ドゥルーズ、ガタリ『千のプラトー(上)』

雨。
法事。祖父の二十七回忌。
ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著『千のプラトー』を、文庫本で再読する。とりあえず上巻読了。ほほお、こんなことが書いてあったのか、という感じだ。本書、例えて云えば、現代の西欧人によって書かれた「大乗仏典」とも云えるだろう。認識論からコスモロジー(「カオスモロジー」?)まで、揃っている。知恵の書であり、誤解を恐れずに云えば、解脱の書でもある。重要タームである「器官なき身体CsO)」は、法身だとも云えよう。CsOに「人は到達することがない、到達はもともと不可能であり、ただ、いつまでも接近し続けるだけ、それは一つの極限なのだ」(p.307)。CsOを獲得するというのは、法身の中に住まうことだとも云える。「器官」は島宇宙であり、心的複合体(コンプレックス)であって、モル状の「煩悩」の棲息域であるから、これを破壊して(これは危険な行為でもある。第六章参照)、強度に満ちた、軽やかな分子状の微粒子の運動の場にせねばならないのだ。また、他の重要な概念として、アレンジメント、地層、抽象機械などがあるが、これらもうまくいけば、例えば密教のタームに翻訳してみたいような気もする。記号、シニフィアンなどについては、アレンジメントと共に、「二重分節化」というのが重要だ(ちょっと「種の論理」を思わせる。中沢新一の『フィロソフィア・ヤポニカ』を精読すべきかも知れない)。これを脱領土化の方向にもって開いていかねばならない。
 なんて読みはどうですか。さて、続きを読もう。

千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)


カール・ベームが指揮するモーツァルトの「the wind concertos & serenades(木管楽器の協奏曲とセレナーデ集)」というBOXセットを開封。またBOXですか、と云われるかも知れないが、過去のいいものが安い値段で次々出るので、つい買ってしまうのですよ。まず、シンフォニア・コンチェルタンテK.297bを聴く。あまりの美しさに、全身が蕩けてしまいそう。四人の木管楽器のハーモニーがすばらしい。ところで、この曲は偽作という疑いが強いのだが(Wikipedia)、こんなに美しい曲を、モーツァルト以外の誰が書けたのだろうと、不思議な気がする。
 オーボエ協奏曲も聴く。これもいいね。ベームモーツァルトは定評があるが、それに恥じないよい演奏を聴かせる。モーツァルトベームに合っている。他の曲の演奏も楽しみ。
Wind Concertos & Serenades

Wind Concertos & Serenades


遅くまで数学をやる。午前二時頃、雨沛然。