こともなし

晴。
印象的な夢を見た筈なのだけれど、よく思い出せない。

NML で音楽を聴く。■スクリャービンのピアノ・ソナタ第五番 op.53 で、ピアノはジュディット・ハウレギNML)。

 
午前中、甥っ子の勉強を見る。

酷暑なのだが、それでも戸外で働かざるを得ない人たちがいるな。大変だ。


ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー378円。『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』を読む。ブレイディみかこ松尾匡北田暁大諸氏らによる鼎談。まだ三分の一くらい読んだだけだが、自分にとって本質的に新しいことはほとんどないようだ。でも、各論が具体的で、また鼎談者たちの人選がよいので、とても勉強になる。というか、元気が出てくる。いま個人的に自分に嫌気が差しているので、とにかく元気が出るのはよい。例えば「左派」といってもリベラルとレフトはどうちがうのかとか、またどうしてちがうのかというのなど、なるほどという感じだ。それからすると、わたしなどのスタンス(貧乏人左派)はヨーロッパにおける「レフト」というのことになるのかなと思った。また、本書でよく知られるようになったのではないかと思うが、日本の「左派」は経済成長を「バカにする」点で各国のふつうの「左派」とまったくちがうなど、日本の「左派」の病理と限界が指摘されている。もちろん三人とも「反緊縮」の立場で、「反緊縮」が日本での重要タームになりつつあるのも、本書が与って力があったのではないかと思う。続きを読むのが本当に楽しみ。

 
炎天下の駐車場に車を置いておいたら、帰るとき車外の気温が44℃になっていて我が目を疑った。さすがに運転していると下がったが、それでも37℃以上。それだけでしんどい。ウチに帰ってくると、緑が多くて明らかに気温がぐっと下がるね。

こともなし

晴。
印象的な夢を見る。Ruby 関連とか。

NML で音楽を聴く。■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Contrapunctus XIIIa a 3 rectus, XIIIb a 3 inversus, XIV: Canon per Augmentationem in contrario motu, XIV: Fuga a 3 Soggetti, Chorale: Wenn wir in hochsten Noten sein で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NMLCD)。■シベリウス交響曲第六番 op.104 で、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンフィルハーモニア管弦楽団NML)。すばらしい。

シマノフスキの「仮面劇」 op.34 で、ピアノはアンドレア・ヴィヴァネート(NMLCD)。
 
午前中、甥っ子の勉強を見る。

珈琲工房ひぐち北一色店にて昼食。県図書館。

クリストファー・R・ブラウニング『普通の人びと』を読む。初版最終章まで読み終えた。最終章(第十八章)はどうしてふつうの人たちが残虐行為に慣れてしまったかの総括であり、よくまとまっている。自分にとって印象的な部分をメモしておく。一。戦争と人種差別の関係。これはもちろんナチ・ドイツの専売特許ではない。これにはジョン・ダワーの書物があるという。県図書館に架蔵。一。アドルノらによる「権威主義的パーソナリティ」。しかしこれは本書では否定的であるし、ジグムント・バウマンはきびしく批判しているようである。ちなみにわたしもこれには否定的であり、余計なことを付加しておけばアドルノはきわめて優秀な頭脳をもっていたが、わたしごときの思うところでは人間のことはアドルノはよく知らなかった(さらには音楽についても)。一。命令。これはもちろん大きな要因であったろうが、じつに興味深いことに、武器を持たない文民を殺せという命令に対する拒否で、苛酷な軍事罰を受けなければなかったというケースは、その存在が一例たりとも証明されたことがないらしい*1。これは少なからぬ驚きであるが、本書を読むとわかる気もする。また、「命令への服従」に関しては、スタンレー・ミルグラムの有名な研究があり、わたしはこれは読んでいた(参照)。ミルグラムの結論は本書のケースに非常によく当て嵌まる。一。集団への順応。これは大きい。殺戮に参加しない隊員は、他人に余計な「汚れ仕事」を引き受けさせることになる。さらには集団から孤立してしまう。そのような資質は「弱さ」と判定されることになり、逆にいえば殺戮に積極的に参加する者が「強者」と見做されることになる。

