「ケイコ 目を澄ませて」(2022)を観る

晴。いい天気。
 
スーパー。五倍ポイントの日。
 
昼から珈琲工房ひぐち北一色店。
クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』(原著1962、邦訳1976)を再読し始める。わかってはいたが、レヴィ=ストロース、頭がよすぎて、めっちゃむずかしい。わたしの能力を完全に超えているので、ふだんの倍くらい読む時間がかかる上に、理解もおぼつかない。でも、再読は楽しみでもある、たぶん、(いつか忘れたが)初読のときは、何もわからなかっただろうから。
 ただ、本書は有名な本だから、いいたいことは、大雑把にはわかっている(筈である)。いわゆる「未開人」の知的能力は、現代文明人たる我々のもっているそれとまったく同じなのであり、それは新石器時代から何もかわらない。科学の思考も「未開人」の思考も、世界に対するその作用のあり方自体は同じである。では、現代科学と「未開人」の思考が、我々「文明人」にちがって見えるのは、何故なのか? そして、その二つは、はたして常に科学の方が「優れている」と、いえるのか? とまあ、そういうことだ。
 おそらく本書では、レヴィ=ストロースの内心はあまりさらけ出されていない。柄谷行人などは、レヴィ=ストロースを「構造主義者」なる、デカルト的合理主義者として読んでいた。しかし、いまではそれでは充分でないことが知られている。レヴィ=ストロースは「文明」と「未開」では「未開」の方にシンパシーがあり、実際、文明の中の「新石器人」であると、みずからを見做していた、「筋金入りのペシミスト」(中沢さんのレヴィ=ストロース評)であった、と。

 
 
フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』(元本2000、平凡社ライブラリー版2013)を読み始める。200ページくらい読んだ。ペソア、なかなかいい感覚をしている(何様!)。でも、少々感傷的だ。自分が何者でもない、交換可能な存在であることなど、当たり前といえば当たり前なのに、それを大げさに言い立てないではいられないのがペソアだ。自分は何者でもない、そしてそのまま消えてゆく、まあ、それはそうなんだが、ふつうそんなことは誰もいわない。当たり前のことだから。ペソアは自分に才能を感じているのだろうな。自分は何者でもないが、それを意識している私は何者かである、と。でもまあ、それはそれでいいか、ある種の人間はそういうものか。それを咎めるまでもない。いや、自分にだって、ペソアのような虚栄心はあるだろうしな。わたしもこのブログにそういうことを書きつけている筈だ。
 
夜。
U-NEXT で『ケイコ 目を澄ませて』(2022)を観る。監督は三宅唱。耳の聞こえない女性ボクサーを岸井ゆきのが演じていて、心うたれた。老いた会長が三浦友和とは、エンドロールまで気づかなかった。時は留まることなく、否応なく残酷に過ぎていく。たぶんケイコは、嫌がっていた新しい環境を受け入れて、ボクシングを続けることになるのだろうな。彼女はまだ若く、若いって、そういうことだと思う。