こともなし

昨日は旅行から帰って早く寝たので、深夜起床。
明け方にかけて頑張って日記を書く。

晴。

午前中、少し寝る。
浅く短い夢に、小中学校でわりと仲のよかった S君が出てきた。夢自体は下らないものだったが、どうして忘れていた S君だったのか。高校卒業後に某所で偶然に出会ったことがある。一人っ子で、片親を早く亡くされて、どこか関西だったかの方へ行かれたとのちに人から聞いた。S君宅はウチからはわりと近くて、いまも近くを散歩することがあるが、とてもその前を通ることができない。立派な門のある大きな百姓家屋であった。いまも残っているとして、たぶん誰も住んでいないのであろう。それを確かめる気も起きない。

図書館。この時間だと利用者は基本的にお年寄りだな。あと、絵本の読み聞かせがあるようで、若い母親と子供という組み合わせも多かった。いま何かと話題の「中年ひきこもり」にはちがいないわたしのような者はさすがにおりませんな。

暑い。
昼から肉屋。ドラッグストア。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。今日は持ち帰りで家族の分のドーナツも買う。
先ほど図書館で借りた、篠田一士さんの文芸時評集を読む。たまたま批評本の棚を見ていて見つけた。平野謙江藤淳に次ぐ毎日新聞での文芸時評(1979-1986)をまとめたもので、今はない小沢書店の刊行に係る。それこそ文芸時評なので、すべての活字を細かく読むというよりは、ざっと見ていきながら興味深いところは詳しく読むというような感じで、結構読んだが、なにしろ分量が多くてまだ全体の四分の一くらいか。篠田さんはそれほど犀利な批評家ではないように思われるが(何様)、まだまだ古典的な文学というものに信頼がある時代で、手堅く読んでいけるところがホッとする。例えばここまでで高く評価されているのは石川淳の『狂風記』や大西巨人の『神聖喜劇』など。一方で、村上春樹のデビュー作は「アメリカの新小説の下手な口真似」(p.34)と一刀両断であるし、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』はもう少し高く評価されてはいるが、それでも数行の言及に過ぎない(p.143)。こんな感じで、だいたいの評価基準がわかるのではないか。立松和平氏(わたしは一冊も読んだことがない)への高評価などはへえと思う。それにしたって、わたしの知らない、あるいは読んだことのない作家が多い。そこいらが、なかなかおもしろいのである。あと、詩・詩集が積極的に取り上げられているのはすばらしい(といってもわたしは詩は(詩も)よくわからないのだが)。続けて読む。


NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十五番 op.28 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。この曲はどちらかというと中性的な、ファンタジックなそれだと思うが、コヴァセヴィチは力強く男性的に弾いて少しも違和感を覚えさせない。すばらしいし、好ましいよ、これはまったく。■バッハの「音楽の捧げもの」 BWV1079 ~ 三声のリチェルカーレで、演奏はアルテ・レゾルタ(NML)。

Musical Offering Bwv 1079

Musical Offering Bwv 1079

篠田一士さんの前掲書、半分ほど目を通した。とにかく知らない小説、詩集ばかりである。もちろん、著者の要約するあらすじを読んでもどうしようもない。しかし、上に傲慢なことを書いたが、おそらく篠田さんの 100分の1くらいしか文学を読んでいないであろうわたしごときが、文学云々と言って、いったい何の意味があるのか? そして、わたしに篠田一士の何がわかるというのか? みずから疑問に思っているところである。
 一方で、わたしはこんなことも思う。篠田さんは小説の本質はロマネスクにある(p.248)と断言されているが、それはつまり、お話のおもしろさ、あるいは読んでおもしろいということか知らん、と。わたしの展開は幼稚であろうが、仮にその展開がそれほどのまちがいでないとして、じゃあそれはマンガやアニメとどうちがうのか。わたしは、マンガもアニメも、別にきらいではまったくないが、マンガを読むのもアニメを見るのも、かなり以前から重度の無感動になってしまった。凡庸にも、もう擦り切れてしまったのである。それに、既に老化してめんどうくさい。あるいは幾らかのマンガ・アニメが幼稚くさくて疲れる。じゃあ小説は読むとして、どうしてそんなことをするのか。確かにおもしろさを求めてはいるのだろうが、それでもどうして小説を読むのか、たぶん自分でよくわからない。小説がマンガやアニメとちがうとして、何がちがうのかもわからない。篠田さんの文学評は、いま溢れているマンガやアニメの評とさほど変わらないような気がする。いっておくが、それらマンガやアニメの評というのは相当に高度なものが存在していて、わたしなどにはめんどうなくらいだ。だからどうだというわけではないですけれども。ふむ。

