堀江敏幸『曇天記』 / 『エリアーデ著作集 第三巻 聖なる空間と時間』

晴。涼しい。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第一番 BWV825 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。■バードのパヴァーンとガリアード第三番、「解き明かしたまえ(ムジカ・ブリタニカ第28巻第49番)」、「この道を通る人は」、アルメイン ト短調で、チェンバログスタフ・レオンハルトNML)。

BYRD/ HARPSICHORD.. -REISSUE-

BYRD/ HARPSICHORD.. -REISSUE-

メシアンのオルガンのための前奏曲、「献堂式のための唱句」で、オルガンはオリヴィエ・ラトリーNMLCD)。

昼からミスタードーナツ イオンモール各務原店。ポン・デ・黒糖+ブレンドコーヒー378円。堀江敏幸氏のエッセイ集を読む。僕は堀江氏の書くものが好きなのかどうかよくわからないが、確かにそれらは非凡ではある。ただ、各エッセイの最終文が必ず解決であり、それがちょっとわずらわしいような気もする。
建物から出ると涼しくなったなと感じる。空も青い秋の空。

図書館から借りてきた、堀江敏幸『曇天記』読了。

曇天記

曇天記

 
図書館から借りてきた、『エリアーデ著作集 第三巻 聖なる空間と時間』読了。

高橋源一郎編著『憲法が変わるかもしれない社会』

曇時々雨。
遅寝遅起き。昼食を食べたら寝て夕方。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第六番 BWV830 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。この曲に32分あまりもかけている。じっくりと慌てずに弾かれている。■テオドール・W・アドルノの「弦楽四重奏曲のための6つの練習曲」、「弦楽四重奏曲 1921」、2つの小品 op.2 で、演奏はライプツィヒ弦楽四重奏団NMLCD)。アドルノとは社会学者にして思想家、批評家だったあのアドルノである。アドルノがベルクに師事した作曲家だったのはよく知られているが、自分は初めて聴いた。アドルノの書くものはかしこい人間が自分の頭のよさに自己満足するために読むところのものだと思うが、音楽にもそういうところがあって、きわめて取り付きにくいものである。中身は、ドイツ音楽の継承者であることを徹底的に意識した、めんどうくさいものだ。アドルノがジャズを含むポピュラー音楽を完膚なきまでに酷評したことはよく知られており、なるほどその音楽を聴いても感覚的な魅力はほとんどなく、その点では彼の賞賛したシェーンベルクなど新ウィーン楽派の音楽家たちともちがう。そこいらが、アドルノが音楽家として評価されなかった原因のひとつではあるまいか。頭のよい人にはおもしろく聴けると思うので、我こそはという人は聴いてみるといいと思う。

ここで聴くかぎりアドルノの音楽は非常に重苦しく、のちのブーレーズシュトックハウゼンのような吹っ切れたところがないのも事実だ。どの曲もトーンが似通っていて、どれも同じような印象を与えられる感じがする。

夕食のとき見ていたテレビニュースでフィリピンでの遺骨収集の話題があったこともあって、Wikipedia で「レイテ島の戦い」「レイテ沖海戦」などの項目を読み耽る。事実が淡々と書いてあるだけなのだが、Wikipedia ごとき(?)でもとてもかなしい気分になった。レイテ島の戦いについては過去に『レイテ戦記』を読んだせいもあって比較的よく覚えていたが、それにしても配備された日本兵の九割以上が戦死しているのには胸を突かれた。レイテ島の戦いは武器弾薬から食料まであらゆるものが圧倒的に不足するなかでのものだったが、日本軍は圧倒的な物量で攻めてくるアメリカ軍に対して、よく戦ったことが知られている。先日自分はツイッターで、戦争を否定するあまりのこととはわかっているが、日本兵たちの死は無駄死だったとする若い人のツイートを目にした。あいかわらずかしこくて正しい意見であるが、わたしはとてもそんな風に割り切ることができない。レイテ沖海戦はまた「神風特別攻撃隊」が初めて出撃した戦いでもあったが、これも無駄死といえばそうなので、しかし自分としては複雑な思いがある。まあ、無駄死といえばわたしの生がある意味ムダであり、その死もまた無駄死でないとどうしていえようか、そんなことをいうならば。さて、では自分は戦争を美化したいのか? そんなことはあるまい。まあ、かかるツイートをした人は、己が重要人物であり、その死もまた祝福されるべきものだとみずから思っておられるのであろう。立派なものである。

