アイドルと物語

曇。
九時間くらい寝たのに、まだ寝足りない感じ。
しかし、皆さん消化できる量を遥かに超えて、頭を使っておられますな。

山形さんのブログの「スノーデン自伝 訳者ボツ解説」のエントリー、おもしろい。いつも思うけれど、こういう人をまさにエリートと呼ぶべきなのだと思う。自分の圧倒的な知力を使って、確実に世の中をよくしていくということ。わたしも含めた常人には、到底及び難いし、そもそもこういうことやるのは能力的に、また勇気においてもムリである。平凡人には平凡人のやり方があるのも確かではあるが。

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第二番 BWV813 で、ハープはクリスティアーナ・パッセリーニ(NMLCD)。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第三番 op.12-3 で、ヴァイオリンはヴォルフガング・シュナイダーハン、ピアノはカール・ゼーマンNMLCD)。とてもよい。ベートーヴェン、すばらしいな。


いまのアイドルに多くの人が感情移入していて、そのあり方に元気をもらっているのはよいことだと思うけれど、アイドルには「物語」の側面があるのだよね。物語批判の視点からは必ずしも全肯定できないけれども、物語批判ということがもはや、古くさく時代遅れになっているのだよなあ。そして、物語は商品としてもますます大量に流通しているし、その傾向に拍車がかかろうとしている。
物語批判というと大塚英志だが、大塚もうまく理解されなかったし、もう諦めてしまっているような気配もある。わかる気がする。
ミクロなアイドル(地下アイドルとか)や、バーチャルアイドルというのもいまではある。これらもどう考えるか。それから、いまさらだけれども、性商品としての側面も、やはり閑却してしまうことはできないだろう。

物語が非常に古くからあるというのはまちがいない。しかしその論法(「人間は物語を求める」)で現在大量に流通する物語を肯定するのには欺瞞がある。そこは正確に論理化しないといけないが。


ドラッグストア、スーパー。
昼食は冷やむぎ。おいしかった。面倒だな(スーパーで)何か出来合いのものを買っていくかとちらりと思ったのだが、やめておいた。ブランド物(徳島の「半田めん」)はやはりうまかったな笑。

いまの物語は強力な「整流装置」として働いている側面があるのはまちがいない。でも、そこのところはまだあまり正確に探求されていないような気がする。本当? それこそ、ポストモダニズムが何かやっていない?

定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)

物語消費論改 (アスキー新書)

物語消費論改 (アスキー新書)

  • 作者:大塚英志
  • 発売日: 2012/12/10
  • メディア: 新書
物語批判序説 (中公文庫)

物語批判序説 (中公文庫)

晴。残暑。
昼から病院へ届け物。面会する人も毎日体温を用紙に記入しなければならないので、エレベーター前でそれを見せ、さらにナースステーションで名前・目的などを記入してようやく、「五分だけですよ」といわれて面会。今回の手術では内臓をいじっていないので、見た目は入院前とかわらず元気だった。まあ、痛いことは痛いらしいが、先生も「大丈夫ですよ」とおっしゃるらしい。

米屋。「餃子の王将」へ寄って夕ごはんのおかずを買う。今日は手抜きなのだ。


大塚英志『定本 物語消費論』をざっと読み返す。東浩紀に受け継がれた、伝説的な著作。元本は1989年刊。僕が考えたいのはちょっとそういうことじゃないんだよなーとか思いながら読んでいたが、本自体は(速読だったけれど)大変におもしろうございました。ここに出てきているマンガの相当部分を自分が読んでいることに、少し驚いた。わたしが考えたいことはまだ全然うまく言えないが、こういった象徴界の分析ではなく(これはいま若い人たちが受け継いで進められている)、もっと想像界的なものだ。というのは、あまりよいいいかたであるとは思えないが。わたしには、何故いまの物語はこれほど「強烈」なのか、解体することが大変なのかという実感がある。それはもしかしたら、たんにわたしがもはや(高度に発達した)現在のドラマトゥルギーに慣れていないおっさんにすぎないという、つまりはわたしだけの問題なのかも知れないが。

