こともなし

晴。
 
NML で音楽を聴く。■ジャン=ニコラ・ジョフロワ(1633-1694)の組曲(第1曲~第26曲)で、チェンバロエヴァ・ムロフツァ(NML)。2023.2.272023.3.3 にバッハのフランス組曲を聴いて感心したので、ムロフツァの弾くジャン=ニコラ・ジョフロワのアルバムを(長いので)とりあえず半分、聴いてみた。ムロフツァって、もしかしてすごいチェンバロ奏者なのでは? ジャン=ニコラ・ジョフロワという十七世紀のまったくマイナーな作曲家(わたしは全然知らないし、日本語の Wikipedia にも項目がない)をあざやかによみがえらしめている。あとで後半も聴く。

Geoffroy: Pieces for Harpsicho

Geoffroy: Pieces for Harpsicho

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昼。
■ジャン=ニコラ・ジョフロワの組曲(第27曲~第50曲)で、チェンバロエヴァ・ムロフツァ(NML)。後半。昼食後でのんびり聴きたい感じだったが、それも OK という懐の深い演奏だ。また聴きたいな。バロック音楽の BGM としてもいいだろう。いや、このアルバムを発掘したわたし、ちょっとだけエラくね?笑
 
ウチのラッパズイセン。

 
いい天気。図書館へ行く。赤松良子さんが日経の有名なコラム「私の履歴書」に連載したものをまとめた本が新着にあったので、借りる。赤松さんは元労働官僚で、「男女雇用機会均等法」を作った立役者。こういう人を本当のフェミニストというのだと、濱口先生は仰っていたな。赤松さんの『均等法をつくる』は、2022.6.21 に読んだ。
その他、亀山郁夫さんの新書本『人生百年の教養』、あと小説をいくつか借りて、蓮實重彦サマセット・モームカート・ヴォネガット、J・G・バラードなど。
 
帰りにいとしろ屋へ寄る。いつもの餅信は和菓子屋で、いとしろ屋は餅屋。
帰宅して、いとしろ屋の草餅と、うぐいす餅を食う。昔ながらの素朴な製法で、めっちゃうまい。
 
平野啓一郎さんの『空白を満たしなさい』を読み始める。平野さんというと純文学の書き手というイメージが自分にはあるが、エンタメ並みの筆力だな。『マチネの終わりに』が滅法おもしろかったので本書も読んでみたが、いきなり引き込まれる。まあ、純文学とかエンタメという区別が、崩れてきているのが現代なんだろうな。
 
夜。
ずっとマンガを読む。

「希望=近代化=高度資本主義化」に必ずしもあらず / ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』 / 「子猫をお願い」(2001)を観る

曇。ぶ厚い雲に覆われている。夜のうちにかなり降ったらしい。
 
スーパー。
少し肌寒い。
 
昼飯を食いながら NHK の「キャッチ!世界のトップニュース」の特集を観ていたのだが、鹿児島の中学校でアフリカについて皆んなで勉強していて、「キャッチ!」のキャスターも参加して一種のワークショップを行う様子が放映されていた。アメリカ(合衆国)ならばいくらでも勉強する手段はあるが、アフリカを学ぶのはなかなかむずかしいので、すばらしい試みだと思った。「アフリカは『希望の大陸』といわれているけれど、はたして本当に希望はあるのか」とかいうような課題だったと思うが、ただ、希望があるにせよないにせよ、「希望=近代化=高度資本主義化」とおおよそ思い込まれていそうなところは、ちょっと気になった。確かに近代化は安心安全で健康で、豊かな暮らしをもたらしてくれる。それは、すばらしいことだといっていいだろう。しかしそれは同時に、際限のない、(いまではインターネット化して我々の手に負えないくらい複雑になった)欲望・欲求まみれの生活をもらたすことにもなる。(いまのアフリカの大きな不幸である格差と戦争も、近代ヨーロッパの欲望がもたらしたものだ。)なんていうことは、じつに言い古されていて、いまさらではあるが、事実として、欲望・欲求まみれの生活に最終的に希望がないことは、まったく解決されていない。わたしは、日本人には可能性としては、近代化=高度資本主義化の「罠」から脱する、希望がまだあるのではないかと思っているところがある。将来、高度資本主義化から鬱化したアフリカ人たちが、日本(人)から希望を学べるようなことが万が一にでもあれば、すばらしいことだと思うのだが。
 
