小島正美『メディア・バイアスの正体を明かす』

昧爽起床。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十六番 K.428 で、演奏はクレンケ四重奏団(NMLCD)。■ハイドン交響曲第八十四番 Hob.I:84 で、指揮はエルネスト・アンセルメ、スイス・ロマンド管弦楽団NMLCD)。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第七番 op.10-3 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」で、演奏はオリヴィエ・メシアン四重奏団(NML)。傑作。二十世紀のマスターピースのひとつであるといわざるを得ない。

Messiaen:Quatuor Pour La Fin Du Tem

Messiaen:Quatuor Pour La Fin Du Tem

 
ガソリンスタンド。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー378円。小島正美『メディア・バイアスの正体を明かす』読了。本書は村中璃子氏のネット記事で知った。というか、その前に、村中璃子氏と子宮頸がんワクチンの副作用に関する我が国における報道の虚偽性についての多少の知識が必要である。子宮頸がんは日本で年間 1万人程度の女性が罹患し、3000人ほどがそれで死亡するとされる病である。発症のほとんどがウィルスによるもので、ワクチンによって 60~70% が予防できるとされる(以上の情報はここから得た)。ワクチンには副作用が存在するが、日本ではその副作用が大々的に報道され、副作用のリスクよりもワクチンのメリットの方が遥かに大きいという科学的なコンセンサスがほとんど知られず、いまでは日本国内に限ってワクチンが接種されることは非常に少なくなってしまった。村中氏はこの誤った報道に反対する活動を続け、それが評価されて 2017年に「ジョン・マドックス賞」を受賞することになるが、じつはわたしも知らなかったのだけれど、日本では名誉毀損で訴えられ、第一審でなんと敗訴してしまったというのである。それを知って、わたしの目はまったく点になってしまった。いずれにせよ、これから日本では子宮頸がんの罹患者の数が増大すると見込まれており、はからずも日本人の女性の生命を賭けた「人体実験」(小島氏の表現)になってしまっている。それで思い出すのは、ツイッターで「あなたの子供にも本当に子宮頸がんワクチンを接種させるのですか」とツイートした接種反対派の女性のことで(わたしはそのツイートを実際にだいぶ前に見た)、彼女の娘さんが気の毒なことになっているなと思わざるを得なかった。また、ウチで取っている新聞(朝日新聞である)にも偏向報道があったことをわたしは実見している。
 で、ようやく小島氏の本である。本書の冒頭三分の一はその子宮頸がんワクチンの偏向報道について書かれていて、その内容はわたしも基本的に賛成できるものだ。本書にはこのような偏向報道が頻発する理由についても考察があって、基本的には記者の無知、勉強していないことや、よく考えずにセンセーショナルなネタに飛びつく姿勢、「市民に弱い」傾向*1、また過去記事の誤りを認めない体質など、それらについてもおおよそは首肯できる内容であった。まあ、わたしが思うに、つまるところは日本の記者(だけではなく、日本人の多くでもあるけれど)が自分の頭で考えず、自分で納得するまで突き詰めずに記事を書いているからこういうことになるのであり、その病はわたしも深刻であると思う。その意味で、本書にある同職業者に対する痛罵も無理はないと思った。
 さてしかし、バイアスというのは誰でも避けがたいものである。わたしは教条主義サヨクであるので、当然そのようなバイアスをもっている。本書の著者は絶対に認めまいが、氏にはわたしと反対の方向のバイアスがかかっているのは否めないとも思った。まあしかし、それは仕方がない。バイアスはどうしてもあるから、それは自分の頭で考えるしかない。
 本書で残念に思ったことは多少あるので、少しだけ書いておこう。ひとつは「バタフライ効果」で、著者はそれを「少数増幅効果」であると書いていて(p.62)、メディアの「珍しい人、例外的な存在、異端的な行動に注目する習性」の比喩として使っているが、この比喩は科学的には完全なまちがいで、比喩として適切でない。「バタフライ効果」は非線形力学系で生ずる初期値への鋭敏な依存性*2のことである(って先日も書いた気がする)。と書いてもたぶん著者にはよくわからないのであろうが、たぶん科学的っぽくて「カッコいいから」使ってみただけだと思うけれど、よく理解できぬことは書くべきではあるまい。
 もうひとつ。そのあとにある「トリックスター」の語であるが、著者はこの語を「この急激なカーブ(S字型カーブ曲線:引用者注)を作り出す人」をこの語で呼ぶと自分で定義しているので(p.66)まあ咎めるまでもないかも知れないが、これは正直言って強引で不適切な定義であるといわざるを得ない。村中璃子氏が「トリックスター」である(p.67)というのは、定義があってもかなりミスリーディングであり、これはたぶん著者が「トリックスター」の語の文化人類学的使用法をよく知らず(知っていればとてもこうは定義できないだろう)、これまた「カッコいい」から使ったものだと思う。
 あとはわたしのイデオロギー的に受け入れられない主張が本書には少なからずあるが、それはまあよいであろう。著者が原発に対し太陽光発電を dis って、廃棄物になったときに困るではないかと仰って原発の廃棄のことを仰らないのはちょっとよくわからないとか、海沿いにある原発海上からのテロにまったく無防備だという事実を無視したり(でもそのことは政府自身が最近気づいた)とかしておられる、そういうことはいうまい。他にもあるが、また別に論ずることでしょうね。基本的によい本だと思う。
メディア・バイアスの正体を明かす (エネルギーフォーラム新書)