定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)

ちなみに大塚は本書でアイドルについても何箇所か言及していて、しかもそれは鋭い。それはまったく記憶になかったので、さすがは大塚だと思った。

夕飯は「餃子の王将」で買ってきた餃子、酢豚、エビチリ。手抜きをさせてもらいました(笑)。

こともなし

何故かバレーボールで、すごい身体能力で躍動しまくる夢を見る。目覚めて暗い中でつらつら夢を反芻する。願望とか欲求というよりも、「自由」の夢なのだなと思う。
しばらくうとうとしていたのだが、五時くらいに風雨が強くなってきて起きる。

昨晩は中沢さんの『野生の科学』を読み直してから寝た。2012年に刊行されたもので、比較的最近の本という気がしていたが、この本はあまり読み返していない。いまだからわかるところもいろいろあって、とても勉強になった。以前は中沢さんが「トーラス」と「クラインの壺」、そして「クロスキャップ」という数学(トポロジー)の比喩で何を仰っているのかよくわかっていなかったが、基本的にわかったと思う。「トーラス」は閉じた有限世界であり、「クラインの壺」は無限に通じた世界だ。そして「クロスキャップ」は、両者の結合形である。そして、本書では現代経済学の「トーラス」構造を指摘し、「クラインの壺」を経済学に組み込むことを思考している。中沢さんがだいぶ前から取り上げているフランスの「重農主義者」(フィジオクラット)の主張が、素朴ながら「クラインの壺」型経済学のひとつの具体化なのだということだ。

そう考えると、一神教多神教が「トーラス」の構造をもっていると中沢さんが仰るのは、興味深い。キリスト教でもイスラム教でも、「神は無限」だとされているからだ。しかし我々は、トーラスの中央の空虚な穴、つまり超越性に「触れる」ことはできないのである。


NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番 op.15 で、ピアノはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、指揮はカルロ・マリア・ジュリーニウィーン交響楽団NML)。

THE ART OF ARTURO BENEDETTI MICHELANGELI

THE ART OF ARTURO BENEDETTI MICHELANGELI

バルトークの「管弦楽のための協奏曲」で、指揮は小澤征爾サイトウ・キネン・オーケストラNMLCD)。これはすごい。わたしがまだ鍬を入れていない領域があるな。また聴かないといけない。しかし、やっぱり小澤征爾はわたしの指揮者という他ない。あんまり聴かないのだけれど、もっと聴いておかないとな。

風雨強し。時々雷鳴。
洗濯の間にぼーっと庭を見ていたら、風で紫苑が倒れそう。暑さですっかりしなびていた蕗は、多少元気が出てきたか。

昼食に厚切りハムを焼く。あとは昨晩の残り物と、インスタントみそ汁。


夕方、雨上がる。
一週間分の献立と買物の叩き台を作ったので、写真に撮って Skype 通話(音声のみ)に添付し老母と相談する。前もって考えておくと便利なのは、この何日間かで実証(?)済み。
20200907175227
 
夕食は豚肉とピーマンと玉ねぎの炒めもの、サラスパサラダ。まずまずうまくできた。

早寝。

こともなし

日曜日。晴。
いつまでも寝ていたい気がする。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第五番 BWV829 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。■イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第三番 op.27-3 「バラード」で、ヴァイオリンはニクラス・ヴァレンティン(NMLCD)。■プロコフィエフのピアノ・ソナタ第七番 op.83 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。何という…。1960年の録音。

 
午前中、甥っ子の勉強を見る。大学入試レヴェルの数学は、甥っ子はあまり経験がないようだ。理解はなかなかよい感じ。

甥っ子、老父と珈琲工房ひぐち北一色店にて昼食。
甥っ子を名鉄岐阜駅まで送る。

若い子と話すのは気持ちが明るくなっていいね。

曇。
ベートーヴェン交響曲第八番 op.93 で、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンウィーン・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。50年代のモノラル録音?