 
珈琲工房ひぐち北一色店。今日のコーヒーはタンザニア。いつもながら、鬱気の一時的に霽れる気がする。
ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』を読み始める。フェミニズム批評の濫觴であるが、軽々しく感想を述べようとは思わない。ただ、惹き込まれるのは確か。ヴァージニア・ウルフは、かつて小説(『オーランドー』だったか)を読んで、挫折したように覚えているだけ。たぶん家のどこかに(文庫本)小説がある筈なので、本書を読み終えたら探してみるか。それとも、面倒だから図書館で借りるか。

ウルフは繊細というか、なよっとしているというか、充分「女性的な」感じも受けてしまうのだが、そういうことをいったらジェンダー的偏見だと、フェミニズムにどやしつけられそうだな。
 さて、最近(フェミニズムで)評判が悪い小説家にヘミングウェイがいるが、マッチョだっていわれるんだよね。確かにヘミングウェイは外面的にマッチョにふるまったのだが、一方で病的に繊細でもあり、自殺した作家である。日本では、開高健(は自殺したわけではないが)をちょっと思い出すところがあるな。開高は、ヘミングウェイの短篇はまだ読む価値があるといっていた。わたしも同意見である。日本でヘミングウェイをけなした作家に村上春樹がいて、彼はよく知られているようにフィッツジェラルドを推すわけであるが、わたしは文学がよくわからないので、フィッツジェラルドのよさがあまりわからない。かつて学生のとき、東京・早稲田の古書店街の一店で購入して読んだもの。高見浩訳。
 
図書館から借りてきた、ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』読了。
 

 
夜。
備忘録。大江健三郎死去。享年八十八。
さすがに大江はこれからも読み継がれることを確信している。典型的な、「不愉快なこと」を書いて読ませる大作家だった。武満さんや、山口昌男との交流が思い出される。架蔵していてまだ読んでいない文庫本がだいぶあるので、いつかは読みたいな。少し前に岩波文庫で出た、ぶ厚い自選短篇集は、読み応えがあったっけ。
 
 
U-NEXT で「子猫をお願い」(2001)を観る。監督はチョン・ジェウン。わたしは小説を読むのでもそうだが、ほんとにナイーブに観てしまった。最初から最後まで悲しくて仕方がなかった。高校の素朴な仲良し女子五人組が社会に出て、それぞれバラバラになっていくという話だが、皆んなうまくいかない。その間、冒頭で拾われた子猫は次々に女の子たちの中でたらい回しになっていき、ままならなさだけが残る。ラストは少しだけポジティブな終わりではあったが。韓国映画は初めて観た。外国を訪れたことのないわたしは、隣国の日常的風景を詳しく観たのも初めてで、なんかドキドキした。チョン・ジェウン監督のことは、ネットのどこかで知ったのだが、さてどこだったろう。もはや20年以上前の映画、ということになるのだな。

岡潔+森本弘(中沢新一編)『岡潔の教育論』 / 「Charlotte」(2015)を観る

日曜日。曇。
朝目覚めると、ものすごく遠くまで行っている。帰ってくるのがたいへん。
 
NML で音楽を聴く。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第八番 op.110 で、演奏はドビュッシー四重奏団(NML)。人間は限りなく愚かであり、救いなどは一切ない、ということを思わせるような。ただ苦しんでむなしく消え去っていくのみ。

ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第十一番 op.122 で、演奏はドビュッシー四重奏団(NML)。
 
昼食をとってからごろごろする。
 
岡潔+森本弘(中沢新一編)『岡潔の教育論』読了。岡潔の文章だけでなく、和歌山の校長先生だった森本弘(1911-1988)さんの「岡潔読解」もすばらしかったし、また唐澤太輔さんの「解説」が、これまた独創的な論述になっていて、中身の濃い本だった。未熟なわたしなどがふらふら遊弋しているたんなる「無分別知の実践」ということも、さらに一歩も二歩も歩みを進めないわけにはいかない。わたしにあとどれくらい時間が残されているか知らないが、前途は遼遠、尽きることがない。唐澤さんの「微笑」に着目した「解説」論考、独創的だな。アルカイック・スマイル、ジャパニーズ・スマイル
 
■鈴木輝昭(1958-)の「交響的変容」で、演奏はレイフ・セーゲルスタム、スウェーデン放送交響楽団NML)。
鈴木輝昭の音楽 -管弦楽・室内楽作品集-

鈴木輝昭の音楽 -管弦楽・室内楽作品集-

  • アーティスト:V.A.
  • 日本アコースティックレコーズ
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■鈴木輝昭のヴァイオリン協奏曲で、ヴァイオリンは数住岸子、指揮は尾高忠明東京フィルハーモニー交響楽団NML)。■鈴木輝昭の「プレアデス・エミッション」で、演奏はケフェウス五重奏団(NML)。鈴木輝昭って全然知らないんだけれど、明らかに才能だな。鮮烈な響き。しかし、もったいなくも腹立たしいことに、NML の編集がめちゃくちゃ。
 