わたしは、小林秀雄が散々拘ったところの、あの古くさい「文体」という語を何となく思い出す。わたしは「形」を見ている気がする。本書には、小林秀雄的な意味での「文体」という語はこれまでに一切登場していないと思う。かかる「文体」*1など、いまではまったく通用しない。小林的な意味での「文は人なり」ということは、いまや完全に消滅したのである。そんなことをつらつら思う。

*1:これは外国語に翻訳不可能である。もちろん、例えば英語の style などではない。

諏訪家族旅行(第二日)

今日は基本的に昨日の廻り残しを訪ねて、あとは帰るだけの予定。
 

九時くらいにチェックアウトして、まずは片道30分ほどかけて、霧ヶ峰高原へ。しかし、曇っていて(あるいは霧ヶ峰だから「霧」か)、全然景観がきかないし、それに時間が早かったせいかそれともシーズンでなかったのか、誰もいなくて荒涼としていた。雨までぽつりぽつりと。這々の体(ほうほうのてい)で帰ってきました。

あとは諏訪大社の下社二つへ行くのみ。さて、他の人にはどうでもよいことですが、二十年以上前、ウチが家族旅行というものに行き始めた最初がじつは諏訪で、そのとき訪れたのが下社の春宮か秋宮のどちらかだった。しかし奇怪なことに、事前に調べてもそのどちらだったのか、全然わからないのです。というわけで、その確認みたいなものもしたかった。とりあえず、下社秋宮に行く。うーん、ここだったのだろうか?


つぎに下社春宮へ。ますますわからないが、かつて参道に土産物屋があったので、やはり下社秋宮だったのか…という頼りない結論に。あんまりわからないのでもう一度秋宮近辺を探したりしたのだが、はっきりしたことはわからなかった。まさしく往時茫々とはこのことであった。
 なお、いちばん下の写真は、春宮近くの「万治(まんじ)の石仏」というもの。

これで予定はおしまい。昼食は蕎麦でもと思っていたのだが、調べたところが定休日(情報がネットに出ていなかった)などその他もろもろで、結局岡谷IC から中央道に乗り、駒ヶ岳SA のレストランで食べることになる。でもさすが信州というべきか、期待していなかった蕎麦が結構旨くてよかった。あとは一気に 200 km を帰るのみ。四時過ぎ、帰宅。二日間で 499.2 km、とても楽しい小旅行でした!

諏訪家族旅行(第一日)

以前から諏訪へ行こうと考えていたのだが、老母がネットで格安の宿を見つけたので、梅雨前に急遽実行することに。

八時前に出発。いつものごとく岐阜各務原IC から東海北陸自動車道に乗り、東海環状自動車道経由で中央自動車道へ。よい天気だ。中央道は二度目で、岐阜県から長野県へ抜ける恵那山トンネルが長い(8km 以上ある)。ほぼ一時間おきに恵那峡SA、駒ヶ岳SA で休憩しつつ、中央道伊北IC で高速を降りる。


