『吉本隆明全集 11』

曇。
昨晩も吉本さんの全集を読んでから寝た。各巻がどれもぶ厚いので、なかなか読み終わらない。つい寝るのが遅くなってしまう。いま読んでいるのは第11巻(1969-1971)。ちょうど自分が生まれた直後あたりだ。その頃の吉本さんはいまの自分より若いが、既に戦い慣れた一流の思想家である。もちろん自分と比較してどうのなど思わないが、何も道具が揃っていない当時の日本という「悪い場所」で、必要な道具は懸命に自分で作りながら格闘している姿にはあらためて感銘を受けざるを得ない。ホント、フランスの同時代の思想家たちとは状況がちがいすぎるのですよ。比べてみて幼稚だとかバカにするのは勝手だが、絶望的に孤独な状況だったのは明らかである。まあ、吉本贔屓が過ぎますかね。翻っていまを考えてみるに、皆んな舶来品の優秀な道具を使うことには確かに長けているなあと思う。その道具そのものを疑うことはもはやないのであるが。

Wikipedia吉本隆明の項を見る。絶望的な感じ。こういうのがいわば吉本隆明の「公的な」解説・案内なのだな。これを見ると、いまさら吉本さんを読んでいる自分などはバカみたいである。いやまあ、実際バカなんですけれど。それにしても、思想を読む、さらには本を読むとはどういうことなのか。リテラシーっていうけれど、これがリテラシーの帰結なのか。

半覚醒状態で昼寝してすごく気持ちがよかった。不思議な夢を見た。いい夢なのか悪い夢なのか知らないが、いまの自分の精神状態を如実に反映していることはまちがいない。

図書館から借りてきた、『吉本隆明全集 11』読了。

吉本隆明全集〈11〉 1969‐1971

吉本隆明全集〈11〉 1969‐1971

 
夜、仕事。

ブログ「qfwfq の水に流して」の最新エントリで三島由紀夫の『潮騒』について触れてあっておもしろく読んだ。そこで『潮騒』についての三島の発言が引いてある。「あれは読者を騙したんだよ。」自分はそんなことは百も承知で『潮騒』を読んだが、それも「通俗的な」読み方で読んだわけだけれども、それでもとてもおもしろく読めたことを告白しておこう。そもそも浅田彰以降の世代である我々としては、三島由紀夫が「フェイク」であることはどちらかといえば常識の部類に入る*1。しかし「フェイク」であろうが「読者を騙した」のであろうが、著者ですら作品の「客観的価値」をコントロールすることはできないというのも、ポスト構造主義的な(もちろんこれは「冗談」です)「常識」の部類でもあろう。いや、ポスト構造主義的にいえば、そもそも「客観的価値」など存在するのかというのが、なつかしくも愚かしい我々の通俗的メロディなのでもあろうが。いやね、面倒くさいことを書いたけれど、とにかく通俗的にいって古典的な恋愛ドラマとして、『潮騒』は自分には楽しく読めましたよ。A boy meets a girl というのは、通俗的に常に無限に生産し続けられるものなのでしょうし、そういうレヴェルで『潮騒』は傑作といったっていいのでしょう。いやでもね、思うのだが、いまではたぶん『潮騒』はつまんなくて、たとえば「けものフレンズ」の方がおもしろいらしい。あんまりいい比較ではないですけれどね、それは。そもそもいまは、「本物」なのか「フェイク」なのかっていう時代ではない。
 なお、正直に記しておきますけれど、僕はブログ「水に流して」における方向性をまったくミスリードしております。元記事は、偽装された同性愛こそがむしろ問題になっているのですが、自分にはあまり興味のないことなので、勝手なことを書きました。お許しを。蛇足しておけば、三島における同性愛とは、それこそ「フェイク」と絡めて論じられなければならないでしょう。三島にとっては、みずからの天才性を証明するため、いずれにせよみずからを同性愛者と規定することは必須でした。けれども、では実際に三島が真に同性愛者であったかどうかということは、自分にはあまり興味のもてることではないのです。オシマイ。

何か上はあんまり論理的な展開ではないですね。ありゃ。わざわざ書くほどのことでもないし。まあチラシの裏だからいいか。

三島由紀夫かー。そういやこのところ三島に遭遇したというか、犬も歩いていたら棒にあたったな。ひとつは生き延びて老人となった三島を主人公にした、松浦寿輝氏のくだらなくもおもしろい(高級)通俗小説。これは松浦氏にしか書けそうもない、悪趣味で悪くないものだった。それから、今日読んだ吉本隆明全集の、三島が割腹自殺した直後の吉本さんの文章。どうも三島の「事件」のあと、どこで三島は本気だったのかという、いわゆる「フェイク」性が既に大いに問題になっていたらしいが、吉本さんはそういう文章を相手にせずにひたすら個人的なことを書いていた*2。どうも江藤淳あたりはフェイクフェイクとうるさかったみたいだが、小林秀雄もそれには与しなかったと覚えている。まあ、こんなことを書いてもいまや意味はないけれど。

突然書くけれども、いまや気持ちよければ何でもいいのですよ。で、たとえばセックスするよりオナニーしたりネットをだらだら見たりマンガを読んだりアニメを見たりゲームをする方が気持ちよさのコストパフォーマンスはよい。あるいはリスクは低い。それこそがつまりはヲタ文化である。ヲタ文化のメインストリーム化。東浩紀さんは全面的に正しかった。らしいですが、自分は時代遅れでなかなかついていけません。まあ KKNO ですけれどね、自分は。ちゃんちゃん。

マリオ・バルガス=リョサを読んで寝る。

*1:ちなみに浅田は、三島がバタイユより頭がよいことは明らかだとも言っていた筈である。

*2:当の文章を読み返してみるとさほどでもないが、自分にはそういうところ、つまり三島の死を自分の問題として捉える吉本さんが印象に残ったのだろう。