こともなし

晴。

午前中、甥っ子の勉強を見る。

昼過ぎ、甥っ子を駅まで送っていったついでに図書館。スーパー。しかし、岐阜はどうしてこんなに暑いのか。テレビを見ていると暑い土地の常連になっているな。今日は車外は 40℃だった。室内との温度差だけで疲れる。

ピーター・L・バーガーを読む。

NML で音楽を聴く。■シマノフスキの「九つの前奏曲」 op.1 ~ No.2, No.4, No.6, No.7, No.9 で、ピアノはアンドレア・ヴィヴァネート(NML)。スクリャービンかという感じでよい。

Andrea Vivanet Plays Szymanows

Andrea Vivanet Plays Szymanows

■石井眞木の「遭遇 II」で、指揮は小澤征爾、日本フィルハーモニー交響楽団雅楽アンサンブル(NMLCD)。これを聴くとレコード会社は小澤征爾にもっと現代音楽を録音させるべきだったとつくづく思う。■シェーンベルク弦楽四重奏曲第四番 op.37 で、演奏はアルディッティ弦楽四重奏団NMLCD)。

現代詩文庫『白石かずこ詩集』

晴。暑くなりそう。
昨晩比較的遅くまで起きていたので眠い。

午前中、甥っ子の勉強を見る。
昼食を食べて、さらに一時間ほど今度はおじいに見てもらうことになった。大変ですなあ。

蝉時雨がすごい。こちらの鼓膜が破れそうなくらい。緑ではなくて透明なブルーのアゲハチョウがすごくきれい。これはあんまりいない。ふつうのアゲハチョウはよく飛んでいる。


NML で音楽を聴く。■モーツァルトのフルート協奏曲第二番 K.314 で、フルートと指揮はクルト・レーデル、モーツァルト管弦楽団NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十番 op.14-2 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。
 
武満徹の「カシオペア」で、打楽器はツトム・ヤマシタ、指揮は小澤征爾、日本フィルハーモニー交響楽団NML)。武満はホントにすばらしい。自分には武満は、いまだ新しさを感じる極少数の音楽のひとつである。こういうものを聴くと曲についてもっと知りたくなるが、検索しても曲そのものについて踏み込んで書かれている文章は特になかった。しかし、この CD に関する感想はネット上にたくさんある。ツトム・ヤマシタはすごいけど、武満はちょっと物足りないねというのがクラシック・ファンのあるいは最大公約数的な感想であるかも知れないが、わたしには武満とツトム・ヤマシタというまったくちがう個性が一緒になっているところがおもしろい。たぶん、作曲に関しては武満がツトム・ヤマシタを念頭に置き、演奏に関してはツトム・ヤマシタが武満に触発されているのがこの演奏なのではないかと感じられる(勝手な推測ですが)。自分勝手なことをいうと、武満はいまでもよく理解されているとはいえないようで、非常に遠いところからやってくる武満の音楽の自由がなかなか聴き取られていないように(何様ですが)思う。

石井真木:遭遇II番 & 武満徹:カシオペア

石井真木:遭遇II番 & 武満徹:カシオペア

武満は聴きやすいから現代音楽としては幼稚だ、もの足りないという感想がよくあるが、結局その少なからずはどうだオレはむずかしい音楽がわかるんだぜごっこだと思う。まあ、そう自慢したい気持ちはわからないでもないけれど。もちろんそれだけだったら武満はつまらない。あの遠くから来るコスミックなかそけき「共振」が聴き取れるかどうかが武満理解の分かれ目なのではないか。■バルトークの「管弦楽のための協奏曲」で、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンフィルハーモニア管弦楽団NML)。おそらくカラヤン最初期のモノラル録音で、オケはフィルハーモニア管である。冒頭からすごい集中力で、鳥肌が立つとはまさにこういうもの。たぶん、自分の聴いた中でこの曲の代表的な演奏のひとつといってよいレヴェルだ。カラヤンはおかしなことはまったくやっておらず、透明さを感じるほど各パートがくっきりと聴こえている。指揮者は自然体なのだけれど、終楽章などは思わず感動させられました。若きカラヤンのすごさがはっきりとわかる演奏だと思う。