濱口先生、何だかこのところイラついておられるような。いつもにもましてブログの言葉づかいがキツい。まあたぶん、例の「ジョブ型」概念がバズってそれもひどい有り様らしいので、御本家(?)としてはムカつくのも宜なるかななのだけれど(特に日経に憤懣やる方ないといった御様子)。返す刀で消費税減税派もぶった切っておられたり。おおコワ。


夕食は豚肉とゴーヤと玉ねぎの味噌炒め、(市販の「素」を使った)麻婆ナス、残り物のミニトマト漬け。今日はぜんぶひとりでやるので思ったより時間がかかったが、まあおいしくできたのではないか。老父もパクパク食べていたから、まずまずだったのだろう。

このブログの過去記事を読み出したら止まらなくなって、二箇月分あまりも遡って読んでしまった。わたしこそがこのブログのいちばんの愛読者なのは間違いない。ってバカですね。

こともなし

晴。
早起きするが、しばらくネットを見たりして、あとはごろごろする。

起きて新聞を見ていたら、デヴィッド・グレーバーという人の訃報が載っていた。享年59という。といってもよく知らない人なのだが、「ブルシット・ジョブ」の著者であるということで目に止まったのだった。翻訳は『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』として、最近岩波書店から出た。いや、この本も読んだわけではないが、ブルシット・ジョブ=クソどうでもいい仕事というのが、なかなかインパクトのある言葉だなと記憶に残っていたのである。「クソどうでもいい仕事」というのは、たぶんキツいとか危険とか、そういう仕事のことではない。誰かがやらなくてはならないのだけれど、「生きがい」にならない(というより、やりがいがないと言った方がいいか)、どうでもよくてやっているとむなしくて、対価も安い、そんな仕事のことのようである。たまたま最近わたしも似たようなことを考えていたので、ちょっと気になった、というお話。

この本、岐阜市立中央図書館にあるみたいだ。
 
スーパー。
33℃くらいで、体温より低いとだいぶしのぎやすい感じ。湿度も以前ほどではないような。大きな台風が来ているらしいのだけれどね。

昼食は冷やむぎ。老父の採ってきた大根がダメになっていて、薬味がおいしくなかったのだけ残念。
老父がその他にも畑からいろいろ採ってきたので、Skype 通話で老母に相談する。

Ruby で書籍検索ソフトを作ってみようと思って、Google Books APIs を叩く簡単なコードを書いてみた。著者名やタイトルから ISBNコードが知りたい。
google_books.rb

require "net/http"
require "json"

uri = URI.parse("https://www.googleapis.com/books/v1/volumes")
q = {q: (ARGV[0] || "auther:中沢新一")}
uri.query = URI.encode_www_form(q)

response = Net::HTTP.get_response(uri)
puts response.code
hash = JSON.parse(response.body)

vi = hash["items"].map {|item| item["volumeInfo"]}
books = vi.map {|e|
  [e["title"],
   e["authors"],
   e["industryIdentifiers"]&.map {_1&.fetch("identifier")}]
}

pp books


結果。

200
[["野生の科学", ["中沢新一"], ["PKEY:BT000062508400100101900209"]],
 ["カイエ・ソバージュ", ["中沢新一"], ["4062159104", "9784062159104"]],
 ["はじまりのレーニン", ["中沢新一"], ["4000037315", "9784000037310"]],
 ["チベットのモーツァルト", ["中沢新一"], ["PKEY:BT000062505600100101900209"]],
 ["カイエ・ソバージュ(合本版)", ["中沢新一"], ["PKEY:BT000062505400100101900209"]],
 ["アースダイバー", ["中沢新一"], ["4062128519", "9784062128513"]],
 ["芸術人類学", ["中沢新一"], ["4622071894", "9784622071891"]],
 ["大阪アースダイバー", ["中沢新一"], ["PKEY:BT000062507500100101900209"]],
 ["The Lure of Pokémon", ["中沢新一"], ["4866580658", "9784866580654"]],
 ["アースダイバー 東京の聖地", ["中沢新一"], ["PKEY:BT000062504900100101900209"]]]

