ジョージ・スタイナー『青鬚の城にて』

晴。
ジョージ・スタイナー『青鬚の城にて』(1972年旧版)読了。副題「文化の再定義への覚書」。桂田重利訳。十九世紀の高度なエリート文化の喪失、啓蒙の失敗が、二つの世界大戦による(とりわけ精神的な)荒廃によってもたらされた(いや、逆に二つの大戦をもたらしたのかもしれない)ことを嘆く書。確かに十九世紀から二十世紀前半に西欧でなされた文化的創造はすばらしいものであったが、古典が失墜し、その基盤が失われてしまったことは、嘆いてみてももう仕方がないのではないか。著者の教養が超一級であるだけ、慨嘆も深いのではあるが。新しい時代のために、これからは数学の知識がある程度必要になると著者は見ている。時代を覆う科学の発展は数学化にあるのであって、素人が科学の大体のことを多少なりとも理解する方向に、賭けるべきであろうというのだ。著者が本当に実行しているのかどうかは知らないが、それは正しいと思う。そしてまた、「大衆文化」をどう考えるか。著者は気乗りがしないようだが、どうせそのうち飽きるのだから、飽きるまで浸かったらいいと自分は思うのだ。(飽きない? じゃあ知らん。)
 著者のバックボーンは、十九世紀的な教養だと思う。それはすばらしく豊かなものだ。十九世紀に探りを入れていくには、著者の提供する航海図は大いに役に立ちそうである。

青ひげの城にて―文化の再定義への覚書 (みすずライブラリー)

青ひげの城にて―文化の再定義への覚書 (みすずライブラリー)


Spirituality の訳語として「霊性」という語を使ったのは鈴木大拙が最初らしいが、今の若い日本人にどれだけの spirituality があるのだろうね。精神性が極度に低下している。自分たちの世代の子供たちなのだが、最初は自分らの世代がダメだからそうなったのかとも思ったけれども、そればかりでもないような気がし出した。原因はどうであれ、ネット(とりわけツイッターとか)を見ているだけでもわかるが、ひどいことになっている。自分の近くの人で学校の先生をやっている人が何人かいるが、みんな早く辞めたいとか、せめて担任はもちたくないとか言っている。これがエゴイズムだとはもはや思えなくなった。何だかわからないが、親もひどいが、子供たちもこんなことを言われて困るかも知れないが、本当に今の子供たちはひどい。畜生並みの、言ってもわからないしどうしようもないというレヴェルの奴がいっぱいいる。自分は、この点、日本に何らの明るい将来も期待できないと思う。
 まあとりあえず、頭を冷やして『日本的霊性』を再読でもするか。しかし、ひょっとしたら、数千年続いてきたものの喪失かもしれないとひしひしと思ってしまう。