こともなし

晴。
吉本隆明を読む。「固有時との対話」「転位のための十篇」など。既読の筈だが…。しかし素晴らしい。

東浩紀さんがかつて「熟議民主主義など不可能」と仰っていたが、確かにその通りだと思う。議論を通して、人が意見を変えることはまずない。例えば論破したならしたで、相手は「ありがとうございます」と言って意見を変えるよりは、プライドが傷つけられて怒り出す可能性の方が高いだろう。だいたい、自分の身になって考えてみればわかることである。しかしそれで終らないで、わずかでも繋がっているということがあれば、またちがうと思う。そして、「妥協」というのが極めて大切だということ。これは、我々レヴェルでもそうだし、イスラエルパレスチナの間でもそうだ。日本と中国だってそうである。もちろん「妥協」というのはポジティブなコノーテーションは普通ない。どちらかと云えば非難される態度であろう。僕も原理原則はなくて、とにかく何が何でも妥協せよとはなかなか言いにくいのだが、心の片隅に妥協を置いておくのは大切なのではないかとは思う。また東浩紀さんであるが、この人は熟議民主主義は不可能と言いつつ、「ゲンロンカフェ」とかをやって共通の「場」を作ろうとしている。なかなか、こういう「場」はまだネット上では作りにくい。2ちゃんねるを見ていても、荒れるのが普通になっている。そういうことがネット上で可能かというのは原理的問題であるが、まだ可能性が尽くされたわけではないであろう。これは、次の世代の人たちの課題だと思う。
 それから、修行という観点から見れば、インターネットはまさにそのためにあるのではないかというくらい、恐るべき修行の場になっている。本当に自分が凡夫だということを、つくづく身に沁みて自らに叩き込む場だ。この場では、悟りなど殆ど不可能。我こそはという Buddhist たちよ、来たれ。
 それにしても、吉本隆明さんである。吉本さんは本格的にネットはやらなかったが、吉本さんならどうしただろうという気がすることがある。中沢さんもネットはやっていないなあ。結局、ネットなんかは大したものではないのかも知れないが、凡夫なりに思うところがないでもない。いや、いまだからこそ「リアル」をという考え方もわかるのだが。
 僕は関西人ではないのだが、「ええかげん」というのがとても気になるようになってきた。「テキトー」で「ええかげん」「ちゃらんぽらん」僕みたいにマジメな人は、なかなかそうなれないんですけど。河合隼雄さんなんかは関西人だったなあ。いつでも笑いを取ろうとしていましたね。ユングなんかはあまりにもマジメな人だったようだが、日本でユング心理学がある程度のポピュラリティをもっているのは、いい人が根付かせたからだと思う。