辰野美術館へ。ここは辰野町町営のなかなか立派な美術館で、地元の美術家の作品を展示する他、特に我々のお目当ては地元で出土した縄文土器、縄文土偶である。上の写真(撮影可)を見てもらえればすぐにわかりますね。それほどたくさんの出土品が展示されているわけではないが、質が高く、見ごたえたっぷりであった。上の仮面土偶などは小さいながらとても魅力的で、(たぶん片腕が欠けているせいでもあろうか)特に国指定の文化財というわけではないのだけれど、どうですか、これ。他に展示されている縄文土器もすばらしく、縄文前期からのものなどがあって、しばし時間を忘れるほどだった。わたしは半ば本気で日本のピークは縄文時代ではないかと思っているのだが、その認識を新たにした。それにしても、何という遊び心にあふれた土器たち! わたしは、この土器を作っていた人たちはきっと半ば楽しんでいたと確信している。そしてそこから、縄文人たちの「精神性の豊かさ」(それ自体は陳腐な語句であるけれども)が垣間見えるような気がしてならない。

ふたたび中央道にに乗り、諏訪IC で降りる。もうお昼の時間なので、「おぎのや諏訪インター店」というドライブインにて昼食。ここのウリはいわゆる「峠の釜飯」で、かつては信越本線横川駅の駅弁として売られていたもの。いまは碓氷峠に列車は走ってはいないので、ここで食べられるというわけですね。特に期待していたわけではなかったけれど、思っていたよりもずっとおいしかったです。

茅野市の「尖石考古館」へ。ここのメインは何といっても国宝の二体の「ビーナス」たちである。尖石考古館は先ほどの辰野美術館よりも遥かに規模の大きな、縄文土器土偶に特化したミュージアムで、ここも見ごたえがあります。感想は、先ほどのを繰り返しておけばよいでしょう。すばらしい。

ここからは翌日も含め、諏訪大社を中心に巡ることになります。諏訪大社は全国に一万社もあるといわれる諏訪神社の総本社で、じつはわたしの地元のお宮さんも諏訪神社なのである。さて、諏訪大社といっても諏訪湖近辺に、全部で四社あるのを御存知であろうか。上社前宮、上社本宮、下社春宮、下社秋宮の四社である。祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、前者の建御名方神が重要。わたしは日本の古代史に冥く、今度の旅行でだいぶお勉強をしたので超簡単に書いておくと、建御名方神というのは出雲大国主命(おおくにぬしのみこと)の息子であり、神話では「国譲り」で大和朝廷の神に出雲を追い出され、はるばる諏訪まで逃げてくる。そこで諏訪の土着の神(後述する)を征服して、この地に定住することになった。その建御名方神を祀ったのが諏訪大社ということですね。
 さて、それでまず訪れたのが上社本宮であり、それが上の写真である。よく知られていることだけれど、諏訪大社の四社すべての四方に「御柱」(おんばしら)という木の柱が立っていて、それを立てるお祭りは大変に有名です。上の写真にも左に御柱が見える。





神長官守矢史料館」へ*1。ここは今回の旅行でもっとも楽しみにしていたところで、藤森照信氏の設計に係る。守矢氏については、マイナーな話なのだが少しだけ蘊蓄(お勉強したやつ)を語りますね。上で、出雲を追い出された建御名方神が土着の神を征服したと書いたが、じつは土着の征服された方が守矢氏で、のちは代々(征服した方の)諏訪大社の神長官を務めることになった。これは古代史に属する話で、相当に古い話である。資料館内部のシカやイノシシ(儀式で使われた)の写真からわかるように、縄文系の狩猟採集民の文化を残してきているのだと思う。プリミティブなものなのは明らか。伝承は一子相伝で七十代以上続いたらしいが、明治維新で存続できなくなり、子孫の方が資料をまとめたものがここに展示されているものなのですね。資料館の方には大変に詳しいお話を聞かせて頂いて刺激的だった。老母がこのところ凝っているミシャグジ神の話も伺ったり。
 あとはこの近所にある、藤森照信氏設計の「茶室」なども見る。上に載せた三枚の写真がそれですね。とても楽しいものでした。それからここで、たぶん初めてカッコウの鳴き声を聞いた。ホントに「カッコウカッコウ」って鳴くのでまぎれがない。いろいろあって、この場所は楽しかったですね。

