佐木隆三『沖縄と私と娼婦』

曇。寒いくらい。
昨晩は野呂邦暢を読んで寝た。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第十七番 K.296 で、ヴァイオリンはグナール・レツボール、チェンバロはエーリヒ・トラクスラー(NMLCD)。■シューマンの「十二の詩」 op.35 で、バリトンはマティアス・ゲルネ、ピアノはレイフ・オヴェ・アンスネスNMLCD)。

モーツァルトのピアノ・ソナタ第八番 K.310 で、ピアノはファブリツィオ・シオヴェッタ(NML)。

Mozart: Piano Sonatas K 282 / 310 / 322 Rondo K 511

Mozart: Piano Sonatas K 282 / 310 / 322 Rondo K 511

  • アーティスト:Fabrizio Chiovetta
  • 出版社/メーカー: Aparte
  • 発売日: 2018/10/12
  • メディア: CD
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第五番 op.10-1 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NML)。こういう実力ある漢(オトコ)は好きだぜ。コヴァセヴィチというと、グールドが演奏会など止めるように忠告したというエピソードを思い出すのだが。コヴァセヴィチはどう答えたのだろうね。
Beethoven;Piano Sonatas 5

Beethoven;Piano Sonatas 5

 

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。佐木隆三を読む。自分としてはかなりゆっくり読んでいる。50年も前に書かれた文章だが、いまだにヒリヒリする。そして、どうしてもいまという時代を思わずに読むことはむずかしい。

そういえば、昨日野呂邦暢の随筆を読んでいたら、ちらりと佐木隆三の名前を見かけた。野呂が他の作家の名前を出すのはめずらしい。だからどうというわけではないのだが。

佐木隆三『沖縄と私と娼婦』読了。本書はルポルタージュであるが、まちがいなく文学でもある。それは、ここに「文章」があるからだ。例えば、本書の藤井誠二の文庫解説はどうやら「文章」ではないようだし、だから文学でもない。そう言うのは別に藤井を貶めたいわけではまったくなくて、いま現在「文章」というものはほとんどどこにもないので(いや、わたしが知らないだけかもしれない)、ただわたしは時々「文章」を読みたくなるだけのことである。というようなことは若い人たちにはまったく通用しないであろうし、わけもわかるまいし、アナクロニズムでもあろう。それはもう、どうしようもないことである。現代にだって才能はいくらでもあるが、「文章」はたんに才能や技術だけでは書けないものなのだ。まったく、つまらぬことを書いてしまった。

沖縄と私と娼婦 (ちくま文庫)

沖縄と私と娼婦 (ちくま文庫)

いうまでもないことかも知れないが、わたしのここで書いているのも「文章」ではない。「文章」はニセモノには書けない。

日没前、散歩。今日は涼しい。
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道路拡張工事のため削り取られた、長塚のお宮さんの鎮守の森。たぶん 100年も 200年も変っていなかったここの佇まいが好きだった。
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左は東海北陸自動車道


エリアーデを読む。

橋本治の『ひらがな日本美術史2』を読み始めたが(何で 2かというと、第1巻が図書館で既に借りられていたから)、これはとてつもない本だ。まだ冒頭のしばらくを読んだ(そして見た)だけだけれども、自分は初めて「院政」のことがわかりましたよ。どうして平安時代の「摂関政治」が「院政」に替わるのか、本書の説明ほど説得的なそれを知らない。それで、「保元・平治の乱」の背景も一発でわかった。それこそが、「平治物語絵巻」の説明なのだ。しかし、題は「ひらがな」だけれども、これはむずかしい。それに、自分は日本に対する感性がいまひとつ弱い。これは本当に恥ずかしいことであるが、じつはわたしはお勉強する意欲が多少湧いてきている。感受性も、いまから養うのではまあ遅すぎるのだけれど、遅かろうがそんなのはかまわないのだ。橋本さん、知性と教養があって、目が確かな人というのはこういう人のことなのだなと思う。

ひらがな日本美術史 2

ひらがな日本美術史 2

  • 作者:橋本 治
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1997/08/01
  • メディア: 単行本
しかし、このシリーズを中学生のときに手にしていられたら、何とよかったことか! 西洋美術の画集は家にあってそれはわたしにとって大変大きかったが、残念である。その意味では、いまの中学生がうらやましい。

いや、あれには日本美術も含まれていた筈だ(そのうち確認してみよう)。自分の意識は西洋にばかりあったにちがいない。