高橋英夫『わが読書散歩』

晴。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十一番 op.53 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■モーツァルトのフルート協奏曲第一番 K.313 で、フルートはエマニュエル・パユ、指揮はクラウディオ・アバドベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。

松村禎三交響曲第一番で、指揮は野平一郎、オーケストラ・ニッポニカ(NMLCD)。古くさくて、暗くて、行き詰まっている日本。■藤倉大の「アンペール - ピアノと管弦楽のための協奏曲」で、ピアノは小川典子、指揮はティエリー・フィッシャー、名古屋フィルハーモニー交響楽団NML)。

 

昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。ストロベリーカスタードフレンチ+ブレンドコーヒー440円。『コレクション瀧口修造7』の続き。瀧口修造を読んでいるのは「なんとなく」で、反省的意識がそうさせているのではないが、敢て「理性的反省」をしてみると、この「芸術」ではなく、アートの時代に瀧口修造を読むというアナクロニズムとは何なのかと、ちょっと苦笑したくならないでもない。でもまあ、それは敢ていえば、であり、これからも「なんとなく」瀧口修造を読むのだと思う。さらに敢ていえば、ここには個人的に掘り下げるものがあるのだ。
 瀧口修造というとシュルレアリスムがひとつの「名刺」であると思うが、本書で瀧口は日本におけるシュルレアリスムというものの「奇形性」(瀧口がそういう言葉を使っているわけではない)を何度も指摘している。ヨーロッパにあってはシュルレアリスムルネサンス以降近代絵画の強固な写実性に対し、人間性のさらなる奥深い探求として現れてきたものであるが、日本には当然ながらその文脈はなく、西洋模倣のひとつとしてエコールが人工的に移植されたものになっている。それは「観念」(ヨーロッパにおいては必要に迫られたものであったが)の輸入といってもいいが、日本にはもとよりそのような「観念性」、言葉の支配はなかったわけであり、その点でいまの「アートの時代」になっても、あまり変わっていないのではないかという気がする。いまでは西洋の「アート」にもそのような大きな観念性は乏しく(ポストモダン)、エコールというものもなくなり、それを日本に「輸入する」ということもなくなった。話を大きくすれば、文化全般にわたってそのような「輸入屋」は必要なくなったのであり、浅田さんが冗談っぽくやってみせたノリなどが、最後になっているわけであろうか。
 アートということでいうと。シュルレアリスムはある種の「深さ」を求めたのであるが、現代のアートの深さの拒否、「効果」の追求を思えば、シュルレアリスムなどの、人間性の追求が滅びたのも当然であるように思える。我々は、ぐらぐらする非常に弱い土台の上に、おしゃれでクールでスマートな建築を載っけている感が否めないが、もうそのような流れは止まらないのであろうか。ということ自体、既に田舎者の感慨であるのかも知れないが。

 
気温はまだ35℃ある。帰りにカルコスに寄る。ちくま文庫新刊の藤本和子さん、河出文庫二階堂奥歯など購入。前回なかった岩波文庫カール・シュミットがなぜか再入荷(ネットで買わなくてよかった)、あとは中公新書の『日本アニメ史』で、こんな本が出ていたのか。


夜。
図書館から借りてきた、高橋英夫『わが読書散歩』(2001)読了。高橋さんは2019年没、死因は老衰ということで、2013年以降、著書が出ていない。わたしはかつて、こういう古典的な文章だけ読んでいたい人だったのだが、随分遠いところまで来てしまった。コクのある文章とでもいうのか知らん。高橋さんは、手塚富雄の弟子だったのだな。じつに往時茫々、遥か彼方という感じがする。ほんと、古くさいものばかり読んでいたわたしだった。

こういうのを読んでいると、自分の学がないことがつくづくわかる。そういうのは、若い頃に無理にでも身につけておかないと、一生身につくことはないのだということが、いまではよくわかる。