最後は上社前宮へ。ここが四社の中でもっとも古いという。

宿は諏訪湖畔の「親湯」。そもそもここに格安プランを見つけて決めた旅行でした。ま、お値段それなりなのだけれど、僕は充分満足でしたね。予後の老母にはよいサービスもあって、よろしかった。満足できる、長い一日でした。

*1:このHPも参考までに。

小島正美『メディア・バイアスの正体を明かす』

昧爽起床。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十六番 K.428 で、演奏はクレンケ四重奏団(NMLCD)。■ハイドン交響曲第八十四番 Hob.I:84 で、指揮はエルネスト・アンセルメ、スイス・ロマンド管弦楽団NMLCD)。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第七番 op.10-3 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」で、演奏はオリヴィエ・メシアン四重奏団(NML)。傑作。二十世紀のマスターピースのひとつであるといわざるを得ない。

Messiaen:Quatuor Pour La Fin Du Tem

Messiaen:Quatuor Pour La Fin Du Tem

 
ガソリンスタンド。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー378円。小島正美『メディア・バイアスの正体を明かす』読了。本書は村中璃子氏のネット記事で知った。というか、その前に、村中璃子氏と子宮頸がんワクチンの副作用に関する我が国における報道の虚偽性についての多少の知識が必要である。子宮頸がんは日本で年間 1万人程度の女性が罹患し、3000人ほどがそれで死亡するとされる病である。発症のほとんどがウィルスによるもので、ワクチンによって 60~70% が予防できるとされる(以上の情報はここから得た)。ワクチンには副作用が存在するが、日本ではその副作用が大々的に報道され、副作用のリスクよりもワクチンのメリットの方が遥かに大きいという科学的なコンセンサスがほとんど知られず、いまでは日本国内に限ってワクチンが接種されることは非常に少なくなってしまった。村中氏はこの誤った報道に反対する活動を続け、それが評価されて 2017年に「ジョン・マドックス賞」を受賞することになるが、じつはわたしも知らなかったのだけれど、日本では名誉毀損で訴えられ、第一審でなんと敗訴してしまったというのである。それを知って、わたしの目はまったく点になってしまった。いずれにせよ、これから日本では子宮頸がんの罹患者の数が増大すると見込まれており、はからずも日本人の女性の生命を賭けた「人体実験」(小島氏の表現)になってしまっている。それで思い出すのは、ツイッターで「あなたの子供にも本当に子宮頸がんワクチンを接種させるのですか」とツイートした接種反対派の女性のことで(わたしはそのツイートを実際にだいぶ前に見た)、彼女の娘さんが気の毒なことになっているなと思わざるを得なかった。また、ウチで取っている新聞(朝日新聞である)にも偏向報道があったことをわたしは実見している。
 で、ようやく小島氏の本である。本書の冒頭三分の一はその子宮頸がんワクチンの偏向報道について書かれていて、その内容はわたしも基本的に賛成できるものだ。本書にはこのような偏向報道が頻発する理由についても考察があって、基本的には記者の無知、勉強していないことや、よく考えずにセンセーショナルなネタに飛びつく姿勢、「市民に弱い」傾向*1、また過去記事の誤りを認めない体質など、それらについてもおおよそは首肯できる内容であった。まあ、わたしが思うに、つまるところは日本の記者(だけではなく、日本人の多くでもあるけれど)が自分の頭で考えず、自分で納得するまで突き詰めずに記事を書いているからこういうことになるのであり、その病はわたしも深刻であると思う。その意味で、本書にある同職業者に対する痛罵も無理はないと思った。
 さてしかし、バイアスというのは誰でも避けがたいものである。わたしは教条主義サヨクであるので、当然そのようなバイアスをもっている。本書の著者は絶対に認めまいが、氏にはわたしと反対の方向のバイアスがかかっているのは否めないとも思った。まあしかし、それは仕方がない。バイアスはどうしてもあるから、それは自分の頭で考えるしかない。
 本書で残念に思ったことは多少あるので、少しだけ書いておこう。ひとつは「バタフライ効果」で、著者はそれを「少数増幅効果」であると書いていて(p.62)、メディアの「珍しい人、例外的な存在、異端的な行動に注目する習性」の比喩として使っているが、この比喩は科学的には完全なまちがいで、比喩として適切でない。「バタフライ効果」は非線形力学系で生ずる初期値への鋭敏な依存性*2のことである(って先日も書いた気がする)。と書いてもたぶん著者にはよくわからないのであろうが、たぶん科学的っぽくて「カッコいいから」使ってみただけだと思うけれど、よく理解できぬことは書くべきではあるまい。
 もうひとつ。そのあとにある「トリックスター」の語であるが、著者はこの語を「この急激なカーブ(S字型カーブ曲線:引用者注)を作り出す人」をこの語で呼ぶと自分で定義しているので(p.66)まあ咎めるまでもないかも知れないが、これは正直言って強引で不適切な定義であるといわざるを得ない。村中璃子氏が「トリックスター」である(p.67)というのは、定義があってもかなりミスリーディングであり、これはたぶん著者が「トリックスター」の語の文化人類学的使用法をよく知らず(知っていればとてもこうは定義できないだろう)、これまた「カッコいい」から使ったものだと思う。
 あとはわたしのイデオロギー的に受け入れられない主張が本書には少なからずあるが、それはまあよいであろう。著者が原発に対し太陽光発電を dis って、廃棄物になったときに困るではないかと仰って原発の廃棄のことを仰らないのはちょっとよくわからないとか、海沿いにある原発海上からのテロにまったく無防備だという事実を無視したり(でもそのことは政府自身が最近気づいた)とかしておられる、そういうことはいうまい。他にもあるが、また別に論ずることでしょうね。基本的によい本だと思う。
メディア・バイアスの正体を明かす (エネルギーフォーラム新書)