登録されている書籍が少なすぎる…。まじ使えん…。

夕食は刺身、ミニトマト青じそドレ漬け。
夜、しばらく雨。

高橋英夫『濃密な夜』

晴。
早起き。さほど眠れなかったが、悪い気分ではない。朝食を食いながら、老父が面会のことなど訊いてくるので、原則禁止だが、何か届け物があるということで顔を見てきたらといっておく。やはり心配なのだな、当り前か。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第三番 BWV827 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。■バッハの無伴奏チェロ組曲第一番 BWV1007 で、チェロは古川展生NML)。

J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲全集

J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲全集

  • アーティスト:古川展生
  • 発売日: 2014/10/22
  • メディア: CD
 
理事無碍法界を消化し切って事事無碍法界に常住する(と言うのは正確さを欠くが)人は、一見全然すごそうには見えない。でも、じつはこういう人がすごいのだし、本当に滅多にいない。

睡眠。意識は局在であり、リミッターでもあるが、睡眠はそのリミッターを外し、精神の本来の働きを開放する。その活動を可視化するのが夢。しかし、では脳は何なのか。何故脳に拘束されるのか。

少し蒸し暑くなってきた。庭を見ていると、いつもどおり、何か小さな蝶もアゲハチョウもハグロトンボもいるなと。植物もいっぱい茂っている。

(しかし、である。ぼーっとしているだけのわたしだが、何という時代を生きているのかと。我々の世代のサブカル的想像力に「1999年にデカいのが来る」という妄想があったが。いまのコロナ禍だけではない。全体主義的とすらいいたくなる、管理社会の不可避。生の全領域の経済(学)化。格差の拡大。合理性にがんじがらめになって生きている一方で、フェイクニュースとヘイトの時代。インターネット。わたしが中高生を生きていた80年代には、こんな(暗い)時代を自分が生きようとは思いもよらなかった。あまり大きすぎる問題にとらわれても仕方ないのだけれど。とりあえず、洗濯しますか。)

洗濯、物があまりにも少なすぎるのでサボる(笑)。
老母より Skype 通話あり。動けないし痛いそうだが、声は元気でだいぶ話した。Skype はチャットも意外と便利だな(LINE とか使っていないので)。

