山田太一作「ながらえば」(1982)を観る / 「食料安全保障」という言葉について

晴。
 
大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。エビ香るクリーミービスクパイ+ブレンドコーヒー457円。
ペソアの『不穏の書、断章』の続き。僕にペソアはいまひとつ合わないな。ペソアって、言葉の世界と日常が通じていなくて、日常から遊離した言葉の世界に生きているように見える。日常世界から浮遊した感覚に生きていて、ゆえに、例えば旅をしても意味がない。日常が既に存在しないのだから。これは、わたしの目指しているところと正反対といえるだろう。わたしは、現実がいかに(精神的に)貧しくとも、常にその中で生きていくことを工夫したい、理想としてはそうである。
 
帰りは車中でカール・ベームモーツァルト(いわゆる「グラン・パルティータ」とか、シンフォニア・コンチェルタンテとか)を聴いていて、ベームいいなって思った。暖かい陽ざしを浴びて、草原(くさはら)に座りゆったりのんびりしているとでもいうような。こういう音楽はいまほんとになくなったな。
 
昼。
自分のブログ記事を遡って読み返す。
 
U-NEXT で山田太一作『ながらえば』(1982)を観る。先日山田太一さんが亡くなったが、それで老母に勧められて観た。主演は笠智衆。もう、最初から最後まで泣いていたし、ラストはまさに号泣。もちろんドラマ自体も感動的だったのだが、わたしは明治から昭和、特にもはや失われた昭和に泣いていたのではなかったかと思う。夫婦の関係はいまとまったくちがっていて、平成から令和の夫婦なら絶対に受け入れられない形態だろう。(ほとんど理解すらできまい。)わたしも、もちろんいまの方がずっとよいものに思えるのだが、それはそれで、自然の風景や古くさい都市、人のもつ雰囲気もすべてひっくるめ、わたしは昭和の人間だというのを痛感する。いまと比較して悪いものだが、ただただわたしが生きてきたのはこういう時代で、たんにもうこういう(雰囲気をもった)世界は存在しない。
 なお、笠智衆宇野重吉の共演はこの作品だけということだ。本作、悲しすぎて、もう二度と観返すことはないと思う。65分。

 


 
夜。
NHKオンデマンドで、「NHKスペシャル シリーズ 食の“防衛線” 第一回 主食コメ・忍び寄る危機」を観る。49分。テレビでこの Nスペを 5分間にまとめたものを観て思うところがあったので、課金して観てみた。あまり扇情的な言い方はしたくないが、知らないことが多くて衝撃を受けた。
 この番組のキーワードは、「食料安全保障」である。ウクライナ戦争で明らかになったとおり、日々の食べ物を外国に依存することは、問題がある。当たり前だが、食料がなければ、我々は生きていけない、ほんとに当たり前だが。
 それゆえに、食料自給率は、ある程度上げなければならない。いまの日本の食料自給率は 38%であるが、その数値のほとんどは米が占めており、じつはそれ以外の食べ物のほとんどは既に輸入に頼っている(ウチはスーパーで買う野菜や肉類もほぼ国産なので、それすら衝撃だった)。しかし、とにかく米はほぼ 100%自給できていることは事実だ。
 しかし、現在、ここ数年で急速に米農家が減っており、2040年には現在の 1/4 の数字になるという。いや、これから 5年ほどで、日本全体で激減するとわかっている。原因は、米農家の高齢化である。いまの米農家の平均年齢は70歳、もはや限界にきている。そして新しく農家になる人は非常に少ない、つまり、若い人が職業として農業を選択しない。
 簡単にいうと、我々が国産の米をふつうに食えなくなる日が、(このままだと)近い将来に必ず来る。実際、外食産業などに米を供給するトップの専門業者が、国産米を充分に集められなくなってきている異常事態が、放送されていた。それは既に始まっているのである。
 では、どうして新しく農家になる人がこれほどいないのか。それは簡単である。米作では充分な収入が得られないからである。
 もちろん、国産にこだわらなければ、米を輸入すればいい、とはいえる。そこで出てくるのが、「食料安全保障」という観点である。繰り返すが、ウクライナ戦争を見ても、常に外国から充分な食料が調達できるわけではない。仮にそうなった場合、我々は飢えることになる。ゆえに、日本人も「食料安全保障」という観点から、農業を考え直さねばならない。
 参考として、スイスの例が挙げられていた。スイスは「食料安全保障」の観点から、国民的に議論し、憲法まで変えて食料自給を高めている。
 まあ、そんな内容だった。
 
この番組内ではほとんど明言されていなかったが、これは「地方消滅」の問題とリンクしているようにわたしには思える。
近江・永源寺にて紅葉を見る / 地方消滅時代 - オベリスク備忘録
NHK の地元局の報道で見たが、飛騨のある高校では、卒業生の 80%が地元を離れるという。これでは当然、地方は消滅する。当然ながら、農家になる若い人などいない。
 地方は荒廃し、日本という文明、日本の文化、社会構造も、大きく変化することが予測される。わたしはつい、亡国ということを思った、まちがっているかも知れないが。
 
 
追記。ちょっと検索してみると、農家の激減は稲作の大規模化でカバーできるという反論(?)を見かける。それを論拠にこの番組を disり、むしろもっと稲作農家の数を減らし、大規模化を進めていくべきだという有名な論客(山下一仁という人である)もいるようだ。この問題について番組はかなり時間を割いていて、農業の大規模化はリスクに弱いこと(コロナ禍の事例が引いてあった)、大規模化のスケールメリットはある程度までしか利かないこと、また、大規模化には労力の限界があること、そして大規模農業に従事する農家も高齢化していることを放送していた。もとより、わたしの判断できる問題ではないが、わたしには番組の主張はかなり説得的に思えたことを書いておく。
 稲作の大規模化が解決策なのか、番組が正しいのか、検証は簡単である。充分に多くの若い人たちが大規模稲作を仕事にするか、大規模稲作はいわば「持続可能」なのか、そこだけでわかる。番組は、(いまのままでの)大規模稲作は「持続可能」でないと、暗にいっている。ちなみに、稲作の大規模化とは、随分前からいわれてきたことであり、既にめずらしい意見でも何でもない。
 
なお、(よくは知らないが)どうやら山下氏は、国策としての稲作は悪しき補助金行政の最たるものであり、米農家は「補助金漬け」になった甘やかされた職業だと主張しておられるようである。わたしもそういう意見は正しいように思っていたのだが、では、そんな濡れ手に粟のおいしい仕事に、若い人が就かないのは何故なのか、あらためて考えてみると不思議である。
 わたしの住む村でも確かに農家は補助金をもらって稲作を続けてきたが、誰もやめたいばかりで、実際田んぼはどんどん宅地化している。町内には農業をする人(すべて老人だった)はほとんどいなくなったのであり、いったい、我が村の田んぼは、いま誰が米を作っているのだろう?と、いまさら不思議に思っている。いや、番組で放送していたように、我が近所でも耕作が放棄された田んぼ・畑が急にどんどん増えているのだ。
コメ農家はみんな赤字なの?食料安全保障と農業のキホンの「キ」(3) | 食料安全保障と農業のキホンの「キ」 | 三菱総合研究所(MRI)
 
とまあ、素人が、誰もマジメに読まない長文を書いてしまったよ。バカだなあ。こんなところでイキって、何だというのだ。