國分功一郎&千葉雅也『言語が消滅する前に』 / 高瀬正仁『評伝 岡潔』「星の章」

曇。時雨れる。
昨晩はダラダラとツイッターを見ていたり。別にこんなことをいっても仕方がないのだが、超絶かしこい人たちの底の浅さについて。(これは現代芸術の底の浅さと同根だろう。)何故深さが必要なのか? よくわからないが、我々の間の紐帯は底の方にある。また、生きるということの土台は深さにある。そんなところだろうか。いまの深さは、何かネットを見てダラダラしているところに発生しつつあるようにも思えるが、それは複雑な現代社会に生活する我々の日常(=身体)とあまり接続していない。その苦しみが、我々の「不労所得でダラダラ生きたい感」と関係しているように思える。

スーパー。
ガソリンスタンド。レギュラー1L156円で、以前よりは高いが、報道でいうほどではないな。

昼からイオンモールへ、ネットで予約しておいたお酒のセットを取りに行ってくる。先日訪れた飛騨古川の渡辺酒造のお酒。最近どこでもやっている「ブラックフライデー」とやらのチラシにあって、老父が買おうといったものだ。

カルコス。國分さんと千葉雅也さんの対談新書本(これは今朝の新聞広告で見かけた)、多田智満子さんのエッセイ集、吉増剛造の新刊詩論、葛兆光など。多田智満子さんのは既読だし、単行本をもっているような気がするが、文庫本が出たので。吉増剛造のはまったく知らなかったのだが、店頭で見つけて購入。よい書店のありがたさというものである。


國分功一郎&千葉雅也『言語が消滅する前に』読了。対談集。以前はお二人ともそれなりに読んだが、いまでは國分さんにも千葉さんにもあまり興味はない。でも、それなりにものをよくわかっている方々なので、本書はそれなりにおもしろかった。本書を読んでいて、わたしは西洋哲学プロパーに随分と興味が薄れてしまったなと感じる。まあ、老化なのかも知れない。何にせよ、優秀な人たちだな。

 
夜。
高瀬正仁『評伝 岡潔』「星の章」読了。胸がいっぱいになるようなところがたくさんあった。文字どおりの、孤高の天才数学者・岡潔小林秀雄との対談は若い頃に読んでいて、また京都にいたとき古書店で『春宵十話』を求め、それも読んでいたが、岡潔の数学的な業績を多少なりとも知ったのは、高瀬さんの岩波新書でだったと思う。まあ、数学的に正確なところはわたしにわかる筈もないので(複素多変数関数論!)、そこが本当に本当に残念だ。しかし岡潔が生涯追求した、情緒による数学というのは、中沢さんの探求もあって、わたしのようなものにも、形を替えて土台になっている。これこそが閉塞した無味乾燥論理の全面化する現在世界の、唯一のか細い希望であることは、わたしにもようやくわかってきたところである。願わくばそれが硬い岩盤を貫き、渾渾たる小さな泉が湧き出ますように。

山極寿一『京大というジャングルでゴリラ学者が考えたこと』

晴。

昼から図書館。

市民公園、学びの森あたりを散歩。


冬桜。


遊び創造labo、とやら。

メタセコイア






 
山極寿一『京大というジャングルでゴリラ学者が考えたこと』読了。

ツィモン・バルトのピアノを聴く

曇。
明け方四時頃起床。

朝食後、しばらくうとうとする。追われる夢。何に追われるのか。死か。

肉屋。

NML で音楽を聴く。■バッハのブランデンブルク協奏曲第二番 BWV1047、第三番 BWV1048 で、指揮はジョルディ・サヴァールル・コンセール・デ・ナシオン(NMLCD)。

ハイドンのピアノ・ソナタ第十番 Hob.XVI:1 で、ピアノはツィモン・バルト(NML)。全然知らないピアニストだが、最初の一秒で耳を攲てさせられる。中間楽章の弱音が極端に小さいなど、とても変わった演奏だが、奇を衒っているのではなく、内的必然性に拠ることははっきりしていて、そこがよい。ちょっと聴いてみたいピアニストの発見だな。

検索してみると、ツィモン・バルト、それなりに知られたピアニストなのだな。ボディビルダーで筋肉ムキムキらしく、演奏も良識派の眉をひそめさせると評価されているようだ。ますますおもしろい。


昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー410円。『コレクション瀧口修造4』を読み始める。瀧口修造を読むと、己の「無意識の汚れ」のようなものが気になる。読んだあと、耳も目も初期化され、世界が隅々まで美しい。(このことは前にも書いた。)感覚が洗われたかのように。これは長続きするわけでなく、そこが我が凡庸ということなのだろう。それにしても、瀧口を何と呼べばいいのか。詩人? 美術評論家? 画家? シュルレアリスト? いやいや、どれも尽くしてはいない。何者でもない人、瀧口修造。1903-1979。

