カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』

晴。
 
図書館から借りてきた、カート・ヴォネガット・ジュニアスローターハウス5』(原著1969)を頑張って読了。SF とされるが SF と決めつけられない、不思議な小説だ。軽く空疎な不条理。主人公の、従軍(第二次世界大戦)による心の傷。「無気力な人形」「腑抜けな英雄」としての元兵士は、人生にコミットできない。だから、人生はすべて「軽い」のだ、絶望すらもとうにない。深刻なことは、すべて「そういうものだ(So it goes.)」で処理される。
 「自分には何の秘密もないと彼は長いあいだ信じてきた。だが、ここに現れた証拠を見るかぎり、彼のなかには何か途方もなく大きな秘密が隠されているようだった。しかも彼には、その秘密がどんなものか想像もつかないのだった。」(p.205)
 そして主人公は、自分が兵士として居たドレスデンを、連合国軍が空爆し、多くの市民が殺戮された体験を思いだす。それが、元凶なのだ。ドレスデンでは街が爆撃によって消滅し、135,000人の市民が死んだが、ある種の人間には、それはただの数字にすぎない。戦争に勝つためには「しかたない」こととされるのである。わたしが付記しておけば、それをただの数字としか思わないような人間は、銃後の安全な場所にいて、想像力を欠いている。本書の終わりに出てくるラムファード教授は、まさにそういう人間だ。彼のような人間には、自分のために世界が存在せねばならないのである。
 本書の描き出す真実は、いまでもまったく、恐ろしいほどにそのまま通用する。我々のどれくらいがいったい、観念よりも「想像力」をもった、まともな人間なのだろうか? 哲学的っぽくいうなら、我々には他者が存在するのか?

カート・ヴォネガットは『猫のゆりかご』もちょっと読んでみたいな。
 
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昼。
部屋に逼塞してごろごろしながらだらだらネットを見ていても仕方がないので、いつもの「ひぐち」へ行って、コーヒーを飲んでくる。図書館から借りてきた、ナディン・ゴーディマ『バーガーの娘1』読了。わたしの能力を超えた(わたしには)手ごわい小説だが、決しておもしろくないわけではない。政治的闘争にかかわりたいわけではないのに、国家からマークされる人間の生。政治もまた人間のやること。小説は南アフリカ共和国において、反アパルトヘイト運動に翻弄される一白人女性を描いている。 
NML で音楽を聴く。■バッハのリュート組曲 ハ短調 BWV997 (ピアノ編曲版)で、ピアノは高橋悠治NML)。
余韻と手移り

余韻と手移り

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オリヴァー・ナッセン(1952-2018)の「プレイヤー・ベル・スケッチ」 op.29、増本伎共子(1937-)の「連歌」、高橋悠治(1938-)の「荒地花笠」、クロード・ヴィヴィエ(1948-1983)の「ピアノ・フォルテ」、石田秀実の「ミュージック・オブ・グラス」「フローズン・シティII」、チマローザのピアノ・ソナタ第五十五番で、ピアノは高橋悠治NML)。アルバム全体を聴いた。
 
 
夜。
浅田彰が語る、完璧な演奏マシンから最後にヒトになった坂本龍一 - YouTube
浅田さんの坂本龍一総括にはもちろん異論もあろうが、最後、いまの日本は壊滅的だというのが印象的だった。まったくそのとおりだが、その壊滅ぶりの当事者である自分がいうのはほんと何様である。
浅田彰が語る、あの映画のサントラが坂本龍一のピークだった - YouTube
浅田さんの現代日本理解、つまり日本オワタ、そのとおりすぎて悲しいな。坂本さんみたいなのが当たり前だと思っていたのに、そうじゃなかった、っていう。これも、わたしがいうのは何様だが。
 
しかし、ドメスティックに、内向きになった「日本」、それは確かに「日本オワタ」なのだが、何かの意味があるとも思う。グローバル化した資本によって一体化を強制される世界が、よいのだろうか。心の中間的な領域を守るために、現在の「心」には防壁が必要だ。日本人は直感的にそれを知っているようにも、思われるのである。もはや「前衛」「最先端」などない、そのことをいちばん知っているのが、浅田さんであった筈でしょう。いや、「日本オワタ」の認識は正しすぎるほど正しい、それはそうである。
 
さて、これから「壊滅」するか。
 
早寝。