夜。
Charlotte」(2015)第13話(最終話)まで観る。友利奈緒のセリフじゃないけれど、最後、そうきましたか。確かに「Angel Beats!」と似て、ハッピーエンドでもないし、バッドエンドでもないな。ヒーローからほど遠い男が、奈緒に作ってもらった単語帳をお守りに(泣かされたんですけれど)、がんばっちゃうんだ。OP、EDの音楽もよかった。OP曲の歌詞が意味深でどういうことなんだろうと思っていたけれど、最後まで観るとわかるのね。

林哲夫『喫茶店の時代』

晴。霞がかったような、鈍い空の色。
 
NML で音楽を聴く。■ドビュッシー交響詩「海」で、指揮はシャルル・デュトワモントリオール交響楽団NML)。うーん、すばらしい。デュトワを聴いていると、深さと軽さが両立しているところに驚かされる。つまりは、実力者ということだ。さすがは、アルゲリッチのかつての夫(なんていって褒めて、いいのかな)。随分と深いところまで到達しているのに、ちっとも重くならない。(これは、あなどられがちということにもなるかも知れない。)それに、モントリオール交響楽団なんでいう、あまりパッとしなさそうなオケ(ゴメンナサイ、でも、弦とか肌理がちょっと荒いよね)を、じつに上手くコントロールして、色彩感豊かなドビュッシーを作り上げている。1989年の録音。

 
 
昼飯を食いながら、BS1スペシャル「密着 自衛隊ミサイル防衛のリアル”」(再放送)の後半を観ていて、興味深かった。ウクライナ戦争や現実味を帯びた中国の「台湾侵攻」によって、日本は軍事力の大幅な増強の方向へ向かっているが、現実を見ると、そうしても、敵のすべての攻撃を無効化することはとても不可能だということ。つまり、国土の被害や(民間人の)負傷・死亡は避けられない。また、軍事力を増強すればお互いに増強の「いたちごっこ」になり、戦争による被害の絶対量は増加せざるを得ないということ。そして、日本の政治は、戦略的外交や情報戦や国際的なプロパガンダ戦という点で、決定的に立ち遅れているということ(それこそが、日本の政治家の「平和ボケ」である)。
 とにかく、ある程度の軍事力は必要であるが、戦争がいったん起きてしまえば、たくさんの物的な被害が出、たくさんの人々が怪我をしたり死んだりすることは避けられない、というのが(ウクライナ戦争を見てもわかる)現実だ。つまり、戦争はいったん起きてしまえば「おしまい」なのである。そして日本が対抗しようとしている中国による「台湾侵攻」は、起きる可能性が高いとされるけれども、その(中国の)意志は合理的だとはとても思われない(ことを、中国はきわめて合理的に遂行しようとしている)。そんな相手に対し、(ある程度を超えた)「抑止力」「対抗戦力」という力による合理的方法で、日本が立ち向かうことは、果たして「合理的」なのであろうか。
 …しかし、である。「だってしようがないじゃないか」ということで日本の軍事力は大幅に増強され、中国は台湾に侵攻し、アメリカと強力に連携している日本は(たぶん沖縄諸島が)中国軍によって攻撃され、自衛隊は中国軍と交戦し、自衛隊員と民間人が多数死亡する、おそらくはそういう未来がやってきてしまうと、わたしには何となく思える。
 

 
モーツァルト弦楽四重奏曲第十一番 K.171、第十二番 K.172、第十三番 K.173 で、演奏はズスケ・クァルテット(NMLCD)。第十三番、モーツァルトは気合を入れて書いたな。終楽章はフーガか。
 
ここ数日で一気にいろいろ咲き出した。

ハナニラ

レンギョウ(連翹)。

オトメツバキはそろそろおしまい。


満開の紅梅。老父がコツをつかんで上手に剪定したので、これまでになく見事に咲いた。あたりに梅の香がただよう。

ボケ(木瓜)。

白い椿。
これ以外にもムスカリシバザクラ、ラッパズイセン、ヒヤシンス、木蓮、その他、花をつけたものはまだまだある。
 
 
林哲夫『喫茶店の時代』読了。副題「あのとき こんな店があった」。著者はやんわり否定しているが、やはり文化史の本だろう。ただし、学術的な考察、網羅的なものではない。(日本の)喫茶店に関する、博物誌とでもいうか。出てくるのはほとんどが東京、あとは京都に大阪に神戸といったところか。巻末に索引あり。わたしが喫茶店を語るならば、何か。学生時代に常連だった、京都松ヶ崎の「インペリアル」か。ここはあれから四半世紀たって、まだ健在らしい。マスター、お元気なのだな。いまはない下宿(いわゆる学生マンションだった)の隣だった。
岐阜は、喫茶店の「モーニング・サービス」で有名である。岐阜市は使う喫茶代(市民ひとりあたりの換算か)で日本一だそうだ。少し小洒落た店だと、世間話をするおばさんたち、また老人たちでいっぱいである。
 