 
シューマンの「交響的練習曲」 op.13 で、ピアノはツィモン・バルト(NML)。ツィモン・バルトのシューマンを聴いてみた。独創的で興趣の尽きない演奏だった。第十変奏の中間部として、死後出版の第五変奏を弾いたのにはびっくり。自分にはツィモン・バルトは、速いより遅い、強音より弱音が好ましいピアニストであるようだ。ブラームスのピアノ協奏曲第一番 op.15 で、ピアノはツィモン・バルト、指揮はクリストフ・エッシェンバッハ、ベルリン・ドイツ交響楽団NML)。いやあ、ユニークで一瞬たりとも聴き逃せない演奏だった。グールド+バーンスタインのライブ録音もユニークだったが、どちらがより変態的かは甲乙つけがたい。冒頭のオーケストラはふつうだが、ピアノが入ってくるところでぐっとテンポを落としたと思ったら、聴こえないくらいの弱音と止まりそうなテンポのピアノ。この曲を徹底的にデフォルメして弾いている。しかし上でも述べたとおり、決して奇を衒っているわけではない。もしそうだったら、これほど遅く弾き続けていれば集中力が途切れてしまうだろう。ピアノと指揮はよく打ち合わせたのだと思う、エッシェンバッハはバルトのピアノに完璧に合わせている。これも、そうでなければこれほど激しく動かすテンポに、演奏が破綻していただろう。エッシェンバッハはさすがで、バルトのピアノに合わせて同じようなことをやっているのだが、正直いってエッシェンバッハのオケの方が説得力ある音楽になっていた。このあたりは、年季の差でしょうね。緩徐楽章がこのピアノにぴったり、となる筈だったろうが、意外と抒情性が増していなかったようにも思えたけれど、これはわたしがついていけなかっただけかも知れない。終楽章はわりとふつうで、感動的な音楽。さてさて、二度と聴かない録音かも知れないが、じつにおもしろかったです。演奏時間はなんと55分。 
夜。
会長はメイド様!』第23話まで観る。

こともなし

祝日(勤労感謝の日)。晴。

スーパー。空が暗くなって、時雨れてきた。

昼食は釜揚げうどん。

昼寝。このところ昼寝してなかったよな。

老父が新しいノートパソコンを買ってきたので、設定をさせられる。IDとかパスワードとか書き留めておかないといけないといったのに、わからなくなってしまっているので困る。Windows 10 から 11 への購入後アップグレード。これは簡単だった。しかし、何で最初から 11 を入れておかないのかな。

夕飯は寄せ鍋。寒くなってきた。

iPad mini でだらだらネットを見ているうち眠ってしまう。

こともなし

雨。
昨晩は夜遅くまで RubyAtCoder。目覚める前に、デパートで陳列(?)の仕事をやる夢を見る。わけがわからない。

NML で音楽を聴く。■バッハのブランデンブルク協奏曲第一番 BWV1046 で、指揮はジョルディ・サヴァールル・コンセール・デ・ナシオン(NML)。悪くないが、ちょっと音が汚いな。あれ、この曲って、メヌエットで終わるんだっけ。変わっていて、何だかふと戸惑った。

Brandenburg Concertos Nos.1-6

Brandenburg Concertos Nos.1-6

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ドビュッシーのチェロ・ソナタ ニ短調で、チェロは佐藤晴真、ピアノは髙木竜馬(NML)。 


 
■バッハのフランス組曲第四番 BWV815 で、ピアノはアンドレイ・ガヴリーロフNMLCD)。■マックス・レーガーの「ある悲劇のための交響的プロローグ」 op.108 で、指揮はハインツ・レーグナー、ベルリン放送交響楽団NML)。 
雨の中、昼から珈琲工房ひぐち北一色店。山極先生の『京大というジャングルでゴリラ学者が考えたこと』を読み始める。国立大学法人化は失敗だった、というのはもう以前から散々聞かされてきたことなので、特に意外感はないが、山極先生のはダメ出しの総まとめという感じだな。国立大学法人化は小泉政権の施策で、本来は「民営化」される予定であったのを、何とか法人化に留めたということなのか。国は、学問に金を出したくないのだな。ほんと、終わってる。まあそんなことより、先生のゴリラ研究にまつわる話の方が、希望が持てて楽しい。そういや、京都大学霊長類研究所も論文不正のせいで、廃止されるのだった。日本を代表する研究所のひとつだったのだが。 
帰りにマックスバリュ

