静的と動的、マンダラと回転 / カール・シュミット『政治的なものの概念』

曇。台風の吹き返し。
夢。中沢さんの下で、大学の先生と何かの調査をする。でも、その大学の先生が中沢さんとうまくいっていないことが、あとでわかる。
これは自分の中の話が比喩的に出ているのだと思う。「レンマ学」はアカデミズムを包摂する中身と射程をもっているけれど、わたしはとてもそうではない。
静的と動的、マンダラと回転、むずかしいことである。

レヴィ=ストロースに「冷たい社会」と「熱い社会」という区別があったと思うが、彼は前者に共感があったという。なるほど、という感じがする。「冷たい」という一見ネガティブな表現は、一種の皮肉であった、と。現代は動的で「熱い社会」だ。欲望を次々と捉えて、移動していく。欲望に陥ることにより仮想的な「自分」というものが生まれ、優越感と劣等感に陥り苛まれていく。絶えざる移動のため、コスモロジーが生成していかない。
 いまさら「冷たい社会」を回復することはできない。資本主義という「熱い社会」に、「冷たい社会」を接続していく必要がある。先の話と繋げれば、マンダラと回転の統合。それは創造性の回復でもある。「熱い社会」はポストモダンに陥り、本源的な創造性を喪った。

スーパー。
今日は26℃で随分と涼しい。やはり「暑さ寒さも彼岸まで」というのは正しいのかな。

昼からごろごろぼーっと。


カール・シュミット『政治的なものの概念』読了。さらに1933年版、1963年版を読んだ。わたしのごとき素人がさらっと読んでしっかりと理解できる本ではないが、読まないよりは遥かにマシであると思う。シュミットはナチスの桂冠法学者であり、政治とは敵・味方の区別であるという、有名なテーゼの唱導者だ。わたしにはシュミットのいう「敵」というのが具体的によくわからないのだが、シュミットのいう「敵」は「公敵」であり、個人的な敵などではないから、わからないのは当然のことであるといえる。敢て具体的にいってみれば、現在のウクライナ戦争におけるロシアが、我々の「公敵」ということになるのかも知れない。というのは、シュミットのいう「敵」は、具体的暴力や戦争と深く結びついていて、日本政府は現在ウクライナ戦争に加担し、ロシアと敵対しているから。つまりシュミット的にいうと、現在日本において「政治」とは、ウクライナ戦争である、ということになるのだろうか。それは果たして、実感的か?
 政治とは敵・味方の区別であるというのは、現在の日本では不思議な定義であるように思えてしまう。なんとなくいまの日本の「政治」とは、御用専門家+ネトウヨと、反政府的大衆がお互いに仮想電子空間などで、罵り合ったりしているだけのようにも見えるから。これが敵・味方? 政治家は思いつきの政策立案と SNS を気にする以外、いったい何をやっているのだろう。さらにいえば、政治は次第に「技術工学化*1」していっているようにも見える。シュミットの醸し出しているような、生臭さが失われていっているようにも思えるのだ。もっともそれは、狭い世間しか知らないわたしのような人間から見える限りの、日本の「政治」にすぎないわけであるが。

 
20220920180742
 
夜。
「可愛いだけじゃない式守さん」第4話まで観る。

YouTube小林愛実のピアノを聴く。曲はシューマンのピアノ協奏曲 op.54 で、指揮は下野竜也NHK交響楽団。2022.2.5 のライブ録音。期限付き公開なので、ここには貼らない。小林愛実はほんとわたしと合うな。この人はいまどきめずらしく、深さのあるピアニストだ。「効果」を狙わない。そこが、古くさいといえば古くさい。そのことは、iPad のしょぼい音質でもよくわかる。なお、N響っていいオーケストラですね。昔は管が弱いっていわれたけれど、いまはそんなことない。ここでもオーボエなんか、いいなあって思いながら聴いていました。