ピーター・L・バーガー『聖なる天蓋』

晴。
大学で生物学のある分野が全然わからないという夢を見る。随分と昔に見た夢と同じタイプで、一種の悪夢だろうな。実際はそんな学問の分野とは自分はまったく関係がないので、何か別のところから来ている夢なわけだが。謎。


NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番 op.15 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチ、指揮は小澤征爾、水戸室内管弦楽団NML)。2017年の日本でのライブ録音。悪くないのだが、小澤もアルゲリッチも昔はこんなものじゃなかったよなと少しさみしく聴いていた。でも、気のせいか第二楽章の途中くらいからかよくなってきて、終楽章は「やるなあ」と思った。聴いてよかったと思う。

演奏順では先になるのかな、小澤征爾の指揮で第一交響曲を聴き始めたのだが(NML)、悪くないけれど、小澤征爾はホントはこんなもんじゃない。もういいかなという感じで聴き止めた。■シマノフスキの「四つの練習曲」 op.4 で、ピアノはアンドレア・ヴィヴァネート(NMLCD)。こういうスクリャービンみたいなの、好きだなあ。

午前中、甥っ子の勉強を見る。

暑い。
夕方、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー410円。加藤典洋さんの『ゆるやかな速度』という評論集を読む。僕は加藤さんは…、果たして読んだことがあるのか。もしかしたら初めて読むかも知れない(追記。ブログ検索してみたらそうではなかった)。とりあえず、「鏡の前にいるもの」「村の家からノルウェイの森へ」を読んだ。「心臓を抜かれた言葉」は大量の引用が中心の長い論考なので、途中で読むのを中断した(あとで読む)。一読して、この人も頭のよい人だな、で、「類似」の人だなとすぐにわかった。「類似」の人というのは異なったものの類似性に気づく能力をもった人ということで、これこそが「才能」なのである。ちなみにどうでもよいが、凡庸なわたしは「類似」の人ではない。
 最初の二つの論考は、自分の能力ではよくわからなかった。「鏡の前にいるもの」はラカンの「鏡像段階」を支点とした論考であるが、ポオの「ヴァルドマアル氏の病歴の真相」とカフカの「変身」と村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』が「鏡像段階」で結び付くというアクロバットがよくわからない。やはりわたしは凡庸だなと思った。「村の家からノルウェイの森へ」は、中野重治の「村の家」とこれも村上春樹の『ノルウェイの森』が、「心の冷たさ」(江藤淳)あるいは「恥知らず」を支点に接続される。ただし、それは肯定的にである。これも、わたしの理解を超えていた。
 これらに村上春樹は共通して論じられているが、「心臓を抜かれた言葉」もまたそうである。どうも、執筆時点(本書刊行は1990年である)でブームになっていた村上春樹の「擁護」という面が大きそうだ。どうやら、村上春樹を「読めない」従来の「ハードな知識人」たちが村上春樹を低く見るのに、異議を申し立てたい(というかたぶんむかついていたのだろうとこれは下衆の勘繰り)という感じである。なかなかおもしろいのではないか。ちなみにこれもどうでもよいが、わたしは村上春樹に対して全然アンチではなく、まあマンガやアニメに近い感覚でこれまで読んできた。加藤さんにはこれを「文学的に」擁護したいという意志を感じる。続けて読む。

ゆるやかな速度

ゆるやかな速度

ピーター・L・バーガー『聖なる天蓋』読了。薗田稔訳。

聖なる天蓋 (ちくま学芸文庫)

聖なる天蓋 (ちくま学芸文庫)