吉川浩満『哲学の門前』 / 國分功一郎『スピノザ』

曇。
追われる夢を見る。ときどき見るが、何から追われるのか。たぶんひとつは年齢、老い、死からであるような気がする。
 
昨晩は『【推しの子】』(2023)をつまみ食いしていた。誰かが「有馬かなエンドじゃなかったら泣いちゃう」っていっていたけれど、同感。あと、わたしがいうまでもないが、OP すばらしい。アニメを観返すときは OP、ED は飛ばすことも多いのだが、この OP はつい観てしまう。やっぱり YOASOBI ってすごいのかなーって思う、「夜に駆ける」のときもホントにハマったしな。って、コアな音楽好きの人に軽蔑されそう笑。
 一昨日は『お兄ちゃんはおしまい!』(2023)を遅くまでつまみ食いしていたし、俺アホだな。どうでもいいがドイツ人が『おにまい』めちゃ好きって、何か笑える。
 
 
昼。
「ひぐち」へ読書に行こうと思ったのだが、駐車場がほとんど空いていなかったので、今日は止める。お盆だから、休みの人が多いのだろうな。
外気36℃、日差しが強くないせいで凌ぎやすく感じられる。体温より低いせいもあるかも知れない。
 
図書館から借りてきた、吉川浩満『哲学の門前』読了。うまい文章で書かれた、今風のまずまずおもしろいエッセイ集。わたしこそ、著者が決してなりたくないという、社会から遊離した「唯我独尊系」「世捨て人系」(p.197-198)の人なのかも知れないな。著者はたぶん、「他者が存在しない人」というような意味で、それらの語を使っているように思われる。

なお、「唯我独尊」というのは、誰もが「自分=世界」の外部に出ることはできないという意味で、正しい。「他者」もまた、自分の中にあらわれるという意味でのみ、「他者」である。「他者」が仮にわたしを殺そうが、わたしは自分においてのみそれを感じることができる、としかいいようがない。ってまあ、そんなことはいいんだけれども。ちなみに、わたしは独我論者ではないし、独我論にはあまり興味がない。独我論というのは、所詮インテリの(病的な、といってもいいかも知れない)妄想である。
 
 
國分功一郎スピノザ』の続きを読む。承前。第五章、第六章を読んだ。わたしには非常にむずかしい。第五章は『神学・政治論』、第六章は『エチカ』の第四部、第五部を読んでいるのだが、わたしがひさしぶりに本書の続きを読んでいるせいもあって、スピノザ独特の概念の使い方の理解がおぼろになっている。このとき困るのが、本書に索引がついていないことだ。これ以上の、本書の欠陥はない、これだけでも本書は学術書として他人に読んで理解してもらう資格を欠いているといっていいだろう。スピノザの考えにいろいろ納得いかないことがたくさんあるのだが、それをここにきちんと書くこともできない。残念である。
 ただ、それを措いても、特にこの第五章、第六章はむずかしすぎる。こんなに難解な読みを理解しなければ、我々はスピノチストたり得ないのか? これでは、我々のほとんどに、それは許されていないことになる。まったく、バカで困るぜ。
 ひとつだけいっておけば、スピノザにとっては「能動性」こそ求めるものであり、「受動性」はその逆であることだ。いや、ほとんどの人にとってそれは当たり前のことで、特に異論はないと思うが、残念ながらわたしには必ずしもそうではない。わたしにとっては、「能動性」は硬直化と結びついている。刻々と変化する世界を受け入れるという「受動性」なしの能動性は、世界に「変わらない自分(=自我、といった方がいいかも知れない)」をただただ押し付けるだけである。その(悪い)意味で、硬直化している。もっとも、この解釈はただ本書がよく読めていないだけかも知れないが。
 あと、やはりユダヤ(・キリスト)教的な超越的絶対唯一神に、わたしはどうしてもつまずいてしまう。どうして、倫理学(エチカ)に、神が必要なのか?という素朴なつまずきだ。スピノザから、神を切り離すことはできないようにわたしには思える。ほんと、恥ずかしいくらい素朴だが。
 
 
夜。
國分功一郎スピノザ』読了。本書はわたしにはレヴェルが高すぎたように思う。結局、スピノザを現代に生かせるかという点で、わたしに何か得るところがあったのだろうか。疑問という他ない。残念ながら、わたしという読者のレヴェルが低かったな。スピノザは「賢者」として「第三種認識」により能動的に永遠の高みへと駆け上がってしまい、我々支配される受動的な愚民(本書では「無知者」といわれている)は愚民のままという感じがする(p.324-326)。