吉増剛造『詩とは何か』 / 辻征夫『俳諧辻詩集』

晴。

木蓮の落ち葉を片付ける。近所に飛んでいくと迷惑になるので。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第十六番 K.451 で、ピアノと指揮はダニエル・バレンボイム、イギリス室内管弦楽団NMLCD)。■バッハのフランス組曲第五番 BWV816 で、ピアノはアンドレイ・ガヴリーロフNMLCD)。■プーランククラリネットソナタで、クラリネットアンドレアス・ヘルマンスキ、ピアノはヴァレル・バーノン(NML)。

Neoteric

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ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー418円。
ひさしぶりに各務原イオンモールのフードコートで読書した。吉増剛造の『詩とは何か』を読み始める。フードコートでの会話、雑音や下らない背景音楽の中で、吉増剛造の古代的な感性を読むのは何かおもしろい。おもしろすぎて、200ページ以上読んでしまった、一冊の三分の二くらい。詩の「一般論」じゃなくて、あくまでも吉増にとっての「詩」であり、それゆえに語られているのは吉増その人の特色そのままなのだなと思った。吉増は戦後詩の部類に入れていいのだろう、昭和の戦争によって作られた精神だということをみずから何度も強調しており、戦前の精神としての小林秀雄は心に全然響いてこないという一方で、吉本さんには頻繁に言及するところなど、興味深かった。昭和の戦争によって一切が解体されたところに生まれたのが戦後的精神であろうが、吉増の根源性も、そこにあるのだろう。もっとも、わたしは詩がわからないので、自分勝手に読んでいるだけであり、戦後詩が何故か好きなのである。いや、「何故か」ってことはないよね。やはり、解体によって開かれた根源性が気になるという、そこなんだろうな。言葉が氾濫しすぎ、意味というものがホワイトノイズ化した現代において(シニフィエの崩壊)、言葉の物質性、衝迫力を取り戻したいのはわたしだけではあるまい。 
吉増剛造『詩とは何か』読了。

老母が20代の時に買って揃えた、筑摩書房現代文学大系」。その「67 現代詩集」(昭和44年第3刷)の中から、田村隆一鮎川信夫を読む。鮎川の詩を読むのは初めて。

 
夜。
老母がアマゾンで1円+送料で入手した辻征夫『俳諧辻詩集』が廻ってきたので、読了。俳句+それを展開した詩という体裁でやっている詩集。詩の方は、上手いし軽いし、ユーモアという下らんものもあってなかなか悪くはないが、それでも修練と作り物感があってわたしにはそれほどおもしろくない。(しかし、辻征夫に向かってわたしは何様なんだろうね。)でも、俳句はいいな。俳句の世界は、まだ可能性が残っているのを感じる。って、俳句もわからんわたしが何様か。駝鳥来て春の団子をひとつ食う(p.26)頭から齧らるる鮎夏は来ぬ(p.40)噛めば苦そうな不味そうな蛍かな(p.46)蟷螂(とうろう)の肩肘はってとおりけり(p.71)蟋蟀(こおろぎ)の玉葱といて物言わず(p.72)。たまたまどれも生き物が入っているけれど。 
多田智満子を読む。この人、古代を語っていても意外と近代人のような感じがする。ある種の少女マンガの世界。

こともなし

晴。

スーパー。

お昼は釜揚げうどん。食器を洗う水が冷たくなってきた。

県営プール。11/13以来か。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第十九番 K.459 で、ピアノと指揮はダニエル・バレンボイム、イギリス室内管弦楽団NML)。若い頃のバレンボイムはすばらしい。何ともいえない清新さがあるな。

このCD全集をどれくらい聴いたことか。■ブラームスのホルン三重奏曲 op.40 で、ホルンはアラン・シヴィル、ヴァイオリンはユーディ・メニューイン、ピアノはヘプツィバ・メニューインNML)。悪くない。■バッハのブランデンブルク協奏曲第五番 BWV1050 で、指揮はジョルディ・サヴァールル・コンセール・デ・ナシオン(NMLCD)。

夜。
宇宙よりも遠い場所』第2話まで観る。

iOS で Ruby プログラミング

晴。

昼から珈琲工房ひぐち北一色店。ブレイディみかこさんの『ヨーロッパ・コーリング・リターンズ』を読み始める。

iPad miniRuby プログラミングができる「Rubyist」というアプリを見つけてインストールしてしまい、ずっと弄っていた。正確には mruby だけれどね。少しだけシステム・プログラミングもできるらしく、ショートカットの作り方も含めて延々と試行錯誤する。日付が替わってもまだやっていた笑。