増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊 (ちくま学芸文庫 (フ-42-1))

増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊 (ちくま学芸文庫 (フ-42-1))

 

biz-journal.jp「あいちトリエンナーレ」での今回の騒動についてはここで一切書くつもりはなかったのだが、リンク先記事を見て思うところがあったので少しだけ書く。とりあえず、SNS での日本人の爆発的反応は総体としてわたしには気持ちが悪すぎたし、「表現の自由」を河村名古屋市長が軽視した(というか踏みにじった)のはあまりにもひどいとは思っていたが、江川氏の記事を読んで、津田氏が企画展を中止したのはいわゆる「電凸」のひどさが理由だったのを知った。これは、わたしが SNS に感じた気持ち悪さ(「ツイッター凸」?)とまったく同根のものである。わたしは自分を棚に上げるわけではないが、日本人の恐ろしいまでの〇〇っぷりで、意気消沈せざるを得ない。しかし、これは近年、明らかに頻繁に見られるようになった現象である。これを、江川氏は暴力と呼ぶことをためらっておられるが、事実上は「ふつうの人たちによる集団的暴力」である。そしてたぶん、「ふつうの人たち」の少なからずはそれが「暴力」であることを知っていてやっているだろう。結局これには、(コールセンターの設置など)対症療法しかなく、根本的な解決は非常にむずかしい気がする。というか、わたしは嫌気が差している。何で日本人はこんなことになってしまったのか。
 それから、例の「ガソリン」云々の「テロ予告」だが、まあこれは確かに「テロ予告」ではあり警察の捜査の対象であるのは間違いないけれども、たぶん悪ふざけであり、まさか逮捕されるレヴェルであるとは当人は予想していなかった類の「テロ予告」だと思う。だとしたら幼稚すぎるとしか言い様がない。

正直言って、我々はいまや「知らない人をやり込める」ことに快感を見出しすぎ(それは庶民、有名人、学者すべて同様である)、そのための道具も簡単に揃ってしまっている。わたしもついそうしかねない。以て他山の石としたい。

*1:おそらくは、ナチ・ドイツに対する戦争犯罪裁判において、ということであろうが。

こともなし

晴。
要領がよくてちょっとズルい自分という夢を見て、興味深かった。自分のことだけど自分で自分を知らないなと思う。

NML で音楽を聴く。■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Contrapunctus XIV, XIIa a 4 rectus, XII a 4 inversus, Canon II alla Ottava, III alla Decima in Contrapunto alla Terza, IV alla Duodecima in Contrapunto alla Quinta で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NMLCD)。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十一番 K.467 で、ピアノはエヴァ・オシンスカ、指揮はイェジー・マクシミウク、ポーランド室内管弦楽団NMLCD)。この曲は終楽章がすばらしいのだが、ここではその終楽章がいまいちなのが残念。

午前中、甥っ子の勉強を見る。


夕方、ドラッグストアでアイスクリームを買ってきて皆んなで食べる。

石牟礼道子さんの自伝を読む。

クリストファー・R・ブラウニングを読む。凄惨な記述など読むのに抵抗を感じるところがあるが、それもまたある程度は慣れてしまうのである。何せ、ふつうの人たちが無辜の人間を職業的に殺害するのに慣れてしまうのだ、たかが読むところで慣れるのも驚くべきではあるまい。さらに、職業的殺戮者たちは「ユダヤ人狩り」を楽しむのに近いところまでいくのだ。これもまた人間なのである。しかし思うが、未体験者が戦争を想像するのには限界があるのではないか。それゆえに、戦争というものはなるたけ避けなくてはならないのだ。

