モダンと知性による操作 / コンラッド『ロード・ジム』 / ねじめ正一『荒地の恋』

曇。

ポストモダン」というのは、モダンの枠の外へ出られないということである。モダンというのは、知性によって操作(マニピュレイト)可能ということだ。中沢さんは、ピカソの絵を例に挙げていたな。いまやモダンの枠の内部は、凡庸化・断片化され尽くした。身体や情動も知的にマニピュレイトされている。実際は、もちろんモダンの枠の外は存在するのであるが、知性による操作に「汚染」された精神には、モダンの枠の外(そこにこそ無限がある)に根ざす精神がただ(逆に)凡庸にしか見えず、必然的にそれを無視してしまう。正直いって、そこをどうしていったらよいのか、わたしには(ここに至ってすら)よくわからないのである。

何やら、朝からむずかしいことを考えて疲れたぜ笑。しかしモダンの最後のヒーローだった浅田さんや柄谷行人蓮實重彦といった人たちがいま時代を捕まえられなくなっているのを見ると、現在がじつはポストモダンに他ならないことが嫌でも痛感される。さてこれから、知的な操作が世界を極限まで単色化・断片化していくのか、それとも新たな土台を作り上げることができるのか、現実の潮流は厳しい方向に向かっているところだ。たぶん、エンタメ的な凡庸化と脳内快楽物質の扱いの洗練が進むばかりであろう。結局、すべてを解体して残ったもので新たな土台を作る他ないのであり、いうところのコモン(共有地)の再構築とかもそうした角度で理解せねばならないと思っている。

まあ、わたしは田舎にいるのを忘れないようにしよう。それは、利点でないこともない。わたしの周囲は、まだ辛うじて人工化され切ってはいないのだから。


吉本さん、中沢さん、細野さんらの表現は、解体され切ったあとのそれだから、得るところばかりだし、我々に勇気を与えるのだ。しかしその後の世代にそれがないのは、恐ろしいことである。って、人ごとのようにいっている場合じゃないんだが。自分のレヴェルの何とも低いことよ。

ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー396円。『瀧口修造コレクション4』の続き。一時間ほど瀧口を読んで、30分かけて帰る時間が充溢している。今日は曇りで時雨れており、ヘッドライトを点けるほど暗い。何も考えず、ただ時折(ジブンハシノワカラナイニンゲンダナ)とか(ワタシハイマメカラセカイヲナガメテイルノデハナク、コレガセカイソノモノナノダ)というがごとき想念がちらりと頭を掠めたりする。瀧口への無理解とともに、共振、交感。自分の中に、何かそれを許すものがあるのだろう。


写真再掲。2021.5.23.


コンラッド『ロード・ジム』読了。柴田元幸訳。長いこと中断していて、やっと読み終えた。

 
夜、雨。
ねじめ正一荒地の恋』読了。傑作。前半は田村隆一の妻・明子が妻子ある真面目な北村太郎を寝取る話で、後半は北村太郎が阿子という若い恋人を得、ゆっくりと死へ向かっていく話となる。主人公は北村太郎といっていいだろう。田村隆一北村太郎に注釈は要るだろうか。共に『荒地』の詩人で、田村隆一は「カッコいい、女にモテる酒飲み詩人」の代名詞である、さみしがり屋の天才詩人であり、北村太郎はサラリーマンをしながら詩を書く詩人。そして二人は十代の頃からの盟友であった。
 ねじめ正一の文章はここでは古典的なまでに端正なリアリズムで、登場人物たちが仮に架空であっても惹き込まれるであろう魅力をもっている。また、作中に挿入される田村や北村の詩がすばらしい。後半は濃厚な死の雰囲気が漂っていて、淡々と話が進んでいくところが哀愁に満ちている。わたしは北村太郎の詩はまったく読んだことがないが、こんな小説を読まされると気にならないではいられない。しかし、田村隆一すら現在では本屋で手に入れることがむずかしいというのは、どういうものだろう。何故、岩波文庫田村隆一詩集が入らないんだろうね。世の中まちがっていますけれど。