メディア・バイアスの正体を明かす (エネルギーフォーラム新書)

思うが、わたしも含め、無謬の人間などいないのである。これは自戒であるが、誤ったときに誤りを認められるか、むずかしいことだがそれが我々に問われているところであろう。なかなか、自分でもそうできる自信はない。それくらい、自分の誤りを認めることはむずかしい。

なお、本書にかなりケチをつけたが、著者はよく勉強しておられるし、言っていることの多くはまともである。それは書いておかないとフェアではないと思ったので追記しておく。ただ、著者でも無謬でないだけだ。それに、議論の仕方に少し残念なところが見られる。例えば、太陽光発電の付加金制度に問題があるというのは必ずしもまちがいとはいえないが、それで使われる「毎年、2〜4兆円もあれば、それこそ保育園の待機児童問題はすぐに解決できる」(p.206)などというのは、関係ないものを無理に関係づけてみせる、よくある間違った論法である(それこそ「リベラル」のよくいう、「戦闘機一機をアメリカから買わなければ待機児童云々」という間違った論法と同じ)。待機児童の問題は太陽光発電の付加金制度にかかわらず解決されねばならないのは明白である。これは残念だ。
 もうひとつ。「地球のどこかに、農薬も、化学肥料も、食品添加物も、組み換え作物も、ワクチンも、原子力も存在しない世界をつくってほしいと思う。そこに住む人たちの間にはリスクをめぐる争いはないだろうが、はたして幸せかどうかを知りたいと思う」(p.235-236)というレトリックなども、著者の考え方がよく出ていると思う。お前ら、科学技術の成果を享受しつつ、偽善をいうなというわけである。これも、科学技術は全肯定するか全否定するしかないというのに繋がる、残念な論法だ。技術は倫理と直交するのであり、極端に陥ってはなるまい。もちろん著者はリスクの評価を推奨しているわけで、硬直化した「リベラル」を排撃するあまり、ただ筆がすべっただけであろうが。