わたしには殺すということは謎なのである。平和に暮らすほとんどの人にとっても同じことであろう。それが戦争では、当り前のことになってしまうのだ。

中沢新一『増補改訂 アースダイバー』

晴。
蝉時雨がぐわーんという感じ。地上ではたった一週間しか生きていられないのだから、燃焼力がすごい。

午前中、甥っ子の勉強を見る。

昨晩、中沢さんの『増補改訂 アースダイバー』を読み終えた。あー、常備薬をついに読み切ってしまった。半年くらいかけて読んだことになるな。最初の『アースダイバー』はちょっとエッチな雑誌に軽い思いつきという感じで連載されたものだが、おそらく中沢さん自身も予想外だったであろう広がりをもったな。『アースダイバー』とは何かという問いはいまだにオープンで答えられるものではないが、考古学、歴史学民俗学の成果に、歴史的・人類学的想像力(ここが中沢さんの強みである)を加味した人文地理学的試みとでもまとめてみるか。しかし、これはあまりよいまとめとはいえないのは明白だろう。中沢さんのごとき「想像力」をもつ存在はわたしの知る限り現在他にひとりもおらず、かけがえのない存在になってしまっているが、我々はこの千分の一でも身につけてさらなる先を進められないものかと思う。それくらい、魅力的で重要な仕事ではあるまいか。土地の霊を地形と歴史の中でよみがえらせてやること。深い歴史的想像力を土地にもつこと。

増補改訂 アースダイバー

増補改訂 アースダイバー

大阪アースダイバー

大阪アースダイバー

アースダイバー 東京の聖地

アースダイバー 東京の聖地

中沢さんのやっていることは達人による信憑性のある「空想」にすぎないといえばそうなのであるが、重要なのはその「空想」によってその空間における我々の生き方が変ってしまうということである。日本の土地はいまや田舎でもパッチワーク状に壊れ、死につつあるのであり、それは我々の「空想」がなければ息を吹き返すことはないのだ。


甥っ子を駅まで送ってから、米屋と肉屋、スーパー。

蝉時雨を聞きながら浴槽につかっていたら茹で上がってしまった。馬鹿者である。

鈴木大拙を読む。選集をすべて読むつもりだが、じつのところはこの一冊だけ何度も繰り返して読んでもよいのである。というか、そうあるべきなのか。何となく完読したくなるのは老書生の悪癖というべきかも知れない。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第十二番 K.414 で、ピアノはエヴァ・オシンスカ、指揮はイェジー・マクシミウク、ポーランド室内管弦楽団NML)。ここで聴いたオシンスカのモーツァルトだが、これもなかなかよい。伴奏もピアノとよくマッチしている。全集になるのだろうか、期待したい。

Mozart: Koncerty fortepianowe

Mozart: Koncerty fortepianowe

なお、オシンスカについて検索してみたところ、ひどいことが書かれたものがいくつかヒットした。それ以外にはほぼなし。真偽はともかく、胸が悪くなってくる。■シベリウス交響曲第二番 op.43 で、指揮はコリン・デイヴィスボストン交響楽団NMLCD)。■シマノフスキの「十二つの練習曲」 op.33 で、ピアノはアンドレア・ヴィヴァネート(NMLCD)。

こともなし

日曜日。曇。
昨晩は中沢さんの『アースダイバー』を読んで寝た。時々、必要なだけほんの少しづつ読んでいる。おもしろいなあ。

NML で音楽を聴く。■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Contrapunctus I, II, III, IV, V, VI a 4 in Stylo Francese, VII a 4 per Augmentationem et Diminutionem, VIII a 3, IX a 4 alla Duodecima, X a 4 alla Decima, XI a 4 で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NML)。現代の SNS の気持ちの悪い世界に気が滅入ってどんどん落下していっても、バッハはさらに広く深い。

