高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』

晴。
県営プール。カルコス。
燕が何羽も車庫に入りたがって仕方がない。本当は巣を懸けさせてやりたいのだが、シャッターの袋に巣を拵えるので、そのままにしておくとこちらが巣を潰してしまうことになる。かわいそうだが、シャッターを閉めておくしかない。ウチは元は百姓家だったので、昔は土間の上に巣を懸けさせてやったものだが。だから、昔は燕の出入りのため、夜も戸を開けっ放しにしていたのだった。今ではさすがに無理である。同じような理由で、民家に燕が巣を懸けることは少なくなっているだろう。どうにかならんかね。喉赤の燕のために。

高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』読了。「頭をガンと殴られたような衝撃」という陳腐な表現があるが、まさにそれだった。著者は、「わたしは、最近、一八八〇年代に成立した日本の近代小説は、二十世紀の末、具体的にいうと、一九九〇年代の半ばのあたりで、『OS』を交換したのではないか、というようなことをいいはじめています」と述べているが、これは卓見で、小説の「OS」ばかりか、(同じことかも知れないが)我々の無意識の「OS」まで変ってしまったのではないかと思う。そして、言葉の「敗戦処理」。もう言葉の戦いは敗北をし続け、ついには再起不能になってしまった。既に敗戦処理をやるしか、やることはなくなっている。もはやいま吐き出される言葉の多くは、何をも意味しないところまできている。「文学」も、何をするという目的がなくなってしまい、我々はそれを、ゲームで遊ぶように享受し、直ぐに忘れてしまうだけだ。え、そんなことは当り前? いや、自分ははっきりとは意識していませんでした。アナクロニズム
 結論を云えば、本書は岩波現代文庫ではなく、本来は岩波文庫に入れるべき、歴史的な文芸評論である。さても、自分も著者と同じく、綿矢りさは大変な小説家だと思っているが、何となく『夢を与える』は読んでいなかった。これはいかんな。啄木の『ROMAZI NIKKI』も読まねば。