それから、自分はいわゆる「艦これ」みたいなゲームも、たかがゲームごときに目くじらを立てるべきではないとわかってはいるけれど、多少の違和感を禁じ得ない。日本人は何でもかわいい女の子で擬人化してしまうというのは、すでに文化なのだとはわかっている。別にそんなものはいい筈だが、気になるこちらがおかしいのだろう。わたしはもはやそういうものに慣れない時代遅れに成り下がっただけのことであるとも考えられる。

まああんまりマジメで暗いことばかり書いてもね。自分は別にそんなにマジメな人間というわけでもなくて、ふつうの下らない人なのですが、ブログではついマジメにしてしまうだけですね。というか、ブログっつーのがえらいんだな。僕はブログというものが結構好きです。ブロガーとかいう人たちはそう好きでもない。

高橋源一郎編著『憲法が変わるかもしれない社会』読了。昨日書いたとおり、大学の公開講座で源一郎さんがゲストの人たちと語り合った記録である。ゲストの人たちの名前を挙げておこう。長谷部恭男、片山杜秀石川健治森達也国谷裕子原武史の方々。詳しいことは書かないが、予想どおり刺激的な本だった。すべてが憲法の話というわけではなく、後半はかなりちがった話も聞ける。端的にいって、すごく勉強になりましたね。学者と同じことはもちろんできないけれど、学者が一般人に伝えたいということは聞けるくらいにはしておかないとなと思った。しかし、国家というのは厄介すぎますわ。こんなむずかしいことを考えないといかんのという感じ。
 また思ったのは、源一郎さんが相手だからゲストの方々もここまで興味深いことをしゃべることができたのだなと。そういう意味では、嫌われがちな源一郎さんをフォローしている自分はエラいと思った(笑)。それから、自分が(半分イヤイヤながら)正しいと思っている経済学者、社会学者の人たちも、意外と底が浅いところもあるなと気付かされたところもある。変な話、彼らには「価値の創造」は無理だと思った。ただ正しいことを言っているだけである。もちろん、こういう考え方がある意味危険なことはわかっているが、生きているというのはどうしても「管理」だけではもたないのだ。経済学は、結局リソースの最適な配分を研究する学問というだけのことでしかない。それが大事なのはもちろんなのだが。

憲法が変わるかもしれない社会

憲法が変わるかもしれない社会

本書で繰り返し源一郎さんが言っているのは、いまは社会が分断されてしまう風潮にあるということで、それは本当にそうだと思った。それはつまり判断が分断されてしまっているということで、曖昧さが許容されず、常にイエスかノーか、あちらでなければこちらなのかで判断を迫られてくるということ。これはかなり根が深い問題で、文系の学問の徹底的な西洋化ということも理由にあると思っている。我々の古典は既に古い日本の書物でも、中国の本でもなくて、完全に西洋のそれになった。それゆえ、文系の学問が西洋一辺倒になった。もはや、和魂洋才の時代ではないのである。自分は、あと百年もすれば、日本に超越的な審級(つまりは一神教的な「神」のようなもの)が必須になるのではないかと予感している。そして、東洋は根底から消滅していくことになるだろう。わたしは、知的な意味では自分がほぼ最後の世代のような気がしている。

こともなし

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第二番 BWV826 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。日本人ピアニストだからというので聴かれていないとすれば、とても残念なことである。CD ではもはや入手不可であり、自分も NML でたまたま見つけなければ聴くことはなかったであろう。何というか、ここまでやってもダメなのであろうか。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第八番 K.310 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。ほぼ理想的な演奏。自分はこの曲はクラウディオ・アラウの録音がこれまでいちばん印象的であったが、この演奏はまたそれとはちがう見事な出来だ。アラウの演奏はアラウ自身の経験と譬えようもない深さに価値があるものだったが、この野平一郎による演奏はまさしくこれぞモーツァルトという感じのする名演である。どれもよいが、敢て挙げるなら第二楽章であろうか。しかしこれ、自分が日本人だからこう思うのだろうか。本当にわからない。とにかく、日本人によるクラシック音楽受容もここまできたのである。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第五番 op.24 で、ヴァイオリンはヨゼフ・スーク、ピアノはヤン・パネンカ(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十一番 op.22 で、ピアノはヴィルヘルム・ケンプNMLCD)。ケンプいいな。しかし、どうも自分は日本のオールド・クラシック・ファンの手のひらから出られないようだ。

病院で診察。先日の検査の結果はよいものだった。まだ念のための検査がいろいろあるが、これまで本人にはつらい治療だったので、とりあえずはよかった。ただ、再発の検査など二〜五年はいろいろ見ないといけないようである。やはり簡単な病気ではないな。

