シュルレアリスムと抑圧

夜の間に降ったようだ。曇。
 
何もない畑を耕すということ。
襞。ドゥルーズバロック本にそういう題のがあったな。この本はもっていなくて未読で、図書館にもないみたいだ。襞としての精神。魅力的な比喩だな。
 
ドゥルーズ『差異と反復』(文庫版)を再読し始める。とりあえず「序論」読了。うん、(誤読にせよ)よくわかるではないか。ドゥルーズは「反復」(=概念なき差異)を徹底して擁護するのだが、その概念はあらかじめ与えられていて、つまりは「反復」ということを知らなければ、ドゥルーズがこの語で何がいいたいかが全然わからないと、そういうことになっている(笑)。逆に、既に「反復」を知っていれば、この序論を大ざっぱに理解するのに、それほどむずかしいことはない。まあ、ドゥルーズは頭がよすぎるので、それで話がめっちゃむずかしくなっているところはあるが、そのあたりは適当に読めばいい。確かに本書は、もっと簡単な言葉で書き直されねばならないだろう。
 しかしわたしはかつてこの本を、あまりにも一字一句マジメに読もうとしていたなと思う。それでは、本書がわかるわけがない、つまりそれは、本書序論にいわれている、「一般性」を前提とした読み方だからな。とりあえずは、ざっくりと大ざっぱに読まねばならないわけだ。
 「反復」(=概念なき差異)を称揚するだけなら本書は「序論」だけでいいわけで、たぶん本書はここから、内包空間についての記述になるのだと思う。これは、興味深い。外延(=1)的な差異は否定さるべき「一般性」であるが、内包空間は無限を孕んでいる。そしてそれは、「一般性」ともじつは繋がっていくわけだ。

しかし、ぼんやりと想像するのだが、概念なき差異だけでは、諸差異間の緊張の中で宙吊りになり、最終的に創造性は停止=静止してしまうことになるのではなかろうか。ポストモダン哲学では「中心」ということが嫌われたが、中心(不在の中心でもいいように思える)の措定は新しいものの創造において不可欠であるように思われる。中心化と破壊=ズレの弁証法というのは凡庸かも知れないが、人間の精神ってのはそんなものなのでは? まあ、もっとも、創造しなけりゃいかんということは、全然ないわけだが。というか、むなしい「創造」は現在いろいろと爆発的にありすぎて、うんざりもさせられるしな。
 なんにせよ、せっかくドゥルーズのような人が出たのに、現在の「知」は反動化しまくっているな。結局、「反復」の緊張感や「無限の差異を内包した無」は、すぐに意味を求めたがる現代人には耐えがたいのだ。透明な伝達という「夢」を、つい追ってしまう。アカデミズム。「知」が飼い慣らされていっている。
 何もない畑を耕すということ。
 

 
NML で音楽を聴く。■ブラームス交響曲第二番 op.73 で、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。ブラームスの「古さ」の到達している領域・回路が、現代の「新しさ」では補完できない。ある意味で、困ったことである。「新しさ」が、全然ラディカルでない。
 
近くの陸上自衛隊日野射撃場(岐阜市)で発砲事件があったそうで、朝からずっと騒がしい。
 
 
昼から珈琲工房ひぐち北一色店。
『コレクション瀧口修造9』の続きを読む。瀧口修造も随分と読んできたことになるが、瀧口の文体はずっと安定して、変わらないという感じがする。基本的に人の変化は堕落であると見做していいことが多いが、瀧口は初期から充分な掘削力をもつ文体を有していて、そのような堕落に陥らなかった、ということだと思う。
 本書の第一章は「ブルトンシュルレアリスム」と題されて、その名のとおりの文章が並ぶが、それにしてもシュルレアリスムというのは、現在、ほぼ完全に廃れてしまったのかなという感じがする。いやもちろん、商業的に陳腐化して、残っているともいえようが、その同時代的生命力は枯渇したとして、たぶんいいのだろう(わたしが知らないだけかも知れないが)。ブルトンは、シュルレアリスムはいつの時代でもあったのであり、それが「終わる」ことはないようにいっているが、シュルレアリスムは「抑圧」の力を利用したものであり、「抑圧」自体の次第になくなりつつある今、無意識において「抑圧」されたエネルギーの解放という意味でのシュルレアリスムが陳腐化したとして、おかしいことはない。
 「心の病い」のレヴェルでも、抑圧は(時に激しい)神経症をもたらしたが、「コンテンツの時代」であるいまは、精神的な「未消化」、「解体」の不具合による、鬱がトレンド(?)になっている。
 それで思うのが、現代における「性の抑圧」である。シュルレアリスムは、性的な抑圧を多く題材にしたが、第二次世界大戦後、アメリカやヨーロッパにおいて「性の解放」は大きな潮流だった。いまでは、少なくとも想像力の次元において、「性」はひどくあからさまになった。特に男性性においてそれは顕著であり、性的嗜好はバーチャルな領域にあって、インターネット上であらゆる可能性が満たされつつある(今後、生成AI はそれをさらに進めるだろう)。男性性において、インターネット上だけを見れば、性的な圧迫はひどく低下したといえると思う。では、女性性にあってはどうか? わたしにははっきりいってよくわからないのだが、フェミニズムなどはむしろ女性において性を抑圧しようとしているのであり、女性にとって性の問題、(性のサニタイズを背景とした)性関連のトラウマはじつに厄介なものになってきた。それは、女性における「心の病い」の、トリガーとなっているようにすら、少なくともわたしには見える。
 アイデンティティ・ポリティクスはなぜか人の間の距離を広げる傾向があり、人々を孤立させる。現在における「性」や、また「承認欲求モンスター」(『ぼっち・ざ・ろっく!』)の問題でも、孤立化が我々の心を苦しめることになっている。が、それはまた別の話か。
 

 
第101回:言論の自由を失った日本にはびこる「ザイム真理教カルト」(森永卓郎) | マガジン9
正直いってわたしは、このところ日本の政治にあまり興味がもてない。我々日本人は、没落するに充分な理由のあるアホ国民であり、またそういうことすら既に言い尽くされている。もはや、わたしごときがいまさら何をいうまでもない。ま、かしこい学者たちやインテリたちや目覚めた上級国民が、我々を啓蒙して下さるだろう(棒読み)。それにしても、森永さんのようなバカなドン・キホーテは、もう極少数になってしまった、と思う。わたしも森永さんとはまったくちがった領域で、バカを追求していきたいものだと念じている。
 
夜。
吉本隆明全集25』を拾い読みする。これまで何回も読んだ文章をまた読んだりする。吉本さんは本当におもしろい。よくわからないところもあるが、そうであっても断然おもしろい。三島由紀夫の読解もおもしろいし、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読ませても、じつに新鮮な読み方をしておられる。デリダツェラン論を読ませても、吉本さんがデリダユダヤ人たるを捌いて、何かデリダをこちらの近くにまで引き寄せてくれたような感じがする。