精神の貧しさとこの時代

晴。
寝ている間に凡庸化、それはかまわないが、生きとし生けるものへの惻隠の情は、心の土台であることをあらためて痛感する。これがないと、心はとんでもないところへ至ってしまう。と、いつもいうことであるが。
 
NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏チェロ組曲第六番 BWV1012 で、チェロはサユウン・ソルステインスドッティル(NMLMP3 DL)。■イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第二番 op.27-2 で、ヴァイオリンはヒラリー・ハーンNMLCD)。
 
昼。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー440円。ひさしぶりに『コレクション瀧口修造9』の続きを読む。いまさらダリやミロについての昔の文章を読んで何の意味があるか、と思われるかも知れない。もはや我々はダリの知性など軽く超えてしまっているのかも知れないし、そもそもミロは高度に知的な画家というわけでも何でもないのかも知れない。しかしわたしは当然ともいえるように、ダリやミロどころではない、どうしようもなく(精神的に)貧しい。まあわたしだけならそれで何の問題もないが、たぶんあなたたちも同じく貧しいだろう。え、そんなことはない、って? そうなのかも知れない。
 だいたい、(精神が)貧しい貧しいっていつもうるさい、そのこと自体が貧しいだろうって、まあそうだよね。でも、これはわたしの深い、深い実感なのだ。
 いつもながら、瀧口修造を読んで、世界の隅々までが美しい。それは、30分間くらいしか持続しないが。
 
車外38℃、車の中でモーツァルトの第八ピアノ・ソナタ K.310 をたまたま聴く。肉屋、おいしそうな豚ロース肉。外へ出ると、青い空ともくもくとした白い雲。
 

シコンノボタンが咲いたことに気づく。
 

 
國分功一郎スピノザ』の続きを読む。おもしろい。
「このような真理観を密教的(エソテリック)と評することもできよう。有り体にいえば、そこに見出されるのは、分かっている人には分かるが、分かっていない人には分からないのが真理だという考えである。何より重要なのは、これがスピノザによって任意に選択された真理観ではないということである。観念の外側に真の基準を打ち立てようとする試みは必ず失敗するのだから、これは、我々が真理の標識を斥けて妥協なく考察するならば、どうしようもなくそこに至るほかない、そのような結論なのである。」(p.94)
なかなかよくわかっているな、スピノザは(何様!笑)。「観念の外側に真の基準を打ち立てようとする試みは必ず失敗する」とは、まさにそうである。そのあとの、「観念が適切な順序で獲得されていくための道こそが方法である」(p.96)というのは例えばネオ・プラトニズムの「流出 emanatio」を連想してしまうし、スピノザ幾何学的な記述体系の哲学者であったけれども、じつは「神秘主義的」とすらいえる内実をもつと思う。その記述形式は、内実を隠していることになるだろう。
 
夜。
國分さんの記述を読んでいると、スピノザの「神」は、アリストテレスの「不動の動者」、第一原因としての存在ではないし、また仏教の大日如来のような、人間には不可知の「世界の全体運動そのもの」でもないように見える。むしろ、抽象的で概念的な、真理のネットワーク(あるいはツリー?)のようなもの。(テキトーな印象にすぎないが。)
 
スピノザ』第三章に入る。『エチカ』の読解。國分さんの説明はじつにわかりやすいが、ではスピノザの説明がこの世界の何を実際に説明しているかというと、わたしごときには非常にむずかしい。例えば、國分さんの警告どおり、わたしにはスピノザの特殊な「属性」概念が、よくわからないな。属性は実体の属性であるのだが、で「実体的属性」(p.144)っていわれてもねー。
 また、神。國分さんはいう。「スピノザはどこかに神が存在していると言っているのではなくて、我々がその一部であるところの自然が確かに存在しているということ(二字傍点)、この事実そのものを神の観念によって説明したのである」(p.149)だそうであるが、「自然の存在=神」というのは、いかにも陳腐というか、これだけなら「オッカムの剃刀」によっていまなら簡単に切り落としてしまえるだろう。わざわざ「神」なる概念を導入する必要はない。
 まあ、いい。さらに万物は「神の表現」という表現もあるが、これも陳腐という他ないそれである。スピノザというと「汎神論」(わたしはこれにあまり興味がない)という伝統的な紋切り型があるが、それとはどうちがうのかな? ま、わたしは哲学をよく知らない。
 
スピノザ』第四章。スピノザ哲学が「言葉遊び」でなく、どこまで世界を、人間を正確に記述しているか。いいかえれば、現代にあってスピノザを読む意味はあるのか。ここまで来ると、わたしごときでは判断がむずかしい。わたしの見ている世界が、スピノザのそれと随分ちがうのは確かだ。まあしかし、そんなのは他人にはどうでもいいことだろう。
 
わたしが(昔から)スピノザに違和感を覚えるのは、その「感情」概念だ。今日のエントリの上の方でわたしがいっている「精神が貧しい」というのも、知性だけでなく、「感情」のことと思ってもらっていい。わたしにとって、「感情」はそれ自体豊かだったり貧しかったりするものだが、スピノザには思いもよらないことだろう。たくさんの知識をもたず、あるいは高度な認識のできない人間でも豊かな感情をもつということはあり得るし、逆に高度な知性を操ってもじつは底が浅い、貧しい感情に動かされている人間もいる。とわたしは思っているのだが。
 
精神の貧しさとこの時代。
世界が意味と知性で息苦しく覆われていること、覆い尽くしていこうという際限のない意志。と、「妄想による欲望の喚起」と「(物質的かつ精神的)消費」の無限サイクルとしての、高度資本主義。
 
解体。いやまあ、「脱構築」っていったっていいのだが、むしろ解体。