昼から雨。

ミスタードーナツ イオンモール各務原店。チーズタルド アプリコットブレンドコーヒー。高橋源一郎さんの憲法本を読む。源一郎さんはなんと大学の某研究所の所長だそうで、ゲストを呼んでの公開講座で「憲法」を主題にしたものを、書籍化したのが本書ということになる。まだ三分の一くらいしか読んでいないのですけれどね。とりあえず冒頭、長谷部恭男氏が、一般人が憲法について一生懸命考えなければいけない社会というのはたぶん不幸な社会だと仰られていたのが印象的だった。まあ僕はお勉強のためというよりは、源一郎さんの本だから買ったのだが、確かにいまは不幸な時代だと思う。しかし、素人がお勉強といってもじつにむずかしくて、勉強しても切りがない。まあ、学者の人たちはそういうことをずっとやっているわけだから、素人が通暁なんて無理なのは当然である。本書を読んでもつくづくそうなので、全然自分は勉強していないなあとそればかりだった。で、生半可に勉強してツイッターとかで間違ったことをツイートしまくってこちらが絶望したくなるアカウントもたくさんある。いや、そういう自分だって、正しいという保証など何もないし。源一郎さんは本書で「民衆はそんなにバカじゃないし」みたいなことをさらりと仰っているけれど、自分は自分も含めた「民衆」がいかにバカでまちがえやすいか知っているので、そこのところは源一郎さんに同調できない感じもする。じゃあ、一般人がお勉強するのは無意味なの?というと、そうでもないのだろうが。それにしても民主主義は最悪の政治制度だけれども、それよりマシなものが見つからないというのが、自分の実感である。さらに読む。

ツイッターを見ていて思うのは、人間がいかにルサンチマンに満ちた存在かということ。例えば自分はリフレ政策の支持者だが、いわゆる「リフレ派」の正しいことを言っている経済学者その他たちの中で、ルサンチマンに塗れていない人は山形浩生さんとか、森永卓郎さんくらいのものではないか。これはもちろんリフレ派だけの話ではなくて、反リフレ派でもまったく同じことである。ツイッターなど SNS は、むしろルサンチマンを増幅する装置としても機能しているだろうと思っている。特にはてブとか。

いつごろからかツイッターで「クソリプ」という言葉をしばしば見かけるようになったが、イヤな言葉であり、イヤな時代になったものである。そういう言葉がどうしても必要とされる現実がそれこそクソだ。そして、正義の人は必然的にこの言葉を使うのである。僕は「キモい」という言葉もキライだが、正義の人はたいていキモい。

谷川俊太郎・河合俊雄編『臨床家 河合隼雄』

晴。
何となく明け方まで起きていたので、昼飯前に起こされる。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第六番 K.284 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。■スカルラッティソナタ K.163, K.164, K.165, K.166, K.167, K.168, K.169, K.170 で、ピアノはカルロ・グランテ(NMLCD)。


谷川俊太郎・河合俊雄編『臨床家 河合隼雄』読了。おもしろかった。『思想家 河合隼雄』よりもおもしろかったかも知れない。それはそうなので、河合先生は何よりもまず心理療法家であった。本書にはいろいろな文章が収められているが、いま活躍しておられる先生方による、河合先生による「教育分析」(心の専門家になるために受けねばならぬ分析)について書かれた文章はどれもすごいものだった。ここでは、流れの中での河合先生の具体的なコメントが読めるので、こちらを納得させるものが多くあった。ここに見られるのは、「すごくこわい」河合先生の姿である。まさしく、命をかけた真剣勝負と呼んでもさほど誇張ではない。なるほど、河合先生の「戦場」はこういうところにあるのだと思った。
 一方では対極的に、本書では感情家、センチメンタルな河合先生の姿も見られておもしろい。講演の最中で泣き出してしまう河合先生などは、自分には意外な光景であった。そう、徹底してクールな先生と涙もろい先生との両面が絶妙に合わさっていて、初めて河合先生だったのだ。それは矛盾といえば矛盾なのだが、こうした矛盾はむしろ誰でも必須なものの筈である。だけれども我々はまだ未熟だから、なかなかそうはいかないだけだ。
 それにしても、河合先生はとてつもなく大きな仕事をされたのだな。大変な人物であったと思う。

臨床家 河合隼雄 (岩波現代文庫)

臨床家 河合隼雄 (岩波現代文庫)

