「反出生主義」に対する反論について / 森村進『正義とは何か』

曇。
 
反出生主義という人類滅亡のミーム - シロクマの屑籠
滅びていいならSDGsなんて要らないじゃない - 狐の王国
黄金頭さんの「反出生主義」に対する反論を読んだ。簡単にいうと、反出生主義は亡びの思想である、倫理的に受け入れられない、というものだが、これはまあなんというか、世間的に常識的な、健全な反論であって、反出生主義者にしてみれば、何をいまさらではあるまいか。わたしは反出生主義者ではまったくないが、彼ら彼女らの「気持ち」は、もっと個人的なそれである、といいたい。つまり、生きているのが苦しくてならない、こんなことなら、生まれてくることなど、ない方がよかったのではないか、というものだ。
 そして、わたしにこれは、かなりよくわかるのである。でも、生きるのが苦しい(一切皆苦)なんてのは当たり前で、多くの人はそれでもふつうに(?)生きているし、わたしもそれは同じだ。わたしは、反出生主義は個人的な「感慨」を論理化してしまったもので、そして「生きるのが苦しい」ということがかなり普遍的であるがゆえに、ロジックとして強力になってしまっている、と思っている。反出生主義が思想として、「論破」のためのロジックであるというのは、否めない、あまりにも出発点の素朴な「感慨」から、離れてしまっている。それゆえに、わたしは反出生主義者になれないのである。
 でも、人生楽しいという、成功者に、「反出生主義は亡びの思想である、倫理的に受け入れられない」といわれても、反出生主義者がどうしようもないことは、わかっておくべきだろう。彼ら彼女らには、そんなことはいまさらいわれるまでもないのである。絶望している人間に、お前の絶望はまちがっているといっても、どうしようもないのであるし、それは強者である反‐反出生主義者にとって、必ずしも倫理的な態度ではないであろう。
 
それにしても、その思想の保持者にもある意味で「ネタ」であるような「反出生主義」が、これほどの共感と、またそれを危惧する「強者」のマジレス的反論を引き起こしてしまうほど、猛威を振っているというのは、驚くほどである。生きることのつらさ。
 
これはまたちがう話だが、我々の「生きることのつらさ」は、我々が記号で頭をいっぱいにし、生に無意味な幻影を投影することが、(しっかりした土台を欠いた)ロジカライズとして当然になってしまったことも、関係しているであろう。それを、嫉妬やマウンティングや孤独で幼稚なナルシシズムが、支えている。進歩して誰もが頭のよい時代であるが、感情の幼稚さは昔よりもひどくなっている現代であるように思える。
 

 
雨。スーパー。
 
昼。
雨の中、イオンモール各務原へ。3Fフードコートのミスドで、もっちりフルーツスティック プレーン+ブレンドコーヒー462円。
 岡真理先生の『彼女の「正しい」名前とは何か』の続きにしようか迷ったが、新書本の森村進『正義とは何か』(2024)を読み始める。岡先生を読んでいて、「正義は暴力である」というところに至ったのだが、じゃあ、アカデミズムで正義をどう扱うか、気になることもあって。
 と、自分が気になっていた点は、冒頭の序章にあった。著者はまず「正義」という概念について、「対他性」と「優越性」を指摘する。簡単にいえば、正義とは他人(あるいは共同体)に「〜すべきである」と(言葉による論理で)要請、ないし強要するということだ。こういう考え方はわたしの納得のいくものであり、そこから、無理なくわたしの「正義は暴力である」というテーゼが出てくる。
 しかし、その点はそれ以上詳述されない。読んだのは第六章までで、第一章プラトン、第二章アリストテレス、第三章ホッブズ、第四章ロック、第五章ヒューム、第六章スミスという具合で、各哲学者がそれぞれ何を「正義」と見做すかが記述される。これはこれでおもしろいが、わたしの不勉強と能力不足で、残念ながらむずかしく、しっかりとは理解できなかった。
 わたしの問題意識は、すべての他者に対して尊厳をもって接する、という人文学(ヒューマニティ)の基本が、どうして(社会科学的)「正義」と相性が悪いのか、という点にあるのだが、そこのところは本書のいままで読んだところでは、あまり考えが進まなかった。「正義は暴力である」という発想は、元々そこ(相性の悪さという認識)から来ているし、具体的にはいまのパレスチナ紛争で、「正義」を主張するイスラエルのジェノサイドに対して、我々が無力であることが背景のひとつにある。イスラエル人や我々は、ガザ市民ひとりひとりに対し、尊厳をもって接することができていない。彼ら彼女らは、イスラエル(や国際社会)の「正義」によって、かつてもいまも虫ケラのように殺されていて、我々はそれを止められないでいる。(詳しくは、岡先生の『ガザに地下鉄が走る日』を参照されたい。)
 
森村進『正義とは何か』読了。第七章カント、第八章功利主義、第九章ロールズ。本書の中では第七章カントがいちばんおもしろかった。カントの「正義」論が反論によってボロボロにされているし、その仕方も妥当だと感じるが、ア・プリオリで普遍的な「正義」が存在するというカントのドン・キホーテ的試みがとてもラジカルである。
 いや、本書はわたしにはむずかしかったにせよ、なかなかおもしろかった。で、結局「正義」が何かという説明は、哲学者の数だけあるという、まあ予期されたところに落ち着いたことになる。
 しかし、無知なわたしは、いろいろわかんないことが多いなと思う。例えば「契約主義」。わたしは何か(国家?)と既に「契約」しているのか? いつ、何と、どうやって? 例えば「徳」。(西洋哲学的な意味の)徳ってなんだろう、そのデノテーションがわからない。とかね。バカで不勉強で困るぜ。