『評伝 岡潔』の続き。400ページ目まで読む。深い感銘を受ける。中谷宇吉郎、治宇二郎兄弟との友情。この地上にあったこととは思えないな。

ポール・ヴァレリー『ドガ ダンス デッサン』

日曜日。晴。

もう十一月も三分の二を過ぎたのか。客観的に考えるといろいろやったのだけれど、実感としては何してたかなあというような。光陰矢のごとし。諸行無常。そんな言葉がじつにリアルだ。一生あっという間。

スーパー。

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第二番 BWV813 で、ピアノはアンドレイ・ガヴリーロフNMLCD)。■ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第三番 op.108 で、ヴァイオリンはルッジェーロ・リッチ、ピアノはジュリアス・カッチェン(NML)。よい。


曇。雪虫飛ぶ。皇帝ダリアの咲き始めたのを見かける。
コメダ珈琲店各務原那加住吉店にて昼食。ミックストースト+たっぷりブレンドコーヒー1170円。いつも昼どきは空いているのだけれど、日曜日のせいか一時頃には席が満杯になっちゃった。
ポール・ヴァレリードガ ダンス デッサン』読了。塚本昌則訳。注と訳者あとがきで100ページくらいある。ヴァレリーっていってわたしがまず思い出すのは、小林秀雄林達夫だろうか。いまでは古びた話である。そこに、吉田健一や、谷沢永一中井久夫あたりを加えてもよいかも知れない。本訳書に添えられたドガのデッサンは魅力的だ。どこかで見たいものだが、たぶん無理だろうなあ。

 
高瀬正仁『評伝 岡潔』「星の章」を読み始める。何時間かかけて、一気に250ページむさぼり読む。近頃これほど惹かれたる書物はなし。かつてカルコスに単行本が置いてあって、買おうかと眺めていたことがあったが、いつしかなくなり、本書のことを忘れていた。ちくま学芸文庫に入ったおかげで、本書を読むことができた。感謝。疲労困憊して長時間ぼーっとする。

こともなし

晴。
夢でずっと謎を悩んでいたのだが、どんな謎だったか、何を悩んでいたのか、まったく思い出せない。何か、ナンセンスな謎だった筈。わかった、と思うのだけれど、またうーんうーんとすごく悩んで、それの繰り返しという感じだった。

ドガ ダンス デッサン』を読み始める。古い知性、ヴァレリー。ここでの「古い」は、肯定的な意味である。もはやヴァレリーという泉から水を汲む者はいないだろう。もっとも、ドガは古くない。これも、肯定的な意味である。


NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第一番 BWV812 で、ピアノはアンドレイ・ガヴリーロフNMLCD)。美しいフランス組曲。■ヘンリク・ミコワイ・グレツキ(1933-2010)の「古風な様式による三つの小品」、アストル・ピアソラ(1921-1992)の「ブエノスアイレスの四季」 ~ 第四楽章「ブエノスアイレスの冬」、第一楽章「ブエノスアイレスの春」、ヴォイチェフ・キラール(1932-2013)の「オラヴァ」、パヴェル・ハース(1899-1944)の木管五重奏曲 op.10、モーリス・ファイユノ(1920-2010)の「ディヴェルティスマン(古風なスタイルで)」、エドガー・ヴァレーズ(1883-1965)の「オクタンドル(八弁雌雄両性花)」で、演奏は飛騨高山ヴィルトーゾオーケストラ(NML)。2021年の飛騨でのライブ録音。圧倒的な技術で、目の覚めるような演奏。最初はわりと聴きやすい曲が並んでいるが、最後は聴き手を選びそうなヴァレーズの室内楽で〆るなど、レヴェルの高い演奏会だ。しかし同じ岐阜県でも各務原という文化の香りの乏しいところに住んでいると、飛騨はレヴェルが高いなあと思ってしまう。

 
夜。
ブラタモリ」を見ていて、糸静線(糸魚川静岡構造線)とフォッサマグナを混同していたことに気づかされ驚く。いやこれ、皆んなまちがえますよ笑。フォッサマグナは「面」で、その西の境界が糸静線なわけね。よくわかりました。本州が弓形をしているのは、フォッサマグナのところで割れているわけだな。そこに堆積物が溜まったり火山活動が起きたりして、溝(fossa)が埋められたわけだ。

ストラヴィンスキーバレエ音楽火の鳥」で、指揮は小澤征爾、パリ管弦楽団NML)。圧倒された。パリ管とだし、音質からいっても、小澤征爾の若い頃の録音だと思う。(後記:どうやら1972年の録音らしい。小澤征爾30代後半ということか。)