 
しかし、自分は本なしでも生きていけるとも思っていたが、自分はどうもまだ世界そのものという「書物」を読むまでには至っていないのだなと納得されるところがある。自分にはまだ、自分のまわりから豊かさを無限に汲み上げてくるアンテナがない。本や音楽で、なんとかしのいでいるというのが事実なのではあるまいか。世界の豊かさは、いまやいったいどこにあるのだろうか。自分はまだ魔法の鍵をもっていない。

お盆

晴。

午前中、スーパー。
妹一家来る。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第七番 K.309 で、ピアノは野平一郎(NML)。こんなすばらしいモーツァルトは滅多にないよ。

野平一郎水戸芸術館モーツァルト:ピアノソナタ全集2

野平一郎水戸芸術館モーツァルト:ピアノソナタ全集2

■ハンス・アイスラーの弦楽四重奏曲 op.75、BACHによる前奏曲とフーガ op.46 で、演奏はライプツィヒ弦楽四重奏団NML)。アイスラーはもっと聴いてみたいな。
Adorno / Eisler : Works for String Quartet (弦楽四重奏のための作品集)

Adorno / Eisler : Works for String Quartet (弦楽四重奏のための作品集)

 
皆んなでお墓参り。今日はちょっと雨が降ったせいか、多少涼しい。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第二番〜シャコンヌブゾーニ編)で、ピアノは園田高弘NMLCD)。園田高弘は中庸で曲のよさをあますところなく表現する部分と、叩きつけるような迫力を全面に出す部分の両面があって、それらがなめらかにつながっているのがすばらしい。日本人ピアニストだからなのか、ユニークな一流ピアニストだと思う。バランスのよさとスケールの大きさの双方をもっているというか。■バッハのトッカータとフーガ BWV565(ブゾーニによるピアノ編曲版)で、ピアノは園田高弘NMLCD)。冒頭の部分は誰でも知っている、あの曲のピアノ編曲版。これもブゾーニの編曲に係るのだが、じつはこのエディションは初めて聴いた。上の「シャコンヌ」ほどうまくピアノ曲になっていないという感じ。オルガンに対抗しようとして無理がある。どうもバッハというよりは、ブゾーニを聴いているというような。でも、園田はうまく弾いていると思う。

夜、遠雷を聞きつつ皆んなで花火をする。楽しいなあ。
妹一家帰る。甥っ子たちも大きくなった。


NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十四番 K.491 で、内田光子の弾き振り、オケはクリーヴランド管弦楽団NML)。内田光子は自分には高級すぎるのだが、それでも聴く。装飾音をたくさん付けて弾いているが、あまり納得できなかった。それから、自作なのか、カデンツァがとても長い。なお、アマゾンのレヴューは15人のレヴュアー全員が五つ星をつけている。

モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 第24番

モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 第24番

モーツァルトのピアノ協奏曲第二十三番 K.488 で、内田光子の弾き振り(NML)。■メシアンの「永遠の教会の出現」、「聖餐式」、「聖体秘蹟への奉納」、「二枚折絵 - 現世の試練と来世の至福」で、オルガンはオリヴィエ・ラトリーNML)。二十世紀最大の作曲家って、じつはメシアンじゃないかと思うことがある。しかし、「永遠の教会の出現」には死んだ。脳ミソ耐えきれるかと思った。
Complete Organ Works

Complete Organ Works

elementary OS 0.4.1 で自作のライフゲーム・エディタを実行しているところ。
20180814024640
elementary OS は Mac 風の操作性をもった Linux ディストリビューション。グラフィックがきれい。でも「elementary」といってもあまり初心者向けかどうかはわからず、最初から入っているソフトウェアは少ないので、必要なものを自分で入れていく必要がある。ベースは Ubuntu だけれども、だいぶ独自の OS である。いろいろやってみたい。

Linux Mint に ClipIt をインストールしてみた。クリップボード・マネージャである。

ファイル転送のプログラムを改良

日曜日。曇。

Ruby で遊ぶ。ちょっとレイ・トレーシングに興味があるので、検索などしてみる。その釣果(?)。

夕方、雨。「降れば必ずどしゃ降り It never rains but it pours.」ということわざがあるけれど、ひさしぶりに降ったらすごい降りになった。

Ubuntu MATE 16.04 LTS を 18.04 にアップグレード。Ubuntu 系ばかりこんなにあっても仕方ないから、何かちがうのを入れるか。
20180812162232
 
プログラミングに没頭。
obelisk.hatenablog.com

中沢新一・河合俊雄編『思想家 河合隼雄』

晴。毎日晴れでどうなっているのだろうなと思う。
ホントどれだけでも寝られるので、意図的に起きないといけない。延々と夢を見ている。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第五番 BWV829 で、ピアノは園田高弘NML)。NML だと CD ではもはや入手できない音源が聴けるのがうれしい。