メディア・バイアスの正体を明かす (エネルギーフォーラム新書)

思うが、わたしも含め、無謬の人間などいないのである。これは自戒であるが、誤ったときに誤りを認められるか、むずかしいことだがそれが我々に問われているところであろう。なかなか、自分でもそうできる自信はない。それくらい、自分の誤りを認めることはむずかしい。

なお、本書にかなりケチをつけたが、著者はよく勉強しておられるし、言っていることの多くはまともである。それは書いておかないとフェアではないと思ったので追記しておく。ただ、著者でも無謬でないだけだ。それに、議論の仕方に少し残念なところが見られる。例えば、太陽光発電の付加金制度に問題があるというのは必ずしもまちがいとはいえないが、それで使われる「毎年、2〜4兆円もあれば、それこそ保育園の待機児童問題はすぐに解決できる」(p.206)などというのは、関係ないものを無理に関係づけてみせる、よくある間違った論法である(それこそ「リベラル」のよくいう、「戦闘機一機をアメリカから買わなければ待機児童云々」という間違った論法と同じ)。待機児童の問題は太陽光発電の付加金制度にかかわらず解決されねばならないのは明白である。これは残念だ。
 もうひとつ。「地球のどこかに、農薬も、化学肥料も、食品添加物も、組み換え作物も、ワクチンも、原子力も存在しない世界をつくってほしいと思う。そこに住む人たちの間にはリスクをめぐる争いはないだろうが、はたして幸せかどうかを知りたいと思う」(p.235-236)というレトリックなども、著者の考え方がよく出ていると思う。お前ら、科学技術の成果を享受しつつ、偽善をいうなというわけである。これも、科学技術は全肯定するか全否定するしかないというのに繋がる、残念な論法だ。技術は倫理と直交するのであり、極端に陥ってはなるまい。もちろん著者はリスクの評価を推奨しているわけで、硬直化した「リベラル」を排撃するあまり、ただ筆がすべっただけであろうが。

ついでにマジレスしておくと、過去にはそれこそ「農薬も、化学肥料も、食品添加物も」問題であった、つまりかつて少なからぬ人間に実際に害悪を与えたこともあったのだ。「農薬も、化学肥料も、食品添加物も」使って問題にならなくなったのは、人々のそれなりの努力が必要であったことを忘れてはなるまい。また、さらにマジレスしておくと、「農薬も、化学肥料も、食品添加物も、組み換え作物も、ワクチンも、原子力も存在しない世界」だからどうというのは、別に人間の幸福とあまり関係がないのではとわたしは思っている。かつては実際にそうだったのであり、技術が進歩して我々が幸せになったところは確実にあるだろうが、またそれで失われたものもたくさんあったであろう。

思うに、いまの若い人たちは「コスパ」と「リスク」の思考が得意で、それで判断すると例えば子供を作ることは「コスパ」がよくないし、「リスク」も大きいと判断したりするそうだ。まあそれは半分冗談だが、ホント優秀で「リスク思考」は得意だから、問題にするには及びませんよと著者にいいたい気もする。徹底したリスク思考、まったく幸せな人生ではあるまいか。ふふ。

どうでもいいことを書く。わたしはケータイもスマホももっていない貧乏人だが、そのことでいま特に不幸とは感じていない。しかし、スマホをもっている人は、もはやスマホがなければめっちゃ不幸であろう。そういうわたしも、いやわたしの老両親ですら、既にネット(家庭用 Wi-Fi)が繋がらないだけで大騒ぎ(つーほどでもないか)になる。そしてそのうちわたしも、どうしてもスマホを持たざるを得なくなる日がくるだろう。そして、それに依存することになるであろう。進歩とはそういうものなのではないだろうか。

明日から小旅行してきます。

*1:しかしむしろ、「市民運動に弱い」傾向というべきなのではないだろうか。

*2:つまり、初期値がほんの少しちがっただけで、のちの結果が大きく異なってしまうこと。ちなみこれは本題からは外れるが、「バタフライ効果」の科学的な比喩自体、あまりよくできたそれだとは思わない。非科学的な誤解を誘いやすい曖昧なもので、それはここでも証明されている。