「希望=近代化=高度資本主義化」に必ずしもあらず / ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』 / 「子猫をお願い」(2001)を観る

曇。ぶ厚い雲に覆われている。夜のうちにかなり降ったらしい。
 
スーパー。
少し肌寒い。
 
昼飯を食いながら NHK の「キャッチ!世界のトップニュース」の特集を観ていたのだが、鹿児島の中学校でアフリカについて皆んなで勉強していて、「キャッチ!」のキャスターも参加して一種のワークショップを行う様子が放映されていた。アメリカ(合衆国)ならばいくらでも勉強する手段はあるが、アフリカを学ぶのはなかなかむずかしいので、すばらしい試みだと思った。「アフリカは『希望の大陸』といわれているけれど、はたして本当に希望はあるのか」とかいうような課題だったと思うが、ただ、希望があるにせよないにせよ、「希望=近代化=高度資本主義化」とおおよそ思い込まれていそうなところは、ちょっと気になった。確かに近代化は安心安全で健康で、豊かな暮らしをもたらしてくれる。それは、すばらしいことだといっていいだろう。しかしそれは同時に、際限のない、(いまではインターネット化して我々の手に負えないくらい複雑になった)欲望・欲求まみれの生活をもらたすことにもなる。(いまのアフリカの大きな不幸である格差と戦争も、近代ヨーロッパの欲望がもたらしたものだ。)なんていうことは、じつに言い古されていて、いまさらではあるが、事実として、欲望・欲求まみれの生活に最終的に希望がないことは、まったく解決されていない。わたしは、日本人には可能性としては、近代化=高度資本主義化の「罠」から脱する、希望がまだあるのではないかと思っているところがある。将来、高度資本主義化から鬱化したアフリカ人たちが、日本(人)から希望を学べるようなことが万が一にでもあれば、すばらしいことだと思うのだが。
 
 
珈琲工房ひぐち北一色店。今日のコーヒーはタンザニア。いつもながら、鬱気の一時的に霽れる気がする。
ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』を読み始める。フェミニズム批評の濫觴であるが、軽々しく感想を述べようとは思わない。ただ、惹き込まれるのは確か。ヴァージニア・ウルフは、かつて小説(『オーランドー』だったか)を読んで、挫折したように覚えているだけ。たぶん家のどこかに(文庫本)小説がある筈なので、本書を読み終えたら探してみるか。それとも、面倒だから図書館で借りるか。

ウルフは繊細というか、なよっとしているというか、充分「女性的な」感じも受けてしまうのだが、そういうことをいったらジェンダー的偏見だと、フェミニズムにどやしつけられそうだな。
 さて、最近(フェミニズムで)評判が悪い小説家にヘミングウェイがいるが、マッチョだっていわれるんだよね。確かにヘミングウェイは外面的にマッチョにふるまったのだが、一方で病的に繊細でもあり、自殺した作家である。日本では、開高健(は自殺したわけではないが)をちょっと思い出すところがあるな。開高は、ヘミングウェイの短篇はまだ読む価値があるといっていた。わたしも同意見である。日本でヘミングウェイをけなした作家に村上春樹がいて、彼はよく知られているようにフィッツジェラルドを推すわけであるが、わたしは文学がよくわからないので、フィッツジェラルドのよさがあまりわからない。かつて学生のとき、東京・早稲田の古書店街の一店で購入して読んだもの。高見浩訳。
 
図書館から借りてきた、ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』読了。
 

 
夜。
備忘録。大江健三郎死去。享年八十八。
さすがに大江はこれからも読み継がれることを確信している。典型的な、「不愉快なこと」を書いて読ませる大作家だった。武満さんや、山口昌男との交流が思い出される。架蔵していてまだ読んでいない文庫本がだいぶあるので、いつかは読みたいな。少し前に岩波文庫で出た、ぶ厚い自選短篇集は、読み応えがあったっけ。
 
 
U-NEXT で「子猫をお願い」(2001)を観る。監督はチョン・ジェウン。わたしは小説を読むのでもそうだが、ほんとにナイーブに観てしまった。最初から最後まで悲しくて仕方がなかった。高校の素朴な仲良し女子五人組が社会に出て、それぞれバラバラになっていくという話だが、皆んなうまくいかない。その間、冒頭で拾われた子猫は次々に女の子たちの中でたらい回しになっていき、ままならなさだけが残る。ラストは少しだけポジティブな終わりではあったが。韓国映画は初めて観た。外国を訪れたことのないわたしは、隣国の日常的風景を詳しく観たのも初めてで、なんかドキドキした。チョン・ジェウン監督のことは、ネットのどこかで知ったのだが、さてどこだったろう。もはや20年以上前の映画、ということになるのだな。