「象徴界」の優位性と哲学、「知」の腐敗

晴。毎日酷暑。
 
午前中に図書館。四方田犬彦の『大泉黒石』、KAWADE道の手帖種村季弘』を借りる。大泉黒石というのは、大正時代のベストセラー作家らしい。
ドラッグストア。
 
夕方、カルコス。岩波新書國分功一郎スピノザ―読む人の肖像』、中公新書の『言語の本質』は話題作。國分さんの本は読んだとかんちがいしていたが、それは『はじめてのスピノザ』という本のことだった。河合隼雄学芸賞を受賞して気づきました。あとは新刊の、岡田暁生片山杜秀『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)を購入。
 
本屋を出たら、沛然たる驟雨。気温が38℃から、一気に9℃下がる。濛濛たる湿気。
 
 
國分さんの『スピノザ』を読み始める。なかなかおもしろいし、どうしてわたしが「哲学」というものに時として違和感を覚えるのか、はっきりしてくるのを感じる。これは大雑把な言い方だが、西洋はラカンのいう「象徴界」をもっとも重視する、そのあらわれが「哲学」だ。そして、「想像界」を貶める。しかし、そもそも精神活動は「象徴界」と「想像界」に、きれいに分けてしまうことができないと、わたしは思う。象徴構造は明晰なものであり、確実性をもつが、精神活動が象徴構造に還元されるというのは、一種の「貧困化」に他ならない。それ以前に、あいまいで不確実ではあるが、豊かな心の内実が存在しうる。しかし、それは象徴構造ではないから、個人的なものであり、概念によって他人に伝えられるものではない。そこに、罠が存在する。(自分が)わかっているということを、(他人に)わかってもらいたいというヴァニタスは、貧困化した象徴構造によって満たすしかない。そのヴァニタスは、「知」の大きな原動力のひとつであり、それゆえに「知」は腐敗するのである。