 

池内紀さんの新刊『ヒトラーの時代』についての先日リンクした togetter に、息子さんによる厳しくも情理兼ね備わった一連のツイートが追加されている。わたしは息子さんはあまり好きではないけれど(しかし腹の据わった一流の学者である)、これはちょっと感動的だった。池内紀さんは昨年の猛暑で体調を崩され、文字どおり「めっきりと老け込」まれたそうだが、本を書くことが生活の大部分である人なので書くのを止めることはないかも知れない(そして「書くな」ともいえない)とのことでした。立派な息子さんをもたれたことだな、池内さんは。

図書館から借りてきた、現代詩文庫『白石かずこ詩集』読了。

白石かずこ詩集 (現代詩文庫 28)

白石かずこ詩集 (現代詩文庫 28)

ギュンター・グラス『蟹の横歩き』

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第三番 BWV1005 で、ヴァイオリンはヤッコ・クーシスト(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第九番 op.14-1 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。

午前中、甥っ子の勉強を見る。

暑い。
夕方、イオンモール。夏休みになって駐車場が混んでいる。フードコートの席は何とか空いていたけれど。
ミスタードーナツフレンチクルーラーブレンドコーヒー378円。図書館から借りてきた、ギュンター・グラス『蟹の横歩き』読了。池内紀訳。これまでに何度か書いたが、なかなか複雑厄介な小説だった。ヴィルヘルム・グストロフ号自体は、本書の真ん中のあたりで沈んでしまうので、その後は語り手の物語になる。なるほど、グラスはこういう終わりにしたのか。こうなると、グラスの意図は「ヴィルヘルム・グストロフ号事件」というよりは、戦後の物語の方にあるのだろうか。いや、簡単にそうともいえないし、わたしにはわからないところである。いずれにせよ、伏線は回収しないといけないしなあ。訳者解説によると、本書は驚くべきことにドイツではベストセラーになったそうで、これが日本だったらさすがにそれはないだろうと思われるから、それだけ老グラスの新作をドイツ人は待っていたのか、すごいですね。
 僕はグラスは『ブリキの太鼓』(これも池内紀訳)しか読んだことがないのだが、これがグラスの処女作なのだそうで、知らなかったなあ。これもしたたかな小説で、若くしてこれが書けるというのはやはり驚きである(驚いてばかりですが)。グラスの他の作品もできれば読んでみたい。それから、若い時に武装SS に所属していたことを老いてからカミングアウトしたのは、もし自分なら可能かと考えると、やはりなかなかできることではないと思う。

なお蛇足ながら、「蟹の横歩き」というのは、一直線に「真実」へ向かって歩んでいくのではなく、蟹が「横歩き」するように、ジグザグに少しづつ、対象へにじり寄っていくということが含意されているのだろう。

Yahoo!ブログがサービスを終了するのだな。はてなもだいぶサービスを終わらせているとおり、Web サービスはいつまでもあるものとは到底いえない。たんなる電子データだから、消えるときは簡単に消えてしまう。その意味で、まだまだ書物というものは残るかもしれない。いや、書物も電子データも消えて、そうしたものは何もなくなるのかも。まあそれならそれで、いっそさっぱりしているのではないか。

そういうことが気になる人は、自分でサーバを調達して発信すれば多少は対策になるが。だから、まだ RubytDiary とか使っている人が一定数いるものね。

ああ、はてなダイアリーからはてなブログへの自動インポートが完了したのだな。意外と早かったな。
はてなダイアリーからはてなブログへの自動移行が完了し、はてなダイアリーでの記事の公開が終了しました - はてなダイアリー日記