モダンと知性による操作 / コンラッド『ロード・ジム』 / ねじめ正一『荒地の恋』

曇。

ポストモダン」というのは、モダンの枠の外へ出られないということである。モダンというのは、知性によって操作(マニピュレイト)可能ということだ。中沢さんは、ピカソの絵を例に挙げていたな。いまやモダンの枠の内部は、凡庸化・断片化され尽くした。身体や情動も知的にマニピュレイトされている。実際は、もちろんモダンの枠の外は存在するのであるが、知性による操作に「汚染」された精神には、モダンの枠の外(そこにこそ無限がある)に根ざす精神がただ(逆に)凡庸にしか見えず、必然的にそれを無視してしまう。正直いって、そこをどうしていったらよいのか、わたしには(ここに至ってすら)よくわからないのである。

何やら、朝からむずかしいことを考えて疲れたぜ笑。しかしモダンの最後のヒーローだった浅田さんや柄谷行人蓮實重彦といった人たちがいま時代を捕まえられなくなっているのを見ると、現在がじつはポストモダンに他ならないことが嫌でも痛感される。さてこれから、知的な操作が世界を極限まで単色化・断片化していくのか、それとも新たな土台を作り上げることができるのか、現実の潮流は厳しい方向に向かっているところだ。たぶん、エンタメ的な凡庸化と脳内快楽物質の扱いの洗練が進むばかりであろう。結局、すべてを解体して残ったもので新たな土台を作る他ないのであり、いうところのコモン(共有地)の再構築とかもそうした角度で理解せねばならないと思っている。

まあ、わたしは田舎にいるのを忘れないようにしよう。それは、利点でないこともない。わたしの周囲は、まだ辛うじて人工化され切ってはいないのだから。


吉本さん、中沢さん、細野さんらの表現は、解体され切ったあとのそれだから、得るところばかりだし、我々に勇気を与えるのだ。しかしその後の世代にそれがないのは、恐ろしいことである。って、人ごとのようにいっている場合じゃないんだが。自分のレヴェルの何とも低いことよ。

ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー396円。『瀧口修造コレクション4』の続き。一時間ほど瀧口を読んで、30分かけて帰る時間が充溢している。今日は曇りで時雨れており、ヘッドライトを点けるほど暗い。何も考えず、ただ時折(ジブンハシノワカラナイニンゲンダナ)とか(ワタシハイマメカラセカイヲナガメテイルノデハナク、コレガセカイソノモノナノダ)というがごとき想念がちらりと頭を掠めたりする。瀧口への無理解とともに、共振、交感。自分の中に、何かそれを許すものがあるのだろう。


写真再掲。2021.5.23.


コンラッド『ロード・ジム』読了。柴田元幸訳。長いこと中断していて、やっと読み終えた。

 
夜、雨。
ねじめ正一荒地の恋』読了。傑作。前半は田村隆一の妻・明子が妻子ある真面目な北村太郎を寝取る話で、後半は北村太郎が阿子という若い恋人を得、ゆっくりと死へ向かっていく話となる。主人公は北村太郎といっていいだろう。田村隆一北村太郎に注釈は要るだろうか。共に『荒地』の詩人で、田村隆一は「カッコいい、女にモテる酒飲み詩人」の代名詞である、さみしがり屋の天才詩人であり、北村太郎はサラリーマンをしながら詩を書く詩人。そして二人は十代の頃からの盟友であった。
 ねじめ正一の文章はここでは古典的なまでに端正なリアリズムで、登場人物たちが仮に架空であっても惹き込まれるであろう魅力をもっている。また、作中に挿入される田村や北村の詩がすばらしい。後半は濃厚な死の雰囲気が漂っていて、淡々と話が進んでいくところが哀愁に満ちている。わたしは北村太郎の詩はまったく読んだことがないが、こんな小説を読まされると気にならないではいられない。しかし、田村隆一すら現在では本屋で手に入れることがむずかしいというのは、どういうものだろう。何故、岩波文庫田村隆一詩集が入らないんだろうね。世の中まちがっていますけれど。

こともなし

晴。
少し寝坊する。

ごろごろ。

昼からスーパー。

NML で音楽を聴く。■ジリアン・ホワイトヘッド(1941-)の無伴奏オーボエのための三つのインプロヴィゼーションで、オーボエはヴィレム・ヴェヴェルカ(NML)。

ホワイトヘッドの「クラウズ・オーバー・マタ・アウ」で、演奏はシュターミッツ四重奏団(NML)。■ベートーヴェン交響曲第三番 op.55 「英雄」で、指揮はアンドルー・マンゼ、ヘルシンボリ交響楽団NML)。この指揮者、好きだなあ。

