エロスの解体 / ガストン・バシュラール『水と夢 物質的想像力試論』 / 『ニセコイ』全25巻を読む

深夜目覚める。昨晩は灯りを点けたまま眠ってしまったので、消灯してまたうとうとするも、完全には眠れず。昧爽起床。
曇。外を見ると霧か靄が出ているか。
 
早い朝食のあと二度寝する。深夜目覚めてあと眠れなかったのは、お腹が空いていたせいもあるな。
晴れる。蒸し暑い夏がとうとう始まったか。
 
 
バシュラールの『水と夢』を読む。バシュラールは水と女の深い関係を嬉々として語っているが、このようなナイーブな夢想は早晩フェミニズムによって根底から解体されるにちがいない。例えばバシュラールは「乳」における水のエレメント性を詳しく語っているが、フェミニズムを通過した現代の女性は、「乳房は乳が詰まっているから丸いのだ」というようなバシュラールの想像的な語りを、あるいはキモく感じることであろう。男性における「女なる観念」は、これからいったいどこまで解体され崩壊していくものなのか、わたしにはよくわからない。そう、フェミニズムは男と女の差異を、どこまで破壊するのか。そこに、エロスはどこまで生き残っていけるのだろうか。まあ、そんなことわたしは、あまり興味がないといえばないのだが。それは、これからの世代の課題であって、古くさい時代遅れのわたしなどには、手のつけようもない話である。
 しかし、ふつう女と四大のエレメントの関係でいえば、大地(土)との関係が指摘されるのではないか、とも思う。女における、妊娠と出産の豊饒性は、大地であろう(ギリシャ神話のデメテルなど)。もっとも、大地としての豊饒な女性に対し、処女(とその対極の淫乱)としての(不毛な)女性の面もあり、それが水ということなのかも知れない。いずれにせよ、大地であろうが水であろうが、エロティックな存在としての女性は解体される方向にあり、いや、つまりはエロスが解体されるのである。それは、どこまで突き進んでいくのか。
 どうでもいいが、たぶん女性はこれから、みずからをエロティックな存在と見られること(水)、そして妊娠と出産(大地)を忌避していくようになると、わたしは思う。それがフェミニズムの素直な帰結ではあるまいか、知らんけど。
 

 
昼から県営プール。ここでもまた、蒸し暑い夏が始まったことを感じる。大気の存在がわかるようになってきた。
 
図書館から借りてきた、ガストン・バシュラール『水と夢 物質的想像力試論』(原著1942、邦訳2008)読了。おもしろかったが、バシュラールは(当たり前だが)あまりにも西欧人である。想像力の領域であるから、バシュラールの立論は西欧の想像力にその大部分を負っている。望むべくは、アジアのバシュラール、日本のバシュラールが存在することであろう。なかなかそれは、容易なことでない。
 しかし何にせよ、このような(バシュラール的)知性は非常に魅力的である。日本においては民俗学(柳田、折口他)の成果を中心に、近代では宮沢賢治澁澤龍彦、さらに大きいところでは南方熊楠あたりが豊かな題材となるのではないか(って、テキトーにいってます)。中沢さんなら充分に可能であると思うけれど、そんな仕事はなされないだろう(これまでの仕事に断片的に鏤められている)。後世の博学柔軟な知性に俟ちたいところだ。

本書を読んで、マリー・ボナパルト(1882-1962)が読んでみたくなった。ごく早い時期の女性精神分析学者であり、わたしなどは澁澤龍彦の著作で時々見かけた名前である。いまだ、読んだことがないが、県図書館に二冊あるようだ。
 
夜。
ニセコイ』(2011-2016)全25巻を読み終える。いやー、最悪の結末を迎えた人気ラブコメとして有名(?)な本作だが――そうかあ? 僕は最後、感動して泣きそうになったんですけど。とにかくこの作品は千棘ちゃんエンドになることは最初からわかっているので、両(片)想いのふたりを差し置いて、どうやってそれを納得させるかですよねー。作者はむずかしいハードルを越えたと思うんだが。まあ、小野寺めっちゃ人気あるからな。どう終えても非難は避けられないよね。いや、傑作だと思う。
 アニメを観返していて、原作マンガの方も読もうと思った。なにせ全25巻もある上に、中身も濃いので、一週間くらいはかかったな。まあ、いい歳こいてバカみたいというのは自覚している笑。第18巻で気持ちも伝えないまま二度と一条楽に会えないと思って千棘が泣くシーンは、ほんとにやばかった。