こともなし

曇。
へんな夢を見たし、何か全然ダメだな。

午前中、甥っ子の勉強を見る。いつも終わると「フゥー」って感じ。よく頑張っているよ。

何か自分、ズレているというか。感覚がおかしい。

昼寝というか、夕方寝。


NML で音楽を聴く。■モーツァルトのフルート協奏曲第一番 K.313 で、フルートと指揮はクルト・レーデル、モーツァルト管弦楽団NML)。

Concertos Pour Flute En Sol M./K.3

Concertos Pour Flute En Sol M./K.3

 
モーツァルトのピアノ協奏曲第十九番 K.459 で、ピアノと指揮はダニエル・バレンボイムNML)。若い頃のバレンボイムはじつにすばらしいな。
Mozart: Complete Piano Concertos 1-27

Mozart: Complete Piano Concertos 1-27

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十一番 op.22 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。よい。■シェーンベルク弦楽四重奏曲第三番 op.30 で、演奏はアルディッティ弦楽四重奏団NMLCD)。

こともなし

日曜日。曇。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第一番 BWV1002 で、ヴァイオリンはヤッコ・クーシスト(NMLCD)。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十五番 K.421 で、演奏はモザイク・クァルテット(NMLCD)。


晴。車外は36℃。
珈琲工房ひぐち北一色店。ギュンター・グラスの続き。前にも書いたとおり厄介な主題なので、グラスはわざわざ複雑な体裁で本書を書いている。歴史的な事実(といっても詳細がわかるのは一部だけなのである)と語り手の物語を様々に織り重ねて、なかなか話が進んでいかない。語り手の物語も、「ヴィルヘルム・グストロフ号事件」と直接絡めながら、現代のインターネットにおけるネオナチや反ユダヤ主義の問題と接続させている。政治的な問題を小説で扱うのはもちろんたいへんにむずかしいことだが、グラスというのはまったく一筋縄ではいかない小説家だ。本書は池内紀さんの例の何でもつるつる流れていく散文で訳されてはいるが、それでも読むのは簡単でない。


ジャングルになっているウチの庭。夏である。
20190728160135
夕方、老父を手伝って少し畑仕事をする。台風でいろいろ倒れたり何やらしたので。


池内紀さんの中公新書新刊『ヒトラーの時代』はそのうち買おうと思っていたが、ドイツ史の専門家たちに徹底的なダメ出しをされている。
togetter.com素人なので断言はできないけれど、これは歴史書として致命的っぽい。何よりこの三十年ほどの文献がまったく参照されていないらしい。初歩的な事実誤認もたくさん指摘されている。ここでも書かれているが、「信頼の中公新書」ブランドなのがつらい…。池内先生、このところファクトがおろそかになっているという指摘がちらほらあったのを知っているが、もう八十歳近くにもなって中公新書を書くのはお止めになっていた方がよかったのか。ドイツ史の専門家が、これを自分がやったら一発で信用を失うと言うのはきびしい。

それにしても、コメント欄で聞いた風のことを言っている奴らは何なのだ。専門家の批判の尻馬に乗って喜んで叩いているだけの人間が相当に多いのではないか。まあいつものことだけれども。

吉本隆明『改訂新版 共同幻想論』

雨。台風接近。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第二番 BWV1003 で、ヴァイオリンはヤッコ・クーシスト(NMLCD)。

午前中はごろごろしていた。

ブラームス交響曲第二番 op.73 で、指揮はピエール・モントゥー、ロンドン交響楽団NML)。有名な録音らしい。

BRAHMS/ SYMPHONY No.2,OVERTURES

BRAHMS/ SYMPHONY No.2,OVERTURES

ブラームスの「悲劇的序曲」 op.81、「大学祝典序曲」 op.80 で、指揮はピエール・モントゥー、ロンドン交響楽団NML)。「大学祝典序曲」の最後に引用される「ガウデアムス」に個人的な思い出があるので、この曲は好きというか、懐かしさを覚える。■シェーンベルク弦楽四重奏曲第二番 op.10 で、演奏はアルディッティ弦楽四重奏団、ソプラノはドーン・アップショウNMLCD)。