Art of Fugue

Art of Fugue

ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第十五番 op.144 で、演奏はフィッツウィリアム弦楽四重奏団NML)。これでフィッツウィリアムQ のショスタコーヴィチを全部聴き終えた。思っていたよりもずっとよかった。初めてショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲を聴く方にはボロディンQ の旧盤を勧めるけれど、これも決して悪くない。他に NML にないかな。
String Quartets (Comp)

String Quartets (Comp)

 
ちょっとクソマジメで覆われていたので下らぬことをする。

どうでもいいのだが近年、男が女をエロい目で見てはいけないという規範が一般化してきて、すごい時代になったなあと思う。それとも、わたしの考えすぎだろうか。それは職場とかの話だろうといわれるかも知れないが、職場では女性のちょっとした仕草にエロスを感じたりしちゃダメなんですよね。まあわたしは「会社」というところで働いたことがないが、もし働いていたらわたしの行き着く先はセクハラおやじだったろうなと思う。

こともなし

晴。
朝から蝉時雨がやかましいくらい。

NML で音楽を聴く。■シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」 op.6 で、ピアノはフィリッポ・ガンバ(NML)。ライブ録音。この曲は名曲なのだが、効果的な演奏がむずかしい曲でもある。これはかなり崩した演奏で、自分は何にせよ崩した演奏というものはあまり好きではないのだが、許容範囲というところか。あざやかで感心するところもあるし、全然もの足りないところもある。もともとオリジナルにない音符を付け加えたのは、どうかな。

Schumann: Humoreske, Op. 20 & Davidsbündlertänze, Op. 6

Schumann: Humoreske, Op. 20 & Davidsbündlertänze, Op. 6

ベートーヴェン交響曲第二番 op.36 で、指揮はルネ・レイボヴィッツ、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団NML)。すばらしい。
Beethoven: The Nine Symphonies, Vol. 2

Beethoven: The Nine Symphonies, Vol. 2

 
長いこと昼寝。

加藤典洋さんの評論集を読んでいたが、結局本書は自分には読めないことがわかった。「ゆるやかな速度」という表題作で、あだち充のマンガ『タッチ』や『みゆき』が語られる。そこで、『タッチ』の南はどうして和也ではなく達也に惹かれるのか、とかいうことが例えば論じられているのだが、わたしはこういう文章が恥ずかしくて読めないのである。これは、別に加藤さんに限らず、若い人たちがマンガやアニメに関してもっともらしく語るのでも同じで、ほとんど読めない。マンガ論で読めるのは、関川夏央や本書にも少し引かれている大塚英志くらいだ。それは、わたしがマンガやアニメを軽んじているからだろうか? 自分のことについてはよくわからないのだが、わたしは既にものごころ付く頃からマンガやアニメの中で育ってきた世代であり、人並みにそれらを消費してきたのであり(例えば『タッチ』も『みゆき』もふつうに読んだ)、決して自分では軽んじている感覚はない。ただ、それらについて「恥ずかしくてマジメに語れない」あるいは「マジメに語っているものが恥ずかしくて読めない」というのは事実だ。だから、本書はその時点でまともに読めなくなってしまった。あとは、「ルサンチマンと虚構」で、村上春樹を dis っている蓮實重彦に反論してみせたり、やってるなと思うが、パラパラ頁を繰ったくらいである。
 まあ、わたしが古くさい人間だからということでもあろう。加藤さんや鶴見俊輔さんは、マンガが語れるほど精神年齢が若いのかも知れない。わたしは自分を恥ずかしく思う。

ゆるやかな速度

ゆるやかな速度

 
石牟礼道子さんの自伝を読み始める。心動かされるような本をひさしぶりに読む感じ。我々は遠いところまで来てしまったのだなとつくづく思う。どこで間違ってしまったのだろう。いや、どこでも間違っていなくて、これは必然だったのかも知れない。いずれにせよ、回転する歯車を逆転するのはもうムリな気がする。