ついでにマジレスしておくと、過去にはそれこそ「農薬も、化学肥料も、食品添加物も」問題であった、つまりかつて少なからぬ人間に実際に害悪を与えたこともあったのだ。「農薬も、化学肥料も、食品添加物も」使って問題にならなくなったのは、人々のそれなりの努力が必要であったことを忘れてはなるまい。また、さらにマジレスしておくと、「農薬も、化学肥料も、食品添加物も、組み換え作物も、ワクチンも、原子力も存在しない世界」だからどうというのは、別に人間の幸福とあまり関係がないのではとわたしは思っている。かつては実際にそうだったのであり、技術が進歩して我々が幸せになったところは確実にあるだろうが、またそれで失われたものもたくさんあったであろう。

思うに、いまの若い人たちは「コスパ」と「リスク」の思考が得意で、それで判断すると例えば子供を作ることは「コスパ」がよくないし、「リスク」も大きいと判断したりするそうだ。まあそれは半分冗談だが、ホント優秀で「リスク思考」は得意だから、問題にするには及びませんよと著者にいいたい気もする。徹底したリスク思考、まったく幸せな人生ではあるまいか。ふふ。

どうでもいいことを書く。わたしはケータイもスマホももっていない貧乏人だが、そのことでいま特に不幸とは感じていない。しかし、スマホをもっている人は、もはやスマホがなければめっちゃ不幸であろう。そういうわたしも、いやわたしの老両親ですら、既にネット(家庭用 Wi-Fi)が繋がらないだけで大騒ぎ(つーほどでもないか)になる。そしてそのうちわたしも、どうしてもスマホを持たざるを得なくなる日がくるだろう。そして、それに依存することになるであろう。進歩とはそういうものなのではないだろうか。

明日から小旅行してきます。

*1:しかしむしろ、「市民運動に弱い」傾向というべきなのではないだろうか。

*2:つまり、初期値がほんの少しちがっただけで、のちの結果が大きく異なってしまうこと。ちなみこれは本題からは外れるが、「バタフライ効果」の科学的な比喩自体、あまりよくできたそれだとは思わない。非科学的な誤解を誘いやすい曖昧なもので、それはここでも証明されている。

こともなし

日曜日。曇。

寝てばかり。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十七番 K.458 で、演奏はクレンケ四重奏団(NMLCD)。悪くないのだけれど、もう少しノイジーでもいいかな。きれいすぎる感じ。
 
散歩。降りそうで降らなかった。
20190602180346
20190602180328
なんか小さいカラス。

何もしたくない。眠い。
早寝。

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのロンド イ短調 K.511 で、ピアノはファブリツィオ・シオヴェッタ(NMLCD)。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十五番 K.421 で、演奏はクレンケ四重奏団(NMLCD)。

大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・セイボリーパイ BBQフランンクフルト+ブレンドコーヒー386円。中沢さんの『アースダイバー』増補改定版を読む。じつにセコいのだが、もったいないのでちびちび読んでいる。『アースダイバー』は中沢さんの本の中ではとっつきやすいのだけれど、大変な可能性を秘めた試みだ。(坂本龍一さんも絶賛していた。)でも、いまのところ中沢さん以外には無理なのだよなあ。我々もこれに学びたいと思う。

ツバメのカップルが乱舞していると思ったら、ミスドの外の壁にツバメが巣を架けていて、子供が二羽大きな口を開けていた。ちょうど客に迷惑がかからない場所だったからだろうけれども、ファストフードのお店がこういうことをしているのを見ると悪くないなと思う。そういや、高速道路のどこかのサービスエリアでも以前見たっけ。