午後三時頃、風雨強し。
 

20190727213117
けものフレンズ」最終話を見る。


吉本隆明『改訂新版 共同幻想論』を再読し終える。内容についてわたしごときに言えることは何もないが、とにかく再読はおもしろかった。今回が読めているわけではないけれども、とにかく初読時は何も読めていなかったね。そして、日暮れて道遠しをまたしても痛感する。たんなるスノッブ的なことすらうまくいえないな。本書を誰かが「偽史」と一刀両断していたが、まあそんな風にも読めるかも知れない、つまり本書はクズであると。わたしにはその言の真偽すら判定できないわけだが、吉本さんの掘削力は何とかこの身に刻み込ませたいと思って読んだといっていいし、わたしにはそのような読み方くらいしかできないだろう。本書は昔も今も、アカデミシャンに読まれるような本ではない。本書を読んでも、学術論文を書く足しにはおそらくならないだろう。
 それにしても、最後まで読んでも本書は国家論ではなかったようだ。いや、それはいいすぎかも知れなくて、国家に関してはある意味ではその「起源」を与えるものである。しかしそれも、「幻想」という一種の認識の土台というものを通しての、古代日本の国家起源論とでもいうべきか。そしてさらにいうと、国家の起源よりも、むしろ「幻想」の解明の方が重要なのであり、それはこれ以降の吉本さんの書くことの武器としてさらに研磨されていったにちがいない。とにかく、「共同幻想論」という題名は掛け値なしに正しかった。

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

でも、以上もわたしの気持ちを正確に言っていない気がする。結局、わたしは凡人として、できるだけ前進したいし、それは何かに特化せざるを得ないアカデミズムとはあまり関係のないことである。そのための決して多くない叙述家を、樹液をたっぷり含んだ叙述家を渇望しているだけなのだ。たんに、個人的な動機にすぎない。

いまつい「前進」と書いてしまったが…。おそらくは他人には伝わらないだろうな。

こともなし

晴。

午前中、甥っ子の勉強を見る。

コヴァセヴィチの CD BOX セット落手。


夕方、吉本さんの『共同幻想論』の再読の続き。わたしにはわからないところも多いが、とてもおもしろい。全体の三分の二を読んだが、本書が国家論でないことがますます明らかになっている。もちろん、この先で国家論を含むのであろうが。それにしてもわたしはヘーゲルマルクスもいいかげんにしか読んでいないので、というかまともに読めていないので、全然お話にもならないと思う。まあ、吉本さんのヘーゲルマルクス理解は独特な(それで相手にされていない)ようにも思われるけれども。

しかし、わたしが結婚していなくて子供もいないことが、こうした本を読むのにハンデを負うことになるとは。なに、そんな個人的なことが読書に関係するのか? 吉本さんの場合は、それが大いに関係するのである。吉本さんは、自分でがっちり掴んでいるものを基礎にしていて、つまりはいつもどおり、自分もまたファクトのひとつであることを堂々と利用している。そこらあたりが、吉本はうさんくさい(あるいは滑稽)といわれるところかも知れない。外国のもっともらしい文献でお茶を濁したりしないのである。それがいかに下らない態度といわれても、わたしもまたそういう理解の仕方を、いろいろと次第に学んできたわけである。それがどう言われようがかまわないのだ。

吉本さんが苦労しているのは、見えているものを論理に落とし込む作業である。吉本さんに見えているのは、必ずしもロジカルな姿をしていないので、必ずしも論理化がうまくいくとは限らない。これもまた、いつものことだ。つまり、これはパズルを解いているのではないのだ。むしろ、地中に埋もれているものを掘り出すに近いか。

吉本さんとブリコラージュ。


このところ行き詰まっているのを感じる。その時に応じて自分がどうすればよいか悩まずわかればよいが、そんなわけにはいかないのが自分の未熟さだ。ただただいろいろ工夫するしかない。