常に求められている的確な応えを返す子供たち

未明起床。
晴。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十九番 K.465 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NMLCD)。よい。■ブラームスクラリネット五重奏曲 op.115 で、クラリネットはシア・キング、ガブリエリ弦楽四重奏団NMLCD)。■ベートーヴェン交響曲第一番 op.21 で、指揮はチャールズ・マッケラススコットランド室内管弦楽団NMLCD)。ちょっと聴いては大したことないようで、じつはすごいという大指揮者の典型だな、マッケラスは。ピリオド奏法による現代的なキビキビした、フレッシュきわまりない音楽だが、これを創り出しているのが80歳のおじいさんだとは! まったく不思議なこともあるものだ。それにしてもベートーヴェン、仮にこの交響曲第一番だけを残して二十代で死んだとしても、最高クラスの作曲家として歴史に残ったであろう、この曲は、そんな傑作だ。若い頃から創造力マックスだな、この人は。■ガブリエル・ピエルネ(1863-1937)のピアノ三重奏曲 op.45 で、演奏はトリオ・ヴァンダラー(NMLCD)。
 
ショーソンの「詩曲」 op.25 で、ヴァイオリンはヒラリー・ハーン 、指揮はミッコ・フランク、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団NML)。一応聴いた。ハーンのヴァイオリンはキレもあるし、音も美しいんだが…。指揮はつまらない。

プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第一番 op.19、エイノユハニ・ラウタヴァーラ(1928-2016)の二つのセレナードで、ヴァイオリンはヒラリー・ハーン 、指揮はミッコ・フランク、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団NML)。プロコフィエフショーソンよりもずっとハーンに合っている。特に技巧の冴えが気持ちいい。オケは色彩を感じるが、指揮はまったくの添え物。
 
 
昼からネッツトヨタで半年点検。特に悪いところはなかった。次回、バッテリーとオイルの交換かな。
 点検に一時間かかるので、そのあいだ無着成恭編『山びこ学校』(岩波文庫1995)を読む。戦後のいわゆる民主主義教育の実践(1951年刊)として有名なもので、要するに田舎の中学生の作文集である。冒頭の(有名らしい)「母の死とその後」も感動的ではあるが、わたしは詩(といっていいのか)もいいなと思った。「しょんべんたれにおきたら/つばめが鳴いて ちゅうっとはいってきた」で始まる「朝」(p.72)、「うさぎをころすとき/こがたなで こつんと一つくらすけると(なぐりつけると)/「きい きい」となきました/そして/うさぎのけっつ(しり)から/こがたなをさしました/それから/そりそりとむきました」で始まる「うさぎ」(p.91)など、読んでハッとした。「すずめの巣」(p.98-100)という作文もいい。
 確かにここには、まだ知識や技術を得ることで凡庸化していない、生(き)のままの素朴で独創的な(?)表現が見られるといっていいかも知れない。ある種の芸術家などは、知識や技術で心が「汚染」されたあとにわざわざ、ここに見られる子どもの作文のような、原初的なシンプルで力強い表現を求めるのだろう。それができる人間が、敢ていうなら「天才」なのかも。凡人は、大人になると、こういうものを確かに失う。
 しかし、正直いって、この本のすべての作文、詩がおもしろいわけではない。やはり、おもしろいものは本書の前の方に集めてあるのかなと思う。
 なお、この本もオカタケさんの文章を読んで読みたくなったものであることを、付記しておこう。
オカタケの「ふくらむ読書」【20】山びこ学校|春陽堂書店
オカタケの「ふくらむ読書」【21】山びこ学校|春陽堂書店
飽きて途中で読み止める。図書館本。
ひどく理屈っぽい文章もあるが、文化化されたわたしの悪癖として、そういうのはつまらない。と、ちょっと立ち止まる。本書のような実践で教師たちが目指したのは、子供が「自分の力で考える」ということだろうか。とすれば、理屈っぽい中学生の文章の方を、高く評価すべき、ということになりそうである。素朴で感動的な文章は、余計なものであるかも知れない。
 それでゆくりなくも思い出すのが、いまの子供たちである。テレビでマイクを向けられる子供たちが、揃いも揃って、みな自分がどういう発言を求められているかよく知っており、じつに立派なことばかりいうのを、わたしは日々テレビ画面の向こうに見る。いま「考える」といわれているのは、的確な応えを返すことに他ならないと、知り抜いているのだ。あれは何だろうと、思う。素朴さなど、かけらも見当たらない、じつにかしこい子供たちである。
 

 
四方田犬彦『映画の領分』(2020)を読み始める。