林哲夫『喫茶店の時代』

晴。霞がかったような、鈍い空の色。
 
NML で音楽を聴く。■ドビュッシー交響詩「海」で、指揮はシャルル・デュトワモントリオール交響楽団NML)。うーん、すばらしい。デュトワを聴いていると、深さと軽さが両立しているところに驚かされる。つまりは、実力者ということだ。さすがは、アルゲリッチのかつての夫(なんていって褒めて、いいのかな)。随分と深いところまで到達しているのに、ちっとも重くならない。(これは、あなどられがちということにもなるかも知れない。)それに、モントリオール交響楽団なんでいう、あまりパッとしなさそうなオケ(ゴメンナサイ、でも、弦とか肌理がちょっと荒いよね)を、じつに上手くコントロールして、色彩感豊かなドビュッシーを作り上げている。1989年の録音。

 
 
昼飯を食いながら、BS1スペシャル「密着 自衛隊ミサイル防衛のリアル”」(再放送)の後半を観ていて、興味深かった。ウクライナ戦争や現実味を帯びた中国の「台湾侵攻」によって、日本は軍事力の大幅な増強の方向へ向かっているが、現実を見ると、そうしても、敵のすべての攻撃を無効化することはとても不可能だということ。つまり、国土の被害や(民間人の)負傷・死亡は避けられない。また、軍事力を増強すればお互いに増強の「いたちごっこ」になり、戦争による被害の絶対量は増加せざるを得ないということ。そして、日本の政治は、戦略的外交や情報戦や国際的なプロパガンダ戦という点で、決定的に立ち遅れているということ(それこそが、日本の政治家の「平和ボケ」である)。
 とにかく、ある程度の軍事力は必要であるが、戦争がいったん起きてしまえば、たくさんの物的な被害が出、たくさんの人々が怪我をしたり死んだりすることは避けられない、というのが(ウクライナ戦争を見てもわかる)現実だ。つまり、戦争はいったん起きてしまえば「おしまい」なのである。そして日本が対抗しようとしている中国による「台湾侵攻」は、起きる可能性が高いとされるけれども、その(中国の)意志は合理的だとはとても思われない(ことを、中国はきわめて合理的に遂行しようとしている)。そんな相手に対し、(ある程度を超えた)「抑止力」「対抗戦力」という力による合理的方法で、日本が立ち向かうことは、果たして「合理的」なのであろうか。
 …しかし、である。「だってしようがないじゃないか」ということで日本の軍事力は大幅に増強され、中国は台湾に侵攻し、アメリカと強力に連携している日本は(たぶん沖縄諸島が)中国軍によって攻撃され、自衛隊は中国軍と交戦し、自衛隊員と民間人が多数死亡する、おそらくはそういう未来がやってきてしまうと、わたしには何となく思える。
 

 
モーツァルト弦楽四重奏曲第十一番 K.171、第十二番 K.172、第十三番 K.173 で、演奏はズスケ・クァルテット(NMLCD)。第十三番、モーツァルトは気合を入れて書いたな。終楽章はフーガか。
 
ここ数日で一気にいろいろ咲き出した。

ハナニラ

レンギョウ(連翹)。

オトメツバキはそろそろおしまい。


満開の紅梅。老父がコツをつかんで上手に剪定したので、これまでになく見事に咲いた。あたりに梅の香がただよう。

ボケ(木瓜)。

白い椿。
これ以外にもムスカリシバザクラ、ラッパズイセン、ヒヤシンス、木蓮、その他、花をつけたものはまだまだある。
 
 
林哲夫『喫茶店の時代』読了。副題「あのとき こんな店があった」。著者はやんわり否定しているが、やはり文化史の本だろう。ただし、学術的な考察、網羅的なものではない。(日本の)喫茶店に関する、博物誌とでもいうか。出てくるのはほとんどが東京、あとは京都に大阪に神戸といったところか。巻末に索引あり。わたしが喫茶店を語るならば、何か。学生時代に常連だった、京都松ヶ崎の「インペリアル」か。ここはあれから四半世紀たって、まだ健在らしい。マスター、お元気なのだな。いまはない下宿(いわゆる学生マンションだった)の隣だった。
岐阜は、喫茶店の「モーニング・サービス」で有名である。岐阜市は使う喫茶代(市民ひとりあたりの換算か)で日本一だそうだ。少し小洒落た店だと、世間話をするおばさんたち、また老人たちでいっぱいである。
 
夜。
Charlotte」第9話まで観る。第6話から急展開。そこまでは平凡な話だったのだが。