こともなし

曇。

午前中はニーチェを読んでごろごろうとうとしていた。

いま音楽もあまり聴きたくないし下らぬ本もあまり読みたくなくて、自分より遥かにレヴェルの高いものが読みたくなっている。ついでに下らぬおしゃべりもあまり書きたくない。いつものブログとか読んだりして、坦々と時間を過ごしていっている。それ以外はネットもちょっとという感じ。

昼から医療器具販売店
図書館。


またニーチェを読んでごろごろする。


 

しかし、韓国の康京和(カン・ギョンファ)外相は「嫌日を国内政治の人気取りに利用している」という見方に反論している。日本の韓国通といわれる研究者による、「日本を特に重視していないから、『韓国が日本を煽っている』と批判するのはあたらない」という見解と似ている。

https://ironna.jp/article/12518?p=2

正直言って自分には田中秀臣氏はほとんどどうでもいいのだが、それは措いても「日本の韓国通といわれる研究者」などとぼかして書かないで実名を書くべき。ネットに多少詳しい人なら誰のことか推測できる上に、本人(と思われる人)からの反論は遮断するという、マナーのよくない書き方である。他に何か理由でもあるのかも知れないが、そうなら最初から書くべきでない。これから見る限り、田中秀臣氏は信頼できる書き手ではない。そもそも、ここで意図されている人が仮に現代韓国政治学の専門家であるなら、「韓国通といわれる研究者」というのははっきりと侮辱でしょう。何ですか、専門家に対して「韓国通」って。

ああ、ドシロウトが下らぬおしゃべりを書いてしまった。

吉本隆明全集第16巻の「戦後詩史論」を読み終えた。全集版で 200ページ以上ある、長い評論である。吉本さんへの評価としてわたしがいつも思い出すのは、蓮實重彦氏の「吉本隆明は滑稽である」というのと、浅田さんの「吉本隆明はわからない。私は吉本隆明を評価しない」というものである。いずれも、評価としてたぶん正しいのだと思う。この評論も、おそらく最初から敗北を決定づけられている試みだったのかも知れない。あとがきで、難渋で筆がちっとも進まず、ぶん投げたくなったことが記されている。わたしも中身はよくわからない部分が多かった。それでも、何も読めないときに吉本さんは読めるし、感動すらしたのは何だったのだろう。どうして吉本さんはわたしの命綱のひとりなのか。わたしごときにはその理由がまたわからない。たぶん、わたしは何かまちがっているのかも知れない。どうしようもないことではあるが。

増補版出版時に「若い現代詩」という文章が付け加えられているが、そこでの中島みゆき谷川俊太郎平出隆などの理解の新鮮さには驚かされた。これが成功しているにせよそうでないにせよ、こういう仕事をした人は他にひとりもいないのではないか。それともわたしが知らないだけなのだろうか。

同全集第16巻の「吉本隆明歳時記」を読み終えた。中身についてわたしごときの言うことはないが、さてこの文章は 1991年に廣済堂で文庫化されている。で、その「文庫解説」が大西巨人さんらしい。単行本が出たときに唯一人よいと評してくれた大西さんに頼んだら OK だったということが「文庫あとがき」に書いてある。わたしは大西さんの本は一冊も読んだことがないが、いつかは読みたい作家だ。さても、どんな文庫解説なのだろうとちょっと読んでみたい気がする。