シュタイナー『人間理解からの教育』/福田和也『二十世紀論』

休日。曇のち雨。
カルコス。古典新訳文庫の丘沢静也訳『ツァラトゥストラ』を立ち読みしてみたら、手塚富雄訳とはあまりにも雰囲気がちがうので、驚いてしまった。手塚訳はいわゆる「格調の高い」翻訳であり、丘沢訳は何と言ったらいいか、やんちゃな訳(?)というか。幼稚っぽい(?)『ツァラトゥストラ』、次回は買ってみるか。
図書館。市民公園に椋鳥がいた。これが近づいても逃げないのだ。

ルドルフ・シュタイナー『人間理解からの教育』読了。いわゆる「シュタイナー教育」のための一冊として訳されたものであろう。一見非・自然科学的な言説が見られるため、そうした部分には直ちに頁を閉じてしまいたくなるかも知れない。例えば相対性理論に情緒的に反駁しているところなどは、呆れてしまっても無理はないかも知れない。シュタイナーの考えからすれば、物理学などは魂によくない学問と思われるのだろうか。いや、彼の考えはたぶんそうではないと思うし、仮に物理を学んで魂が死ぬとすれば、それは物理の学び方が悪いのだと思う。
 著者は、例えば子供の歯が乳歯から永久歯に生え変わる頃、九〜十歳頃を重視している。これも、歯と云うものにどういう意味があるのか自分にはわからないが、何の意味もないとは云えないのかも知れない。本書には教育におけるイメージの重視など、重要だと思われる考えもたくさんあるので、シュタイナーのいわゆる「人智学」は措いても、かかる部分からは学びたいという態度もあり得るだろう。しかし、シュタイナーはそれを禁じる。「人智学」は、魂の科学なのだと。さて、これはどうすべきなのか。シュタイナーを信じておられる方は、彼の言う「神秘的な」言説を実感するのだろうか。それともそこは、盲目的に信じておられるのだろうか。むずかしいところである。

人間理解からの教育 (ちくま学芸文庫)

人間理解からの教育 (ちくま学芸文庫)

福田和也『二十世紀論』読了。二十一世紀を考えるための、コンパクトな二十世紀論とでも纏められるか。著者が血肉にした歴史感覚で貫かれており、非凡である。構成もよく練られており、読んでいて感嘆すること頻りだった。流れを読むべき本だが、個別のことで印象に残ったのは、第二次世界大戦時における日本は、ファシズム国家ではないとか、アメリカのポップ・カルチャーを一筆書きで描いたりしたところか。チャーチルヒトラーを凡人に描いているところなどは、我が意を得た。著者の結論付けるとおり、現代すなわちこのネット時代に、果して「精神」を追い求めることに意味はあるのか。そして、「精神」のない人間とは、一体何であるのか。もちろん「情報が哲学となる」(p.221)現代においては、このような疑義を覚えることですら、嘲笑されるべき態度とされるであろう。いや、こんなことをここに書いて、何の意味があるか。
二十世紀論 (文春新書)

二十世紀論 (文春新書)