鈴木大拙『禅の思想』

晴。

午前中、散髪。すっきり。
ツユクサが咲いているのに気づいたのだが、ツユクサっていま頃だったかな。


しかし…、である。わたしはオリンピックをまったく楽しんでいないわけではないのだが、コロナウィルスの感染状況が過去最悪といわれる中で、一方でオリンピックで騒いでいるという状況は変だと思う、平凡な意見だろうが。まともじゃない。そもそもオリンピック、いやスポーツ全般はつまるところ自分がいちばんになりたいというエゴのぶつかり合いに過ぎず、観客などはそれを見て興奮するだけのことで(ローマ帝国時代のコロッセオ競技と何も変わらない)、まあ我々凡人はそんなものだといい条、大したものではない。そして、いまではそれに大金とナショナリズムが絡む。わたしは体を動かして楽しむこと自体は別に悪いとは思わないが、そして技を極めるということがあってそれはあってもいいだろうが、「スポーツ」など一切なくなってもどうとも思わないだろう。いや、それがある限りは楽しまないとはいわないから(日本人選手もつい応援してしまうし)、矛盾しているといえばそうだが。

人間は戦いを見るのが好きなんだよね。個人の殴り合いから戦争まで。
メディアの戦い好き。小説、評論、ニュース、映画、マンガ、アニメ、ゲーム、ネット、すべてそうだ。

38℃の夏。あちー。
コメダ珈琲店各務原那加住吉店。たっぷりブレンドコーヒー530円。ここは椅子も座りやすくて本を読むにぴったりなのだが、コーヒーがもうちょっと好みの味だと申し分ないのだけれど。ミスドの280円コーヒーの方が好み。おかわりもできるし。
 種村季弘『詐欺師の勉強』の続き。種村さん、めっちゃおもしろいのだが、何がこんなにおもしろいのだろうな。マイナーだから、うーんでも、マイナーでもつまらないものはつまらないしな。僕は(文章の)スタイリストが好きなのだが、種村さんは少なくとも澁澤龍彦的なスタイリストではないし(でも、澁澤は種村さんのことを、しばしば「文体」なのだと書いていたが)。倒錯、転倒、これは確かにそうだ。弱さ、(文学的な)吃音、これもそうだ。そういや、本書所収の文章に「ナンバ歩き」の話題があったな。手と脚が同時に同じ方向に出てしまう歩き方。まあ、こんなことを考えても仕方がないのだが、おもしろいのでつい考えてしまう。特にこの本が雑多なのもよい。

カルコス。新書本二冊に、岩波現代文庫一冊購入。

種村訳のシェーアバルト『小遊星物語』のオンデマンド版を注文する。平凡社ライブラリーは貴重なものをオンデマンド販売してくれてエラい。

 

大井浩一『大岡信』を読み始める。第三章まで読了。著者はわたしより少し上の世代で、この世代でもコツコツと文学を読んできた人がいるのだなと感じた。じつに読み応えがある。引用された、大岡さんの初期詩篇の言葉がとりわけ瑞々しくて、感動させられる。そして、我々は既にめちゃめちゃに壊れていて、どうしようもなく貧しいことを思い知らされる。まあ、「我々」ではなくて、「わたし」がというべきかも知れないけれども。かつてと比べるなら、現在はもはや氾濫する言葉に意味がない。時代的な言葉がなく、沈黙しか残されていない。詩ではなく、「議論」と「詩=資本主義的商品」しかないのだ。あとは、個人の自己満足だけ。

 
鈴木大拙『禅の思想』読了。これはむずかしい本だな。大拙自身、会心作だと言っていたようである。繰り返し読もう。