日没前、散歩。
20190601202231
もうだいぶ長いこと見ていなかったキセキレイを見た。
そういや、国の減反政策が既に廃止されていることは御存知の方も多いと思うが、少なくともわたしの家のあたりでは、県か市町村レヴェル(どちらかはよく知らない)で減反政策が続いているのである。散歩するといやでも荒れた田んぼが目につく。補助金行政はなかなかなくならない。まあ、官民癒着といってよろしいであろう。似たような話はまだあるのだが、とりあえずはここまでにしておきましょう。


シューマンのピアノ協奏曲 op.54 で、ピアノはグロリア・カンパネル、指揮はジョン・アクセルロッド、フェニーチェフィルハーモニー管弦楽団NML)。この曲の精神をよく汲んだ名演。あんまりすばらしいので、終楽章はちょっと泣けてしまった。伴奏もピアニストの表現によく合わせていて感動的。ライブ録音であるが、ピアニスト会心の出来ということで CD化されたのだろうか。そうだとしても不思議はない。

HOME - Schumann: Piano Concerto Op. 54 & Kinderszenen Op. 15

HOME - Schumann: Piano Concerto Op. 54 & Kinderszenen Op. 15

  • 発売日: 2018/11/23
  • メディア: MP3 ダウンロード
シューマンの「子供の情景」 op.15 で、ピアノはグロリア・カンパネル(NML)。これもよい。この曲にしては濃密な演奏で、濃密さ自体非凡だと思う。このピアニストにシューマンは合っているようだな。まだあまり知られていない若いピアニストのようだが、そのうち人気が出ても驚かない。■ニコス・スカルコッタスの「トランペット・コンチェルティーノ」、「オーボエ、トランペット、バスーンとピアノのための四重奏曲」第二番(NMLCD)。■ニコス・スカルコッタスの「ギリシア組曲」で、ピアノはロレンダ・ラモウ(NML)。
From Berlin to Athens

From Berlin to Athens

  • アーティスト:Skalkottas / Ramou
  • 出版社/メーカー: Bis
  • 発売日: 2019/06/07
  • メディア: CD

『草木の生起する国: 梅原猛インタビュー』 / アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』

曇。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第十二番 K.332 で、ピアノはファブリツィオ・シオヴェッタ(NMLCD)。このモーツァルトソナタ全集にしたらよいのではないかな。なかなか好ましい。ところで、緩徐楽章の装飾だが、これはどこかで聴き覚えがあるぞ。■ハイドン交響曲第八十三番 Hob.I:83 で、指揮はエルネスト・アンセルメ、スイス・ロマンド管弦楽団NMLCD)。

雨。
外出。

ごろごろしていた。

モーツァルト弦楽四重奏曲第十四番 K.387 で、演奏はクレンケ四重奏団(NML)。なかなかよかった。終楽章はもう少し元気いっぱいでもよかったかも知れない。

Mozart String Quartets

Mozart String Quartets

 

blogos.com基本的に賛成。悲しくなってくるようなインタビューだった。東さんは僕の少し年下で、写真を見てももうすぐおじいさんだなと思う。僕は時代遅れの人間なので、それにもはや希望というものをほとんどもっていないので東さんをフォローしないけれど、若い人たちは彼のいうことを真剣に吟味すべきだと思う。いまや希望は本当に少ない。東さんは家族というものに希望を見ているな。僕は、人間はたぶんもうおわりだと思っている(それが正確にどういう意味かはいうことがむずかしい)。わたしのことは無視して頂きたい。
 
『草木の生起する国: 梅原猛インタビュー』読了。聞き手・東浩紀

草木の生起する国: 梅原猛インタビュー 聞き手・東浩紀

草木の生起する国: 梅原猛インタビュー 聞き手・東浩紀

 
アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』読了。
アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

テ・キ・ト・オ。