は○○だといいたくなる。

マスコミはもっと批判しろといいたい。