東浩紀『訂正可能性の哲学』

曇。
昨晩は九時頃寝て、午前一時に一度目が覚めて、結局九時間寝た。よく寝たということになるのだろうが、あまりすっきりとはしていない。
 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第四番 op.18-4 で、演奏はアリアンナ弦楽四重奏団NML)。

■バッハの無伴奏チェロ組曲第二番 BWV1008、第三番 BWV1009 で、チェロはサユウン・ソルステインスドッティル(NMLMP3 DL)。
 
■イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第六番 op.27-6 で、ヴァイオリンはヒラリー・ハーンNMLCD)。イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタの録音はよいものが多いが、これもまたレヴェルの高いものだった。さすがはヒラリー・ハーンというべきかな。■シベリウスのヴァイオリン協奏曲 op.47 で、ヴァイオリンはヒラリー・ハーン、指揮はエサ=ペッカ・サロネンスウェーデン放送交響楽団NML)。ヒラリー・ハーン(1979-)のヴァイオリンをもう少しと思って、シベリウスの名曲を聴いてみた。イザイは最新録音だが、これは2007年と、だいぶ前の録音。でも、甘めの美音と鋭さの共存はまったく変わらない。終楽章はもともとカッコいい曲なのだが、ハーンの見事な演奏にボロ泣き。ああ、自分はこの通俗曲が好きなのだなあと思う。サロネンのサポートも申し分なし。 
昼。晴れて暑い。まだ35℃ある。
県図書館。斎藤真理子訳ということで、パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』を借りる。あとは、岩波文庫大泉黒石『俺の自叙伝』など。
 
帰りに肉屋へ。牛切り落とし、豚かたまり、豚ロース×2 を買う。
 
庭のビジョザクラ(バーベナ)。夏中ずっと咲いている。宿根草で強い。

 
 
東浩紀『訂正可能性の哲学』を読み始める。昨日発売されたばかりの、刷りたて(?)の本。梶谷先生のブログで知った。とりあえず、第一部(第一章〜第四章)を読み終えたが、端的にめっちゃおもしろいな。「訂正可能性」という概念を導入し、「家族」という概念を読み替えている、といっていいのか。コミュニケーション論でもある。東さん、あいかわらずものすごく才能があるな。哲学的エンタメとしても読めてしまうくらい、おもしろいし、あるいはそんなふまじめな(?)読み方でなく、現代において「言論(あるいは「リベラル」)を復活」させようという、マジメきわまりない挑戦と読むべきか。議論は時にかなりアクロバティックで強引だが、優れた哲学はともすれば「乱暴」なものだ。
 東さんのいうとおり、いまは「人文学」の凋落した時代であるが、その「人文学」を復活させようという試みでもあるだろう。ローティとかかつて読んで全然わからなかった思想家たちを、読み直してみたくなったり。しかし、そもそもわたしのような、老父母との家族を作るだけで、リアルに友達がいるともいえず、していることはまあこのブログくらいで、それもほとんど読者がいない、そういう孤立した(どうでもいい)人間には、本書の(コミュニケーション論的)記述はほとんど無意味かも知れない。それはつくづく思った。まあでも、無意味にせよ、わたしなんかが本書をひどくおもしろがったって、かまわないと思うのだ。
 
(それにしても、訂正可能性っていうと、まちがえたら訂正すれば何でも済むのか、自分の発言に責任をもたなくてもよいのか、ってツッコミが入るような気がする、ってのはすぐに出てくるよね。それはすごく単純な、幼稚な批判だと思うが。現実として、そもそも誰も自分の発言に責任など感じていなくて、「まちがった」にせよほっかむりして、放っておくだけ、てのがふつうの言論人のスタンスだと思うから、まあ「訂正可能性」っていうだけで真摯な感じもしてくるくらいだけれど。いや、そういう話ではないか。)
 
「命題の真偽は世界と命題の関係だけでは決まらない、むしろ、重要なのはコミュニケーションであり、命題の真偽は人と人とのコミュニケーションに拠って決まる」ということだろうか。ゆえに、命題の真偽は、コミュニケーションが変われば変わってしまうのであり、それがつまり「訂正可能性」である、と。そして、そのコミュニケーションが変化しうる母体の集団を、敢て「家族」と呼ぶ、と。
 
 
夜。
東浩紀『訂正可能性の哲学』読了。第二部「一般意志再考」(第五章〜第九章)を読んだ。やー、本格的な思想書だが、ほんとに(エンタメ的な意味でも)おもしろいっていったらない。ルソーがその有名な概念「一般意志」を中心に、独創的に読み直される。そしてそれを基に、「人工知能民主主義」論とその論者、落合陽一や成田悠輔が徹底批判されたりする。エンタメ的にも、おもしろくない筈がない。
 第二部では第一部で鍛えられた、「訂正可能性」概念が縦横無尽に活躍する。しかし、「人工知能民主主義」批判として、第一部ではちらりと出てきただけの、「固有名は確定記述の束に還元される」という命題が、「訂正可能性」概念と結び付けられて(なぜそれが可能なのか)、頻繁に使われるのは、ちょっと論理がよくわからなかった。総じて第二部、わたしには、「訂正可能性」という言葉が、魔法のように便利に使われている印象である。また、ルソーの小説『新エロイーズ』の読みも、論旨に合わせるため強引すぎるような気がする。「一般意志」概念も、そのうち曖昧になってどこかへ消えてしまうようでもある。結局著者は、「一般意志=ビッグデータ的AI」という「人工知能民主主義」を批判するため使ったあと、「一般意志」概念をどうしたいのか、よくわからない。というか、「人工知能民主主義」がいけないことはわかったが、じゃあどんな民主主義がよいのか? 民主主義には「訂正可能性」が必要とは、わたしにはわかったようでわからない。そもそも、一般意志とは何かわからない(これはわたしだけがわからないのではなくて、東さんにもわからないのである。誰にもわからない)のに、訂正可能とは?
 まあ、わたしの頭の悪さを見せつけても仕方がないので、本書はとてもおもしろいから、是非読んでって、いいたいのかな、わたしは。