バッハ:パルティータ

バッハ:パルティータ

モーツァルトのピアノ・ソナタ第四番 K.282 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。■ハイドンのピアノ・ソナタ第五十九番 Hob.XVI:49、第六十番 Hob.XVI:50、第四十七番 Hob.XVI:32、第五十四番 Hob.XVI:40 で、ピアノはポール・ルイスNML)。どうでもいいが、アマゾンのクラシック音楽の CD の表記はじつにいいかげんで、もう訂正要求を出すのも面倒になった。まったくやる気が見られない。
Haydn: Piano Sonatas 32, 40, 4

Haydn: Piano Sonatas 32, 40, 4

 
ちょっと元気が出てきた。

暑い中、カルコス。いつものごとく、「群像」の中沢さんの連載を立ち読みする。ついにこの領域に入ってきたかという感じ。読んでいて静かに興奮した。フロイトユングの差異についての話は自分にもとてもよくわかった。それから、今月の連載にはいろいろな形で物理の話題が出ていたのも個人的に特に興味を惹かれた。エネルギー保存則を提唱したのはどうして物理学者ではなく、たんなる医者だったのかとか。それから、きわめて重要なのがユングとパウリの共著についての話。ヴォルフガング・パウリは綺羅星の如く輝く二十世紀の天才物理学者たちの中でもとりわけ優秀な人物で、量子力学におけるいわゆる「パウリの排他律」や、スピンの理論がその主要な業績である。手厳しい批判的精神の持ち主で多くの物理学者に恐れられたほどの人物であった。そのパウリが心理学者のユングとひっそりと共著を出していて、自分も学生のときに読んだが非常に不思議な印象を与える難解な本だった(いまでもたぶん書庫?にあると思う)。結局自分ごときにはもちろんよくわからなかったわけだが、ここで中沢さんはレンマ学の立場からこの本を読み解いていて、ちょっとため息をつかせられる感じだった。それにしてもこの中沢さんの連載には迸るような創造力が感じられて、ここから無限の富を引き出せそうな予感がある。単行本になったものを早く読みたいと思う。
 文庫本もいろいろ買った。ちょっと元気が出てきたので、これまで買わなかった本とかも買った。


中沢新一・河合俊雄編『思想家 河合隼雄』読了。再読。単行本版をもっているのだけれど、ふと中身をぺらぺらめくっていたら買う気になってしまった。文庫化にあたって大澤真幸さんの論考が収録されているというのもあったが、それがいちばんつまらなかった(笑)。しかしこれ、河合先生の文章は一篇だけで、それも翻訳なのだな。でも、とてもおもしろかった。まあ、相変わらず自分勝手な読み方をしたので、中身について書いても意味ないと思う。ただ、自分の(精神的な)貧しさを痛感して、で、どうして自分はこうも自分の貧しさが気になるのだろうなあと思った。いや、これはよく思うことだが。いま、若い学者たちは総じて非常に優秀だが、心が圧倒的に貧しい。でも、彼らはもちろんまったくそうは思っておらず、自信満々で、古い日本を糾弾・嘲弄して已まない。まるで、古い日本によいところはまったくなかったかのようである。彼らからすれば、実際にそうなので、彼らは本気でそう思っているのだ。もっとも、こんなことを言っても無意味である。時代を作っていくのは彼らであるし、それはそれで日本が西洋国になるのもまちがいないのかもしれない。まあ自分にはそんなことにはもうあまり興味がないというか、自分などにはどうしようもないこととして力不足を認めざるを得ない。それでも、いまだに自分の貧しさは本当に気になる。それはただの見栄だけではないように思っているのだが。

思想家 河合隼雄 (岩波現代文庫)

思想家 河合隼雄 (岩波現代文庫)

本書最後の養老先生へのインタヴューは非常におもしろいので、インターネットと融合した現在の「リアリティ」を養老先生がどう思っておられるか、訊いてみたい気がする。河合先生は、インターネット社会を知らずに亡くなられてしまった。中沢さんはインターネットについてはほとんど発言されておらない。なかなか、自分ごときがどう考えてよいか、悩んでいるところである。

河合俊雄先生は河合先生の御子息であり、同じ心理療法家であるが、かつて山形浩生さんがクソミソに罵倒していたのを覚えている。今回本書を読んで、あらためてなかなかの人物だと思った。この人もなかなか一筋縄ではいかない人に思える。

自分は、日本で東洋が崩壊してゆくのをまざまざと実感している。このところ、自分の意識はその感覚で占められている。