夜。
Charlotte」第9話まで観る。第6話から急展開。そこまでは平凡な話だったのだが。

開と閉

薄曇。
 
スーパー。
 
昼。
開かれと循環した(ループした)閉ざされを、同時に実現すること。
 
岡潔+森本弘(中沢新一編)『岡潔の教育論』を読み始める。

 
夜。
NML で音楽を聴く。■ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番 op.18 で、ピアノはタマーシュ・ヴァーシャリ、指揮はユーリ・アーロノヴィチ、ロンドン交響楽団NMLCD)。有名な演奏であるが(三年前に発見した)、わたしはヴァーシャリもアーロノヴィチもよく知らない。しかしここではピアノも伴奏も最高の出来で感動的だ。一世一代の名演といっていいのではないか。1975年の録音。■ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番 op.30 で、ピアノはウラディーミル・アシュケナージ、指揮はベルナルト・ハイティンクロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団NML)。ピアノのアシュケナージも伴奏のハイティンクも、この曲を表現し切った、迫力のあるすばらしい演奏だった。アシュケナージはプレヴィンともこの曲を録音しているが、ハイティンクとのこちらの方がよいと思う。この演奏に至りつくまでいろいろ試し聴きしてみたのだが、ラン・ランもユジャ・ワンも迫力が乏しくてつまらない、アルゲリッチ+シャイーはいいのだろうが、オケと重なる部分は音が団子になってピアノが聴こえない(この曲ではありがち)など、なかなかむずかしかった。この録音はピアノとオケがきれいに分離して、ピアノがよく聴こえるのもよい。ホロヴィッツRCA盤は、NML にないのだな。この曲、終楽章はちょっと冗長じゃないかな。後半三分の一はもっと切り詰めてもよかったような気がする。
 
また夜遅くまで『僕らはみんな河合荘』を読む。好きだねえ、オレも。

こともなし

薄曇。
目覚めて到達したところにひどくがっかりするが、そういうものだと受け入れていつものルーチンに入る。心のオートマティズムにまかせているだけでは、とんでもないところに行き着いてしまうだけなのだな。
 
ビワの木のごそごその中で、メジロがよく鳴いている。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十八番 K.464 で、演奏はズスケ・クァルテット(NML)。
 
昼。
ハイドンのピアノ・ソナタ第五十三番 Hob.XVI:34 で、ピアノはヴィルヘルム・バックハウスNML)。感動する。まさに巨人、バックハウスだな。また、ハイドンがこんなに巨きいとは。あらためて驚かされる。

モーツァルト弦楽四重奏曲第八番 K.168、第九番 K.169、第十番 K.170 で、演奏はズスケ・クァルテット(NML)。
String Quartets 8-23

String Quartets 8-23

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花粉が飛散する中、80分散歩。カーディガンを着ていったら、薄曇りなのに暑いくらいだった。

カルガモ(お尻)。

スズメたち。

椿。


ムクドリ


ホトケノザ(仏の座)。




モズ。

オオイヌノフグリ

キセキレイ
鳥はちょっとボケていますね。
 
『喫茶店の時代』の続きを読む。

こともなし

薄曇。
 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第十五番 op.132 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NML)。

■バッハの「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」第二巻〜BWV Anh.114, 115, 116, 123, 122, 126 で、ピアノはカール・ゼーマンNMLCD)。■バッハの「ただ愛する神の摂理にまかす者」BWV691 で、ピアノはカール・ゼーマンNMLCD)。これ、初めて聴くと思うけれど、いい曲だな。■バッハのパルティータ第一番 BWV825 で、ピアノはカール・ゼーマンNMLCD)。
 
昼。ウチの紅梅。

■バッハのトッカータ ニ長調 BWV912 で、ピアノはカール・ゼーマンNMLCD)。
 
外気20℃。上着はいらない。
米屋。「8」の付く日は米の日。
餃子の王将。肉屋。
 
林哲夫『喫茶店の時代』を読み始める。
 
夜。
中沢さんを読む。