晴。
NML で音楽を聴く。■ブラームスの交響曲第一番 op.68 で、指揮はクリストフ・エッシェンバッハ、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(NML)。エッシェンバッハはピアノしか聴いたことがなかったと思うが、指揮もすばらしいじゃないか。随分と前から指揮をしていたのに、もったいないことをしたな。
三中先生の『読む・打つ・書く』を読みたいのだが、近くの図書館にないな。個人的な事情(老母が本を増やすのを嫌がる)で本があまり買えないので、どうするかなあ。岐阜県という田舎の図書館は、ほんとにしょぼいからなあ(というのは、我々岐阜県の読書人がしょぼいことの裏返しでもあるが)。まだ県図書館が近くにあるから、そうはいってもマシなのだけれど。
種村季弘さんがいちばん大事なことは書かないといっておられたけれど、確かにと思う。
スーパー。
図書館から借りてきた、若桑みどり『お姫様とジェンダー』読了。副題「アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門」。アニメってのはいま僕が観ているようなのではなくって、(たぶん)ディズニーの「白雪姫」とか「シンデレラ」といった古くさいやつ。それを女子大の学生に観せて、ジェンダー学的に考えるという本である。2003年のだいぶ古い本で(若桑先生は2007年に残念ながら亡くなられている)、いまわたしが読んでもフェミニズム的にとてもおもしろかった。2003年以前のことなので、女子学生にいまほどフェミニズム的発想が浸透しておらず、却ってわたしなどには女性の考え方がわかりやすかった。「いつか素敵な王子様がわたしのもとに現れてくれる」という女の子の素朴な幻想が、授業で木っ端微塵になっていくのがリアルである。いまや、サブカルでもフェミニズムの浸透は当たり前になっており、創り手側も多かれ少なかれ意識しているのは当然な時代になった。もちろん、よいことだと思う。
本書でも思ったことだが、フェミニズムはもともと「女性が差別されている」「女性が抑圧されている」という、女性の実感が基盤になっているのはまちがいない。けれども一方で、フェミニズムというのはとても知的な運動だ。とにかくむずかしくて、本もいっぱい読まないといけない。そこらの、感情と論理の複雑な絡み合いがフェミニズムの生命力である。最近ではフェミニズムが一気に前面に出てきたので、論理先行のともすれば硬直したフェミニズムも見られるが、それはいたしかたのないところであろうか。
さても、「女性差別」「女性の抑圧」は、いつごろから始まったものであろう。石器時代にまで遡るところもあるように思える。そうすると、「女性の完全な解放」というのは、人間精神を根底から知性によって作り変える、大手術になるのかも知れない。もしかしたら、生物学的性のあり方からして反フェミニズム的ということになれば、試験管内における受精、人工子宮による出産の解放すら見据えた、自然の人工化が進められるということもあるかも知れない。ま、いつのことになるかはわからないが。
女性の望んでいることは、簡単にいうと「社会で活躍し、幸福な家庭をもつこと」(p.175)であろう。すべての女性が、そんな生き方のできる社会になればいいし、少しずつはそうなってもいるだろう。もちろんそこで失われてしまうものもたくさんあり、例えばわたしなど古い世代は廃棄されようが、それは已むを得ないというものであろう。
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ご飯を炊く電気釜が古くなって傷んできたので、専用の土鍋を買った。さっそく使ってみたけれど、高度な電気釜よりおいしいくらいで驚いた。