雷鳴。雨。
昼食は焼きそば。


TSUTAYA長森店にてマンガを借りてみる。
曇。車外は28℃なので、これまでよりも10℃近く涼しい。

夕食はデカい冷やっこ、オクラのチーズ焼き、キュウリとキムチとツナのサラダ。何かめちゃシンプルな飯になったけれど、まあ食べられました(笑)。

図書館から借りてきた、高橋英夫『濃密な夜』読了。文学者の音楽論集。おおよそのところではここに記した感想を出るものではない。こういうコクのある「時代遅れの書」を楽しんだのはひさしぶりという感じがする。直接は音楽に関係のない、「忘却の女神への讃」や「『退屈』讃」などは、静かな感銘の気持ちが起きるのを覚えた。泡沫文学者が、文学史に残されながらも読まれないという意味で忘却されるどころか、わたしのそれのようないまですら誰も読まないブログの忘却を思ったり、わたしも音楽の「退屈」を好んでいて、強く我が意を得たり。わたしは音楽をヘッドホンでぼーっと聴いていることが多く、そもそもアナリーゼのように分析的に聴く能力はきわめて乏しいし、音楽を聴いて何がなんでも「感動してやろう」という構えもない(でも、何でこんなところにという箇所に、強く感動したりすることもある)。ついでにいうと、わたしはある意味で「退屈な」本も好きなところがある。あんまり刺激の強い本は、浅さを感じることが少なくない。もっとも、「浅さ」というのがよくないものなのか、それもむずかしいところだが。
 わたしは思うが、いまの知的な読書家なら、浅田さんが「小林秀雄の貧しさは、日本の貧しさだ」といったような意味で、本書に貧しさを感じても不思議ではあるまい。そして、わたし自身、そういう意味で自分をさらに「貧しい」とも思っている。わたしは翻訳で外国の本を読み、CD・ストリーミングで偏った音楽を聴くだけの田舎者だからだ。わたしは本書の背後にある「豊かな教養」に感銘を受けるが、それはいまの人たちのネット的集合知にまったく敵わないだろう。ツイッターの140文字、はてブの一行で何でも一刀両断される時代である。本書がゆったりと音楽を論じるのは、それとはまったく正反対の仕方だ。時間をかけて教養を消化していった末の「魂の豊かさ」とは、じつに時代遅れではないか!

母手術

早起き。一日雨という予報だったが、起きたら空の大部分は黒い雲だけれども、東の空からはお日様が差している。
明け方の夢はよりによってゲームの中の現実というような幼稚な(じつは深刻な大問題なのかも知れないが)それ。まだ「ソードアート・オンライン」の世界が解体しきれていないのを感じる。まあ、現実が重いので夢がバランスをとったという気もする。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトクラリネット五重奏曲 K.581 で、クラリネットはイーライ・エバン、アレクサンダー弦楽四重奏団NMLCD)。■イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第二番 op.27-2 で、ヴァイオリンはニクラス・ヴァレンティン(NMLCD)。

さて、老父が掃除機をかけているし、わたしも洗濯と風呂掃除をするかな。
雨、降り出す。

妹到着、二人で病院へ。コロナの人数制限で父は家で留守番。手術前の面会すら制限されていて、少し顔を見ただけで、結局いつ母が手術室に入ったのかもわからず。
予定では手術は12時から四時間とのこと。病院のレストランで食事、わたしはバター入味噌ラーメン。
二時間ほど高橋英夫氏を読む。あと一時間くらいかなというところで、妹としゃべったり。予定の四時間を過ぎるも、そのまま。本を読むのも疲れたので、しばらくぼーっとしたり、お茶を飲んだり。さらに一時間がすぎるも何もないので、いちおうナースステーションに訊いてみるも、そのままお待ちくださいとのこと。iPad mini でエンタメマンガでも読んでみるが、六時を過ぎる。わたしも妹も、ナースステーションの方がどうしても気になる感じ。六時半近くになって、ようやく看護師が来て「手術が終わったということなのでこれから迎えに行ってきます」といわれたときは、わたしも妹もホッとした。父にメールする。しばらくして先生が来て、「時間がちょっとかかりましたが、予定どおりです」とのことで、デジカメの画像を見ながら手術の経過の説明(気の弱い人は断った方がよいが、わたしはこれはよい制度だと思う)。最終的に七時半くらいに、病室に帰ってきた母と五分間くらい話せた。全身麻酔のせいでさすがにぼーっとしているし、いろいろ体に繋がっているし、やはり痛いそうだが、我々は安心した。妹が父に電話してから帰宅。

父もさすがにひどく心配していたが、まずはよかった。三人で近くのスシローへ行って食事。皆んなホッとしていろいろしゃべった。妹帰る。感謝。
今日は時間的に長かったというよりも、予定時間よりだいぶ延びたというのが疲れた。ただ、何かあったのなら連絡が来る筈なので、たぶん大丈夫なのだろうと。今回も、元ベテラン看護師の妹と一緒だったのは、心強かった。それでも、二人ともなかなかにしんどかったです。あとは、予後がよいのを願うだけ。手術はさすがにこれまでにしたい。