ハイドンのピアノ・ソナタ第三十八番 Hob.XVI:23 で、ピアノはツィモン・バルト(NMLCD)。よい。■バッハのブランデンブルク協奏曲第四番 BWV1049 で、指揮はジョルディ・サヴァールル・コンセール・デ・ナシオン(NMLCD)。


夜。
細野晴臣の『MEDICINE COMPILATION from the Quiet Lodge』(1993)を聴く。

わたしは基本的に何でも十年(あるいは百年)遅れなのだが、これはめずらしく同時代的に聴いていた。細野さんのアルバムの中でも、もっともよく聴いたそれのひとつだろう。「Medicine Compilation」というのは、「薬」になる音楽を集めたもの、という意味。いま聴いても突き抜けていて、20代のわたしは意外とセンスがよかったのだなとわかる。細野さんは多くの若い人たちがリスペクトするけれども、彼ら彼女らは細野さんの「アンビエント」をどう聴くのだろうな。さて、そのうち『NAGA』(1995)も聴こう。

苧ヶ瀬池へ

日曜日。晴。

NML で音楽を聴く。■ブラームス交響曲第四番 op.98 で、指揮はクリストフ・エッシェンバッハベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団NMLCD)。すばらしい。

いい天気で風もないので、昼から苧ヶ瀬(おがせ)池へ行ってみた。ウチから車で20分くらい。池の周囲をぐるりと散歩する。




















一周1350mだそうだから、ふつうに歩けば20分くらいだろうか。わたしは写真を撮りながらゆっくりと巡ったので、30分ほどかかった。日曜日だけど、池の廻りを歩いている人はあまりいなかったので、気軽に歩けた。
苧ヶ瀬池は古くからある池で、様々な伝説がある。

荒地の恋』を読み始めた。こりゃあおもしろい。ぐいぐい惹き込まれる。全部実名で書かれているが、これほんとの話?と思ってしまう。こいつら、ヤルぜ、って感じ。ねじめ正一はあのねっとりじっとりイヤラシエロい詩にぶっとんだことがあるが、端正な実話小説もめっちゃおもろいやんけ。

 
夜。
会長はメイド様!』第26話(最終話)まで観る。少女マンガ原作で、かつての女の子の夢がいっぱいに詰まったアニメ(2010年)。何でも男の子よりできる強くて頑張り屋の女の子に、王子様があらわれてしまうのだから。いまなら、フェミニズム的に厳しく批判されてしまうのかも知れない。このような神話は、もはや多くの女性に受け入れられないだろう。もちろん、こんな王子様は現実には存在しないしね。だから、夢なのである。僕? すごくおもしろかったです。原作はまだ続きがあるようだから、読んでみたい気がするけれど、たぶん読まないのだろうなあ。

伯母の四十九日

晴。好天。

名古屋の伯母の四十九日(と、伯父の十三回忌)。
その後皆んなで会食。従兄たちとゆっくり話すのも、これが最後かも知れない。

夜七時前に帰宅。運転しながら家族でしゃべっていたが、つくづく諸行無常であると思う。一生はあっという間だ。

以下は今日の会食で聞いた話。わたしは特にどうという気もしなかったのだが、ブログに書けという声があったので。

従兄のひとりは長年日本のさる一流企業で働き、いまは定年退職して(定年が随分と早い会社なのである)悠々自適の暮らしをしている。キャリアの中頃から中国勤務で、そこで相当に上の方の役職であったとだけいっておこう。その従兄から聞いたのが、いま話題の、日本がいかに「安い」か、つまり、日本の企業の給料がいかに世界的に見て相対的に低くなってしまったか、という話である。簡単に書いておくと、中国のふつう(とは何かわたしは知らない)のサラリーマンの年収は、日本の課長クラスより低いあたりですら1000万円以上。北京あたりの大都市になると、ふつう(というのはどういうレヴェルなのか知らない)の会社員で資産が三億円くらい、家を二軒持ち、そのうちの一軒は賃貸物件として貸し、車は会社から一台支給され、実際に乗っているのはベンツ、BMW、レクサスというあたりになる、と。従兄は海外勤務手当が出ていたので、中国人サラリーマン(のどの層かは知らない)となんとか同等の給料だったそうだが、そうでなければ到底かなわないと、それが自然な受け取り方であるようだった。とにかく、ふつうの会社員が(日本人の感覚だと)金持ちだと。

さて、わたしのような者はこういう話をどう捉えてよいかわからないが、まあいまの日本が「安い」というのを、身近なレヴェルで実感したというのは貴重な知見というべきかも知れない。あ、ネットでいわれているのはホントなんだな、というか。

なお、従兄はこれを慨嘆して、あるいは逆に得意げに、いったわけではなく、話のついでにさらりといったまでのこと。それは従兄の名誉(?)のために断っておこう。