入浴前に部屋掃除。さっぱりした。


クリストファー・R・ブラウニングを読む。
散歩できるくらい早く涼しくなってほしいな。

シューベルトの「白鳥の歌」 D957 で、バリトンはディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ピアノはアルフレッド・ブレンデルNML)。

シューベルト:歌曲集「白鳥の歌」

シューベルト:歌曲集「白鳥の歌」

ピーター・L・バーガー『聖なる天蓋』

晴。
大学で生物学のある分野が全然わからないという夢を見る。随分と昔に見た夢と同じタイプで、一種の悪夢だろうな。実際はそんな学問の分野とは自分はまったく関係がないので、何か別のところから来ている夢なわけだが。謎。


NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番 op.15 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチ、指揮は小澤征爾、水戸室内管弦楽団NML)。2017年の日本でのライブ録音。悪くないのだが、小澤もアルゲリッチも昔はこんなものじゃなかったよなと少しさみしく聴いていた。でも、気のせいか第二楽章の途中くらいからかよくなってきて、終楽章は「やるなあ」と思った。聴いてよかったと思う。

演奏順では先になるのかな、小澤征爾の指揮で第一交響曲を聴き始めたのだが(NML)、悪くないけれど、小澤征爾はホントはこんなもんじゃない。もういいかなという感じで聴き止めた。■シマノフスキの「四つの練習曲」 op.4 で、ピアノはアンドレア・ヴィヴァネート(NMLCD)。こういうスクリャービンみたいなの、好きだなあ。

午前中、甥っ子の勉強を見る。

暑い。
夕方、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー410円。加藤典洋さんの『ゆるやかな速度』という評論集を読む。僕は加藤さんは…、果たして読んだことがあるのか。もしかしたら初めて読むかも知れない(追記。ブログ検索してみたらそうではなかった)。とりあえず、「鏡の前にいるもの」「村の家からノルウェイの森へ」を読んだ。「心臓を抜かれた言葉」は大量の引用が中心の長い論考なので、途中で読むのを中断した(あとで読む)。一読して、この人も頭のよい人だな、で、「類似」の人だなとすぐにわかった。「類似」の人というのは異なったものの類似性に気づく能力をもった人ということで、これこそが「才能」なのである。ちなみにどうでもよいが、凡庸なわたしは「類似」の人ではない。
 最初の二つの論考は、自分の能力ではよくわからなかった。「鏡の前にいるもの」はラカンの「鏡像段階」を支点とした論考であるが、ポオの「ヴァルドマアル氏の病歴の真相」とカフカの「変身」と村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』が「鏡像段階」で結び付くというアクロバットがよくわからない。やはりわたしは凡庸だなと思った。「村の家からノルウェイの森へ」は、中野重治の「村の家」とこれも村上春樹の『ノルウェイの森』が、「心の冷たさ」(江藤淳)あるいは「恥知らず」を支点に接続される。ただし、それは肯定的にである。これも、わたしの理解を超えていた。
 これらに村上春樹は共通して論じられているが、「心臓を抜かれた言葉」もまたそうである。どうも、執筆時点(本書刊行は1990年である)でブームになっていた村上春樹の「擁護」という面が大きそうだ。どうやら、村上春樹を「読めない」従来の「ハードな知識人」たちが村上春樹を低く見るのに、異議を申し立てたい(というかたぶんむかついていたのだろうとこれは下衆の勘繰り)という感じである。なかなかおもしろいのではないか。ちなみにこれもどうでもよいが、わたしは村上春樹に対して全然アンチではなく、まあマンガやアニメに近い感覚でこれまで読んできた。加藤さんにはこれを「文学的に」擁護したいという意志を感じる。続けて読む。

ゆるやかな速度

ゆるやかな速度

ピーター・L・バーガー『聖なる天蓋』読了。薗田稔訳。

聖なる天蓋 (ちくま学芸文庫)

聖なる天蓋 (ちくま学芸文庫)